映画感想:鬼滅の刃、無限城編第一章
映画感想:鬼滅の刃、無限城編第一章
日本に一時帰国し、観光や用事の合間に鬼滅の刃を映画館で見た。
「僕は近くで待ってるから」
「来るんだよ」
鬼滅の刃を漫画やアニメで知ってる私と息子に加え、全く知らず、かつ、日本語がわかるとはいえそこまでのレベルではない主人の、どうせわからないのだからどっかで待っているという至極まともな要望を無視して、暗闇の中に引き摺り込む。もちろんチケットは私が買った。
そこに何か偉大な理由があったかというとそんなことはもちろんなく、見たくないし興味ないと言っても連れて行かれ中国語の映画に私が付き合った時の、復讐である。中国のアニメもここまで来たんだぞとしつこく言われ、心底うんざりしたのだ。
映画といえばポップコーンである。ポップコーンといえば、キャラメルである。あまじょっぱいのである。我が家の家訓だ。映画といえば、ポップコーン!くだらない家訓だ!
「お母さん、もういいって」
「お前ら、先に入ってろ」
激込みしてた売り場に齧り付く。どうせ映画なんて最初は広告ばかりで本編始まらないのだから、ギリギリまで粘って買ってやるぜ!つうか、映画館の皆様、ちゃっちゃとポップコーンとコーラ、売れや!少子化でここも人手不足なのかー?
ちなみに、ポップコーン、ドリンク二つをセットにすると、やばい量で提供される。私的には、ドリンクひとつにポップコーンのセットにして、別途ドリンクを追加するかで悩んだ。そっちの方が尋常な量なのだ。しかし、合計金額はドリンク二つセットの方が安いのである。悩んだ挙句、フードロスの観点と私の健康の観点から言って好ましくないが、やっぱり金額が安くてポップコーンが食い切れない量で提供される方を選んだ。マックのセットでも単品で2つ買うと3つのセット金額を上回ることあるし、こういうことってありますよね……。
で、どうでもいいポップコーンの話は終わりにして、映画である。無理やり映画館に引き摺り込まれた主人は、映画中にスマホを眺めるという愚行を行っていたが、私と息子は堪能した。
ちなみに、善逸が死にかけてじっちゃんと三途の川を挟んで語り合うシーンは泣きました。うちの子も泣いてたぞ。それと次にグッと来たのは、蟲柱の胡蝶さんが、一回敵を前に折れそうになって、しかしもう一度立ち上がり立ち向かうシーンです。ちなみに私はドラマや映画を見ながら、よく泣く人間です。
感動の後、ホテルに帰ってから、電子漫画の蔵書で鬼滅の刃を途中から再度読み直した私。映画のセリフのほとんどが忠実に再現されていることを知る。
結論から言うと、鬼滅の刃は原作がいいです。これはストーリーやセリフがいい。ただ、画力はそこまで高くない。その弱みをアニメや映画になるときに一流の方達が補ってあまりある。まさにチームプレイだなと。
しかし、ここでやはりもう一度自分なりのポイントに立ち戻ると、宝石の原石である、やはり原作がいいなと思います。どんなに美しい画面や迫力ある音を作れるとしても、磨く原石自体に輝きがなければ、ここまで輝かなかっただろうなと。
そして、ここまで光る原石を生み出せる原作者というのは、やはりなかなかいないのだろうなとも思う。昔に比べてアニメや漫画の制作数というのは飛躍的に伸びているのだろうけど、だからといって、日本国内にある金鉱とでもいうべき原作者の数は限られてる。
私は、物語を書く人というのは、育成して出るものでもないと思うんですよね。テクニックを育成することはできても、コアな部分はやはりその人本人が生きる過程で何を抱えて生きているかに根ざしていて、育成して出てくるものでもないと思うんですよ。
それでも、大量生産しなければならないので、市場のために金鉱という名の原作者を探して右往左往するのだろうな。なーんて、ちょっと偉そうに書いてみたりして。てへ。(中年のてへは万死に値するが、まぁ、いいだろう)
個人的には、少年漫画の肝はやはり善悪を語る部分にあると思う。つまりは、悪役が悪を語り、善役が正義を語る場面にあるのだと思う。これが、中途半端な作品だといまいち納得できないような、嘘くさいセリフが並ぶように思うのですが、鬼滅はセリフとキャラがきっちり繋がっていて、確かにこのキャラがここに存在して、こう思って、こう言ってると感じさせるものでしたね。
蟲柱の胡蝶さんが、肺をズタボロにされて瀕死の状態で、さらに最後の攻撃を仕掛けるか、もうやめるか、心のたけを独白するシーンがあるのですが、原作に忠実に従ったセリフに、声優さんが心を込めて読んでましたよね。漫画だとサラサラ読んで終わりですが、アニメだと一つ一つ振り絞るように声にするのを聞いているのです。そのセリフとセリフの間の 間 が、感情を呼び起こすためには必要なので、まるで胡蝶さんのすぐ傍にいてその乱れた息の合間に絞り出される声を拾っているような気持ちになりました。
ここぞという時のセリフには、セリフとセリフの間に 間 が必要で、小説なら、合間に地の文を挟み間を作る。漫画なら、やはり間を作るためのカット割りがある。静と動を感じさせる画をどう交互に入れるかで、これもまたテクニックのいる作業なのだと思うのですが、これでまたアニメとなると方法が別で、画面構成もあるのでしょうが、アニメは実在の音を使用できるので、セリフとセリフの間に 間を入れることと、声優さんの声による演技力。最後に来たのが、テレビよりもっとど迫力の映画館の音響ですかね。
いや、丁寧に作られてたなぁ。
ちょっと話は変わり、妹である私とは違って大人になってからは普段はアニメは見ない我が姉。しかし、鬼滅は別枠で、彼女も見ていた。
「何がいいの?」
「健気」
一言で言い表してくれました。健気。健気がいいんだと。ちなみに姉も私も子供を産んでいるので、キャラを見ていると母性本能が沸いているかもしれません。
この健気に沿って解釈してみると、鬼滅って、生きるか死ぬかの瀬戸際によくキャラが追い詰められますが、この時の勝つのを諦めそうになる人間の心理を非常にリアルに書いてるなと思います。
親や家族を鬼に殺されて、はたから鬼殺隊の子達というのは、生きようとしていない 人たちだと思うんですね。だって、自分が生きようと思ったら、鬼殺隊なんかしないほうがいいに決まってるんだから。生きる理由が、自分の大切な人を殺した鬼を殺すまで生きる、になっているのです。
自分が死ぬかもしれないとわかっていても、殺さずにはいられない 人たちだということで、やはりこの、大切な人を奪われ、生きる目的がもはや復讐になってしまうという、古典的でもあり、しかし、やはり永遠のテーマかなと。
その、殺すまで生きている人の考えは、仇が打てたらもういつ死んでもいいわけで、だから、胡蝶ちゃんも、肺がズタボロになり、自分はもう死ぬとわかっていて、もうこのまま諦めて死ぬか、それとももうひと暴れしてから死ぬか その二つの選択肢しかないという。
本当にあと少しで死ぬ、負けてしまいたい、さっさと死んで楽になりたいと思っている人間の、それでも最後に湧き上がってくる力ってなんなんだろうな。ここではこれが、わたしから大切なものを奪ったお前だけは許さないという、やはり復讐に根差した、人間の生きようとする思いなのかなぁ。
こいつを殺さずには死ねないというあの思いを感じると、これが、健気かなと思う。
鬼滅では、もともと人がめちゃめちゃ死んでいるし、それに、鬼を倒すために鬼殺隊の人もどんどん死んでますよね。その中で隊員の鬼に対する恨みもどんどんと積もっていくんですが、それでも不思議な清涼感があったのだよな。
多分それは、炭治郎のせいですよね。鬼滅では、鬼に対するモノホンの恨みを吐くシーンもあって、それはリアルだし、確かに復讐を賛美するような部分もあるのだけど、それは、普通の人間が普通に陥る状態だと思うんです。ただ、物語の中心にいる炭治郎の戦い方はそれらとはちょっと違って、猗窩座に対して、殺気を消したところで勝機が巡ってくるようなあたりからかな。
炭治郎のお父さんが、亡くなる直前に人喰いグマを一瞬で倒す場面が出てくるのですが、人の言葉を介さないクマに向かって、この線を越えずに戻れば命は奪わないが、越えれば家族を守るためにお前を殺さなければならないと語るシーンがある。
私は、生きていくってそういう側面があるよなと思う。つまりは、鬼は確かに禍々しい存在だけど、だから切るということでは、本当はないと思うんですよ。やらなければ、自分にとって大切なものを守れないから、だから切るってことで、自分の方が正しいとか相手が間違ってるとか、そういうことを考える必要は本当はない。
自分が正しいから相手を切るのではなくて、自分が死にたくないから相手を切るというのが本当なのだと思ってます。ただし、相手にも生きる権利があるから、境界線を越えない限りは手を出さず、線を越えたら有無を言わさず切る。
切らなければ切られるのだから。
好き放題、訳のわからないことを書いた挙句、本人だけ存分に満足してさりませう。
あ、ちなみに、やっぱりポップコーンは大量すぎて、息子と私の2人では平らげることはできずに終わりました。
汪海妹
2025.09.07




