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とりとめのないこと 抜粋  作者: 汪海妹
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滋味













滋味













挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)


主人の故郷である安徽の料理を振る舞うレストランにて、主人の故郷仲間と集う。安徽といえば、黄山という山が世界遺産で有名だ。私も騙されて連れて行かれた。何が騙されたって、景観は前評判ほどよくはなかったという話だろうかというと、そういうことではない。楽に登れると聞いてたけど、別に全然ぜいはあしましたけど?という話だ。


大体、中国人は日本人と比べてズレている。


「武漢に出張になって」

「へー、武漢は近いよね」

「そうなの?」

「高鉄で5時間だもの」


5時間かかって、近いのかよという話である。中国人の 近い や 楽だ はよく確認したほうがいい。


この黄山、運が良いと雲海が見える。我々も運が良くて雲海が見えた。これは本当に綺麗だった。綺麗というのは実はぴったりの言葉ではない。神秘、あるいは、神奇 これは中国語だが、そういう言葉がぴったりだ。


安徽レストランの中華テーブルは馬鹿でかい円盤が昨今は電動で回るのであるが、その真ん中に竹細工の黄山がある。ミニチュアのおもちゃのような山だ。そして「我がレストランの売りでございます」という声と共にドライアイスが置かれる。


あれは江戸時代だったろうか、お伊勢参りブームがあって、でもだからといって皆が皆お伊勢へ参ることはできない。だから江戸市中の庭にお伊勢参りの道中を模した 小さな日本 を作ったのだそうだ。庭を散策するとお伊勢参りを体験できる。有名な滝を小さく人工で作ったりという具合にだ。


それを思い出した。小さな黄山がドライアイスの雲海に沈む。


それから山のようなご馳走が来る。電動回転は良くない。取りたいものを取るまで待ってくれないのだ。必死で取り箸を動かす。


中華料理というのも地方によってずいぶん違うのだが、さすがにもう長く住んでいるだけあってずいぶん食べた。中国とはどんな国か。一言では言い表せないのだけど、ただ一つ言えることは、中華料理はガサツではないということである。


どの層の中国人とどのように出会うかによって中国に対する印象は変わるだろう。加えて中華料理だってどの地方の料理をどんな店で食べるかによって違うのであるが、その味は実に複雑に作られているのである。


食べればわかる。中国人は食べることに貪欲である。しかもそれは、ここ数十年そこらの話ではない。


中華料理を食べればわかる。確かに中国には長い歴史があるのだということを。


その国のことを理解したければ、その国の料理を食べれば良い。誹謗中傷になるから国名は伏せるが、ブロッコリーを生で食べている国があって、どんだけ野蛮な国かと思った。先進国も先進国な国だっただけに、生ブロ事件は私の中で忘れられない出来事となった。


人生は旅である。


食い道楽な父と母に育てられ、幼い頃から幅の広い味に触れて育ったのは私にとって幸運なことだった。生きることは食べることというのは現在放映中のドラマのタイトルだったろうか。


子供の頃には 美味しい と思わなかった味がだんだんわかるようになったり、あるいは今まで出会ったこともないような新しい味に出会うこともある。これは人生の喜びである。味というのは存外奥が深く、複雑なものだ。腕のいい調理人によって作られた料理の味は、森の中をゆくような冒険とも言える。味わいに過程があるのだ。


生きることは食べること ただ、お金があれば、それが味わえるというものではない。自分は味の器である。味わうというのは自分という楽器が響くことができるのかという事件でもある。目で見て記憶したように、鼻と舌は今まで食してきた味を記憶しているわけだが、これが新しい味を食したときに蘇る。脳が今までの記憶と比較しながらその味を味わう。味を比べることのできる舌を持っているかというのが一つ。


もう一つ重要なことがある。それは自分が健康であるかという問題だ。


人生の後半戦での美食はここが重要だ。美味しいものを食べるために体を整えないとならない。


山のように並べられ、周り続ける大テーブルを前に、子供はがむしゃらに好きなものを好きなだけ食べている。でも、大人はそうはいかない。美味しそうと思うと同時に、ま、簡単にいえば胸焼けがするのだ。


好きなものを好きなだけ食べれば、後から具合が悪くなるのが大人というものだ。


昔好きだったものを今も同じように美味しいと思うことはできない。だから、年齢とともに好きな食べ物や味は変わってゆくのが自然な成り行きだ。自分が最近好きな味は以前よりも薄い味である。味のその前に出てくる部分ではなくむしろ、出なければならないところはギリギリ出るのだが、そこからどれだけ 味を引いているか これに尽きる。


そして味が濃ければ隠れてしまって味わえない、素材の味と香りを楽しみたいのである。なんせ、血管を流れる血はするすると通ってほしいし、ね。


一番上の写真のラーロウは、豚の燻製肉。いわば中国版ベーコンで、木のまな板に載ってくるのが良い。何か古代にタイムスリップして戦場で食べる飯のようだ。物語を感じる。


そして、この透き通ったピータン。アヒルの卵である。上に載っているのは青唐辛子を刻み塩を加え少し置いたものだろう。唐辛子の塩漬けとでもいうのだろうか。中華料理はこれを赤でも青でもやるのだが、独特の、そうだなぁ、やっぱりこれは苦味、なのかなぁ。味を空間であちこちに置くとすると、やはりアクセントになる味だ。


例えばわさびも似ている。そのままだとのっぺりと終わるものにポイントをつけるものだ。これを唐辛子でやるのが中華。その量を引いて引いてギリギリでポンと出せる料理人は、腕が良い。


味は多すぎるといかん。ギリギリのバランスで保ち、さまざまな奥行きを感じると、味わう方にも面白みというかありがたみが出てくる。


それ以外にこの日感心したのは、パクチーの使い方だ。どっさりと使うと返って存在感を失うパクチー。これがやはりワサビの要領でほんのわずか使われている。それがやはり、なんというのかなぁ。わずかしか入っていないがためにより一層その香りの存在感を感じたのである。


歳をとってからの滋味とはこれだ。


人参には人参の、ごぼうにはごぼうの、そういうすべてのものに香りがある。肉の油と香りは最高だけど、それをわずかに絞り、わずかな油でそれ以外のものの味が引き立つようなそんな味わいが美味しい。


野菜の味が美味しく感じられるとき、変な話、自分が自然に帰るような気分になるのである。ワサビや唐辛子やパクチーは、それがほんのわずか入ることで、場面をガラリと変えるようなトリガーである。


本当に巧みに組み合わされて、味わうのが難しい味に向き合うとき、脳が活性化して、森に分け入るような気分を味わう。生き返るようなときだ。美味しいものはたくさんはいらない。普段を素朴に生きて、たまにの特別な日、心も体も整った状態で、生きてこれを味わっていることに感謝したくなるような、そんなご馳走を食べたい。


味にもまたそれにふさわしい物語があるのである。


汪海妹

2025.06.18



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