淀君のこと
淀君のこと
NHKの大河ですが、今は蔦屋十三郎やってて、去年は紫式部で、一昨年は家康だったではないですか。離れて暮らしている父と共通の話題を持とうと思って一昨年から大河を欠かさず見るようになりました。その時に読み始めた小説が、山岡荘八の徳川家康で、9巻から読み始めて、今、19巻なんですよ。10巻に何年かけてんだ?って話ですが、とほほ。
昔は読書家だった私も、ほんとかたなしですね。意地でも最後まで読んでやると思いながら、ちびちび読んでます。
19巻では関ヶ原が終わった後の場面があるのだけど、石田三成亡き後ですよ。淀の君の心情がさ、すごかったんだよな。
これは山岡先生による史実に基づく小説だから、本当にそうだったのかどうかはわかりませんからね、みなさま。同じ淀君を描くのでも、作家さんによって少しずつ違うと思いますし。そこは踏まえていただきたいのですが。
石田三成亡き後、淀君は、いよいよ天下を取った家康が、元々秀吉のものだった自分を所望するのではないかと思って待っていた、みたいな。
「えーーーー、いたっ」
(↑ネイルで前の古いやつを削られている。ネイルしながら読んでたの。すみませんね)
いや、現代でもいるわ。こういう女の人。と思いながら、どん引きしてました。
まぁ、家柄もよく。しかも織田信長の血縁。信長は家康の兄貴分なので、自然と淀君にも家康を見下す心理があるのだよ。つうか、秀吉も信長とその妹のお市の方に憧れの気持ちがあって、だから娘の淀君にもプレミアをひしひしと感じていただよ。
それで、日本一の男の秀吉の側室になって、子供儲けたわけだから、めっちゃプライド高いわけさ。
女としての美貌と、頭のキレと、家柄で、自分は日本一の女だと思ってるわけだから、家康が日本一になったのなら、自分を所望するだろうと思って、声をかけられるのを待っているのだよね。
それなら、声をかけたら淀君は家康に靡いたのか?
そうじゃねんだよ。そうじゃねんだよーーーーー!
自分は日本一の女なわけだから、家康はやっとこさ日本一になったら、もちろん、当然、淀君を所望するわけなのだ。しかし、応えるかどうかはまた別の問題なのです。
口説かないのが失礼に当たるというのだよ。こういうのはね。
私に取っては異次元の話です。
イケメンだからとか、愛らしい性格だからとか、そういう理由からではなく、もうこれは女としての関ヶ原ですよ。所望をさせることで、相手を征服したことになるやつですよ。欲しいのは、イケメンではなく、権力者を落としたというステイタス。
おーほっほっほっほっほう!
それで、家康がまるッと淀君をスルーすると、途端に家康の周りの側室の悪口を言い出すのです。正確には自分の側仕えに言わせる。家康の周りの側室は全部身分の低い女子たちで、田舎臭いし、なんて悪口を淀君の周りのそば仕えの女性たちが口々に言い募るのである。
女関ヶ原だぜ!
まるで見てきたように書いている山岡先生だ。しかし、読んでいる自分もめっちゃありそうだと思って読んでいる。時代は変わっても人間のこういうところは変わらないものだろうか。
学生時代はそこまで歴史に興味がなかった。何のために勉強するのかよくわからなかったし。だから、自分の脳内歴史ゾーンは結構綺麗です。綺麗って花鳥風月の綺麗ではなく、まっさらに近いという意味ですよ。
そんな自分がなぜ最近はせっせと大河見たり、中国の歴史物のドラマを見たり、小説を読んだりしているのか?理由はいろいろあります。さっきも言ったけど、お父さんと共通の話題が欲しいから。離れてるんだけどさ、離れてるだけにね。それから、いつか書きたい未来の自分の作品のための勉強になると思って。今と言わないところが自分らしいですが。
そして、これがいちばんの理由なのですが、身の処し方を学ぶため。
詳細は省きますが、リアルの生活で一度、かなり詰んでしまったことがあって、それがきっかけで私は転職をしているのです。現在はそれでまぁ元気にやれているのですが、なんというのかなぁ?
中途半端な正義で足つっこんで、逃げ出すしかならなくなったあの経験は、かなり痛かったです。遅ればせながら私も大人になったというか。
でもね、そりゃいざとなれば逃げればいいし、逃げなければならないのだけど、その度に自分は時間をかけて努力して積み上げたものを手放すわけです。自分が悪かったわけでもないのにね。
簡単に言えば、傷ついてしまって、なんで傷つかなければならなかったのか、その理由を求めるようになったから、歴史を学ぶようになったのかもしれません。つまりは、歴史の中で自分と同じように、あるいは自分よりもっと酷い目にあっている人々を探しているってことだ。
自分が浅はかだったなぁと思った痛い経験でした。
主観的には自分はもっとできるはずだけど、客観的に見て思ってたより浅はかだったなと反省した。自分という人間に何か杭のようなものを打ち込まれたような、そんな痛い経験でした。
人というのは最初はスクスクと成長するものですが、体の成長がまず止まり、次に内面的な成長も止まるというか鈍化する。普通、自分をある程度確立すると、人はその自分を壊して更なる成長をするのは難しいと思います。
以前は、なんというか、立派な人間というのは生まれつき立派だと思ってた。そして、自分も簡単に言えば人とは違う特別な人間だと思っていた節がある。本当に恥ずかしいことを書いていますが、他言はしなくても心の奥にはそういう自負を持っていた。
そして、実は少なくはない人が他言はしなくても実は心の奥に似たような自負を持っているのではと思います。
でもね、激しく転んで、この価値観が壊れました。
自分は生まれつき人とは違う特別な人間なのだと思い込んで、自分一人の空想の世界で生きていれば毎日はとても楽しい。自分で自分を完成させてしまうのです。だけど、歴史上に名を残すような人というのはそういう人ではないと思うのですね。苦難を乗り越えるから、本当の意味で特別になっていくのであって、生まれつき違う人というのではないのではないか。
別に歴史上に名を残そうなんて思ってるわけじゃないけど、ある程度自分の能力とか諸々に自信を持って 完成という名の停滞を迎えようとしていた時に、自分を粉々にされたわけじゃなくともドカンとヒビを入れられた、あれは、あれで、ありだったのかなと思う。
こんなとこで満足せずにもっと頑張りなさい。神様に蹴飛ばされたのかもしれない。
めちゃめちゃな解釈ですが、自分は要領がいいようで悪くしかし根性は割とあるので、そう思ったら前に進めた気がします。人生は解釈が重要です。他の人のものではない、自分の人生だからね。
そして、自分はできてたつもりだったけど、客観的に見ると停滞していた過去何年かのつけで、現在来る日も来る日もわからないことを調べながら働いています。その合間に家康の小説読んで、淀君にドン引きしているわけだ。
机の上の勉強だけで、生きていけるほどこの世は甘くないけれど、不思議なもので昔ほど、未来が怖くはありません。必ず大丈夫かと進む先を叩かねばならないのではなくて、人生というのはきっとすり抜けながら泳ぎきれたら、勝ちなんだと思います。
まとまりのないままに失礼。
汪海妹
2025.06.10




