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とりとめのないこと 抜粋  作者: 汪海妹
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怒りは創作の原動力なのだと思ふ。













怒りは創作の原動力なのだと思ふ。












先日、広州市で息子の空手の審査があって、親子3人で主人の運転する車に乗せられて西へ西へと向かっていた時のことである。私は助手席に、息子は後部座席に座っていた。深圳から東莞を抜け広州に向かう高速道路には、OPPOとVIVOのぱっと見工場とは思えないような壮麗な建物が建っている。


そこで、主人が段永平の話をし始めた。oppoとVIVOは、この企業家段永平の創設した会社、歩歩高電子から生まれた会社なのだ。


私の主人は商いを愛する人だ。なんの因果か私は自分の父親と似た人と結婚した。暇さえあれば主人は投資家の書いた株の本とか、企業家の書いた本を読んでいる。今は段永平との対話集を読んでいて、そこで感心したエピソードを運転しながら話してくる。


細かいところは聞き流してしまった。今覚えているのは二つだ。


成功して有名な人となった段永平氏はまだ無名だった頃に自分に投資して一緒に中国で事業をしてほしいと日本の松下に単身売り込みにいった。たくさんの人があってくれたが、しかし肝心の投資の話では皆曖昧に笑うのみであった。


松下幸之助を企業家として尊敬していた段は、その経営理念も学び自らの礎にもしていたようだが、松下幸之助のいない松下に、がっかりしたそうだ。そして、この会社は10年後、20年後に衰退すると予言したそうだ。


この話を聞いた時、そんなん、後からどうにでも言えるじゃんと思いながら、しかし、我慢強い私は黙って聞いていた。


ここで少しクッションとして話を挟むが、私の考えはこうである。パナソニックだってそりゃもう世界のパナソニックだ。例えば、80歳の会社と30歳の会社を比べることはアホらしいことである。同じ80歳まで順風満帆に来た時に初めて、批判を受けようと思う。というか、私はパナソニックの人ではありませんが。


中国人の主人と話していると、このタイムラグがある。会社なんて生き物みたいなものである。短時間ならブッ走ることはある程度の能力があればできる。しかし、たいていの会社は長くなってきたらその勢いは落ちる。それを今絶好調の若さの会社が、さも分かったふうに年長の会社を論じるのは、私にとっては眉唾なのである。


もっとも、私のこの意見というのはあれである。逆立ちしても生きてきた年数で年長者に敵わない若者を年長者がギャフンとさせる論法であるので、徹頭徹尾正しいとも言えない。


段永平という人をよく知らない。大きな会社を設立し、世界的に成功させているのだからそりゃ偉いんだろう。私は彼の対話集を直接読んでいない。主人というフィルターを通して触れている。だから、この後私が怒ってしまったのは、段永平のせいというよりは、主人というフィルターに突っかかったのだと皆様は理解してほしい。


段は頭がいい。その個性的な思考でもって、彼は松下幸之助のいない松下電気を糾弾し、それから、社会経済をバッサバッサと切っていく。その中で、主人がいい会社と平凡な会社の見分け方というのについて言及し出した。曰く、スローガンなんぞを会社の壁に掲げて、毎日頑張ろうとか、昨日よりも今日、今日より明日だなんて書いてはっていたり、一生懸命声を合わせてスローガンなんぞ叫んでいる会社はダメだというのである。なぜなら、優れた会社というのは無理して頑張らなくてもうまくいくように既に完成されているからだ。


つまりは、こういうことだ。段が認めるのはユニコーン企業のような、突出した可能性を秘めた企業であり、それ以外はみんなクズだと言いたいのだ。


流石にこんな酷い言い方はしていないのだけど、ただ、中国というのは……、現代の中国というのは、現時点では不動産不況を発端とした不景気に飲み込まれているものの、急成長を遂げてきた国であり、少なくはない非凡な才能が会社を起こし、奇跡を起こしてきたわけ。そういう時代の人たちだから、つまりは主人は日本で言うなら団塊の世代と似ているかもしれない。


だから、あまりにもその結果を出せない人や会社はクズだというような、そんな価値観をより強く言外に感じてしまうのです。


そこで一気に怒っちゃったわけ。


「そんなん、ただ、金持ちがフラフラとある日とある会社を訪れて、この会社は投資に値するかどうか眺めてみて、好き放題言ってるだけじゃん」


自分という人間は、社会で働いてもいますから論理的な面もある程度は持っていますが、私の本質は芸術家。理想家。感覚的に生きている人間で、そして、その時自分の脳内では、世界的な成功を収めたお金持ちが偉そうに庶民の人たちの働いている現場に出てきて、「こんな工場1円の価値もない」などと馬鹿にしている映像が浮かんでいたのです。


「投資家だけが世界を動かしていると思うなー」

「なになに、なに怒ってるの?突然」


その時、私はあまりに怒っていたのと、それと私たちは、語学の壁があるんですね。主人は難しい日本語はわからないし、私は複雑な話を中国語で話せない。だから主人にうまく伝えられなかったのですが、


でも、私がその時言いたかったことはこうなんです。投資家には投資家の視点がある。投資家は、会社の現時点を見る。それで、5年後、10年後の可能性を見る。でも、決して自分が会社に入り込んでその会社を少しでも良くしようとあれこれ考える人たちでは、まずないと思うんですよ。だって、これはダメだなと思ったら、別の会社にお金を出せばいいんですから。


投資家というのはそういうものですから、しょうがない。そういう見方や判断をするなと言いたいわけじゃない。ただ、自分たちの判断がそれ即ち万人の判断だと思うなってことを言いたかったんですよ。


もうちょっというと、お前らは金を投資するかどうか判断するだけで、その会社に対して全く責任がないだろうってことです。無責任に判断してるだけ。


でも、お前らダメと言われた会社は、ダメと言われたその翌日だって操業するし、会社は社員の未来に対して責任がある。会社って生き物だと思うんです。今はあまり良くなくても、努力して少し良くなる可能性はある。それでもユニコーン企業のような劇的な発展はしないでしょうが、でもそれだって意味のあることなんですよ。世の中が利益率の高い世界に注目される企業のみで成り立っていくわけなんてないじゃないですか。社会を成り立たせていくためには一部の優秀な会社とたくさんの普通の会社、それはどちらも必要なはずです。


政治家であれば、個々の点にのみ着目せず、企業群を面で捉えるでしょう。投資家の視点だけが全てではない。それはいくつもある視点や判断の一つにすぎない。お金というものを操るだけで、まるで世界を支配し、普通の人たちの上に君臨しているように発言していることに激怒してしまったのです。


「なんでそんな怒るんだよ」


そして、瞬間最大の怒りを感じた後に、確かにちょっと激しすぎたなとすぐ反省した。謝るつもりはなかったが反省した。


段氏はそんなに金持ちくさく本当に発言していたのか?また、主人の発言も本当にそこまで嫌味くさかったか?


段氏や主人の発言に、私という妄想力の塊が、勝手に物語を作って尾鰭をつけ、一人でかっかとしてしまったかもしれない。


その後、打って変わって夫婦でダンマリを決めながら広州へとスイスイ進み、やれやれ息子は親の口論をなんと聞いていたのだろうと思いながら助手席にちょこんと座る。


その時、父のことを思い出していた。彼のことはかなり長い時間をかけて観察してきたが、時々、興奮して極端なことを言うことがある。いつもではないがたまにある。思い込んでしまって極論を言って、興奮してしまうのだ。


父も私もそこが似ている。


人間というのはきっと、そういう思考の癖のようなものを持っていて、そこが未熟というか未完成なのだと思う。しかし、それと同時にこうも思うのだ。人間というのは多分人それぞれ、思わずカッとなってしまう瞬間がある。その怒りのつぼというのは、たとえそのツボのために感情的になってしまい、また怒りから発する発言が支離滅裂だったとしても、大事にした方が良い。


今は未熟なその怒りの源のようなものを突き詰めれば、きっと人は成熟するのである。


どうして私がこんなにお金というものに時折カッとしてしまうのかわからない。でも、ゆっくり考えるべきことなのだと思う。この怒りもまた私を私たらしめているものだから。


そして、またそれから考えたことはこういうことである。


主人がもっと自分と似た価値観の女性と結婚していたらどうだっただろうかと。


それはとても不思議な試みだった。多分、多分であるが、主人は奥さんが自分と似たように金は万能だと思っている女性だったら、嫌気がさしたと思う。人間ってそんなもんじゃないだろうか。


主人の論も未完成で一部が破綻しており、私もまた然りである。


人間はどうすれば破綻した自分を補完して、完全体を目指せるのか?その目的のために必要なパートナーというのはおそらく、自分と同じ考えの誰かではなく、むしろ反対の誰かなのではないだろうか。


「お前、間違ってるよ!」と言いながら自説を繰り出し、「いや、お前こそ、間違ってるよ!」と言われながら、お互いに切磋琢磨しながら、己の欠如している部分を補完する。というか、多分、ぶつかり合うくらいの激しさがなければ、人はきっと精進できないだろう。


段氏も主人も、別に投資的観点から物事を述べているだけで悪気はないのだろう。ただ、視野が狭くなってはならない。今、自分がどんな相手に対して話しかけているかを忘れてはならない。金は万能であることを享受できるのは、万人ではない。それを忘れて、どこでも誰にでもいつでも同じ調子で語りかければ、ある意味、刺されることだってあるってことだ。


私は自称芸術家なので、多分こういうことを言いたいのだと思う。芸術家が大切にしたいのは人の心なのである。それは、お金持ちの心だけじゃない。万人の心だ。つまりは金持ちも貧乏人も等しく相手にしているのが芸術家であるべきで、この時、むしろお金というものは創作をする上で染まってはならないものというか、邪魔になるものですらあるかもしれない。うまく付き合わないと、純粋な魂を失う。かといってそこらの草を食んで生きていけるわけはなく、また、別に宗教家ではないのだから欲望はあるわけで、その線引きが難しい。


以前、私は橋の真ん中にいるというタイトルで、エッセイを書いたが、自分はある程度は現実的な世界に近いつもりだ。しかし、渡り切ってしまいたくはない。知らないことや染まらないことが、いいものを生み出すために必要なこともあると思うのだ。たとえ、未完で未熟であったとしても、


自分は変わりたくはないのです。不器用なままにこのまま生きていきたい。


汪海妹

2025.05.29



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