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とりとめのないこと 抜粋  作者: 汪海妹
301/345

あなたという映画の監督は、あなた自身です。













あなたという映画の監督は、あなた自身です。













何回か書いているが、投稿は、月水金に既刊の小説をあげ、火木に随筆を書く。これ以外は基本書かないことにしているのだが、本日は号外だ。


ちょっと思うところがあって……。号外を書いている理由はゆうまい。


投稿をし始めたばかりの頃、私の随筆はもっと思ったままをダラダラとかく日記で、躁鬱の波のように鬱々としている時も、まんまの言葉を綴ってしかもそれを不特定多数の人が読むところへスコンと出しては、出した後に更に落ち込んだりしていました。


まさに、我、制御不能状態で、しかもそんな私的な部分を晒している自分にも嫌気がさしていたというか。


そんなに後から落ち込むなら、そんな記事は投稿しないようにしなさいというのもアドバイスの一つなのですが、ここで少し論点を変えて、私が言いたいのはこういうことなんです。


人間は本当に落ち込むこともある。しかし、いつも繰り返し落ち込んでいたり、長く落ち込んでいる場合、それが、実は本当に落ち込んでいるのとは違うこともあるってことです。


私は子供の時に、こういうことがあって、それがトラウマで今こうなんです。私の場合はそこに親から与えられた幼少経験というものがあって、本当は元気に生きていきたいけど、生きていけない自分


そういう物語を延々と綴っていたなと思うんですよ。


多分ね、こういうことなんです。人とは違う特別な自分でいたいから、私の人生にはドラマティックな悲劇が必要だったんですよ。


本当の悲劇もある。でも、自分で選んで悲劇の中にいる、い続けることもある。自分は本当はどっちなの?って話です。


延々と綴られる、私は可哀想 という文章はね、本当は、自分をそういう人間だって思いたい自分が選んだ自分なんだってやつだ。人生には時に、悲劇が必要なんですよ。事実以上に誇張された悲劇がね。


私って可哀想、私って可哀想、私って可哀想……


アドラー心理学を取り上げた 嫌われる勇気 を読んだのは一度だけですが、私にはどうもこのアドラーが相性が良いようで、


自分が可哀想だと思うのは、可哀想な自分が必要だからだ


と書かれてて、可哀想な自分や弱い自分がいるから、成功できない自分を許すことができると確か書かれていました。


できない自分を許すために、いくつも可哀想な理由を見つけては、私は落ち込んできたのだなと、簡単にいうとその時気がつきました。


それでも、ネクラな私は定期的に落ち込むのですが、


「あ、またやってるな、自分」


自分で気づくようになり、比較的短い時間でリカばるようになりました。


人は可哀想な自分に自分で酔うものだ。そして、そんな酔っ払いが書いた文章は、やっぱり本物の苦痛や悲しみとはちょっと違うと見てとれるものだ。だから、自己陶酔の強い文章をあげてしまった後は、なんだか穴があったら入りたいというような感情が湧き起こるのだろう。むしろ、沸き起こっている人の方が救いようがある。世の中には、気づかない人もいるからね。


それでは、自己陶酔の文を書くなとか、自分をかわいそがるなとか私が声を大にして言いたいのかというとそうでもない。


むしろ、周りの人には迷惑かもしれないけど、ここはいっちょう、皆さんの胸を借りて、とことん愚痴って仕舞えば良いと思ふ。


「うわ、この人、何書いてんだろ?」


と思われたって、別に、なんぢゃこりゃ、と思ったらそれは読まない権利が読者にだってあるのだから、人生は中途半端がいけない。もう、恥ずかしいとこ出しまくってしまへと思ふ。なぜならば、愚痴というのは繰り返し繰り返し盛大に出し切って仕舞えばある日突然、


「自分って、馬鹿?ウマとシカでばかか?」


はたと気づく。親には悪いが、大人になりきれない愚痴っぽい自分には、愚痴をいうのは通過儀礼として必要だった。親のせいでこうなったという道を通らないと、立ち直れなかった。ダメな自分をそのまま受け入れて、一時的には親に甘えて、自分がダメなのは親のせいだとして延々と愚痴ってきた時期がありました。私が仕事で才能を発揮できないのは上司と会社のせいだったし、本当は芸術の道に進んで華々しく生きていたはずなのにできなかったのは親のせいだし、という感じで。


そして、とある時から、考え方を スイッチできると気づいた。


自分がうまくいかない原因なんて、作ろうと思えば無限に作り上げられる。成功するためには、自分が可哀想な理由とか、できない理由を探すことをやめるしかなかったんだよね。


もうちょっというと、別に成功なんてする必要なかったなと。幸せならそれでいいじゃないか。


多分、きっとこういうことなんだと思います。私もちょっと手探りで書いていますが、他人が軸になっているから、なんですよ。他人の目に映っている自分を頼りに生きているから、グラグラするんです。自分を安定させるために他人の言葉が必要で、だから、例えばその他人からの賞賛がないと落ち込み、また賞賛の内容に上がったり下がったりする。


そうではなくて、自分が軸になればどうか?可哀想な自分を必死に演出していたのは、他人の同情を得たかったからで、本来の自分はすでに、可哀想な自分を演じることに飽き飽きとしているのではないですか?


そしてここで、Mな自分は自分をバッサリ切ってしまいますが、


小説を書き、若干エキセントリックな暴露型日記を書き、自分は他人の同情を得ていたかもしれない。そして、きっちり気が済みました。可哀想な自分という大舞台を気が済むまで演じました。


そして、自分が可哀想ではなくなった時、ぶっちゃけ、書くものがなくなりました。


落ち込んでいるあの急激な感情の降下を、自分は文学だと勘違いしてたのだと思う。劇的な自分でなくては名作は書けないのだから、私はある意味小説を書くために可哀想な人でなくてはならなかったのですよ。


人間って本当に変な生き物です!


ただ、今まで書いてきた小説も随筆も、自分をきちんと元気にするためには必要なものだったので、それが嘘だったとかそういうことを書きたいわけじゃないのですが、そうだなぁ、うーん。


これは持論ですが、自分の心に正直に書いてそれを出すということには、癒しの効果があると思うのです。だから、たとえそれが明るい内容でなくとも、暗くて後ろ向きなものだとしても、たくさんの人に読んでもらえなくとも、自分のためには意味のある文章です。自分の心に向き合ってそれが言葉として綴れたら、ダメな自分がいい方へ変わろうとする瞬間が訪れるかもしれない。


その時に、ちゃんと目を開き、耳を澄ましてみてください。


ダメなままでいたい自分がいませんか?


私の場合、ま、ある意味、暗くなくなって悩む量が減った時に、そんな自分に結構違和感があって、簡単にいうと、自分は悩んでいる自分=文学的な自分 というふうに思っていたのかもしれない。あの感情のひどい降下と、それを綴る文章がないと、自分の文学性が失われたようなそんな錯覚に陥ってたのです。


そして、もう一つ、元気になるために書くという動機が、ある意味果たされたために強い動機が消えてしまいました。


落ち込まなくなった自分って、糸の切れた凧、間違って手放された風船のよう。つまりは、きっと一部の人というのはそれくらい、暗い自分、落ち込んでいる自分、元気ではない自分というのを必要としていて、そうではない自分には慣れない、親しめないものだと思う。違和感しかない。


そっからひっ繰り返して無理やりもう一度ここに繋ぐとだな、


自分できっちりと選んで、我々は落ち込んでいるのだ。落ち込まない自分は物足りないからだ。


もはや、落ち込むのは趣味なのである。立派なホビーだ。


ここまで訳のわからないままおうおうと進んできて、全くまとまっていませんが、きっとまたしばらく経ったとある日にもうちょっとマシな状態で同じテーマを取り上げたいと思ふので本日はお許しください。


最後にもう少しだけ、実際的なことを書く努力をして本日の乱筆乱文を閉じたいと思います。


人生を長い一本の映画だと思ってください。あなたは監督でもあり、俳優でもある。俳優であるあなたにいつも落ち込む傷つきやすい役を振っているのは、監督であるあなたです。それが突然、悲劇から喜劇の役へとチェンジできないのはわかる。違和感しかない。


ただ、少しだけ違う役柄なら、演じてみてもいいんじゃないかな?もう少しだけ楽な役を演じてみませんか?


いつもいつもうまくいかない役柄を自分に演じさせているのは、

親でも、

先生でも、

上司でも、

会社でもなくて本当は、


あなた自身です。


あなたという映画の監督は、あなた自身です。


おそらく、今年一番まとまりのない文章で失礼!

汪海妹

2025.05.28

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