美しい人
美しい人
2021.10.31
母方の祖父は体の大きな人。柔道をしていて、中学の数学教師でした。近隣の間では有名だったらしい。そして、祖母はそれとは対照的に柳のように細い人だった。子供は三人で、男、女、女。母は真ん中の長女だった。最初と最後は柳に似て、真ん中の母は数学教師に似た。
母は子供の頃から体が大きいのを気にしながら生きてきた人です。
父と母がお見合いをした時、母は既に何名かから縁談を断られていたらしい。それが体型による物だったかどうかは知らない。しかし、私はその頃の母の写真を見たことがある。人生で一番痩せていた頃の母。おしゃれが好きで、とても素敵な服を着て髪型をして、それはもちろん昔風ではありましたが、みっともなくなんてありませんでした。父は家が貧乏で、そして、頭はいい人でしたが勉強をそこまでしなかったのでしょうか、志望校の同志社大学に落ちてしまって高卒で働いていました。末っ子で甘えん坊の明るい性格で、人を笑わせるのが好きだった。商品を仕入れてフランチャイズで販売するような、今風に説明するのならそのような形式の営業職をしていました。営業マンというよりは関西の商人といった方がしっくりくるかもしれない。父母二人とも関西の出身です。
お見合いの席でもその手腕で祖母を大笑いさせた父。私の祖母は少し勘の強いところがある人で、父をいたく気に入った。母のいないところで、あの子はもう何度もお見合いを断られてる、可哀想だから貰ってあげてよと言って口説いた。お金を使うのが好きな子だから、サラリーマンの嫁ではうまくいかない。あなたは商売人だし、見たところ商才がありそうだからと言って。
父は根がとても優しい人で、祖母の言葉に折れた。そして、結婚までに一度母がやっぱり結婚なんてしないとごねたことがあったらしいが周囲に諭され、二人は結婚した。
生まれてから大きくなるまでに何度も父は娘にいう。
「本当はお父さんは、大学に合格して商社マンになって、美人なお嫁さんをもらうはずだったんだ。そうするとお前たちはいないけどな」
「ふうん」
父の英語のあちこちの綴り間違いを思い出しながら聞く。チャットでやりとりをしていてごく稀に英語を使う。どの単語を書いたのか、推理しなければならない時が時々ある。それで、商社マンは無理だろうと思いながら黙って聞く。
しかし、父は口ではこんなことを言うが、人を傷つける人間ではない。もしかしたら、全く何もなかったなんてことはないのかもしれない。だけど、母を傷つけるようなことはしない。口だけ。一方母は、無愛想な女である。父の前では可愛らしいことを言うことはない。
関西から遠い東北に結婚そうそう移り住んだ二人。知り合いなんて誰もいない。親にも気軽に会えない場所で二人の子供を育てた。自分も親になった今になって思う。あの、冬になると雪に閉ざされる土地で友達や親兄弟にも会えず、電車に乗れば大阪のような大きな街に出られるというようなこともなく、心細かっただろうなと。
私の母親は授業参観などで学校に来るたびに覚えられていた。体が大きいから目立ったのです。同級生にそれを言われるたびに嫌だった。自分のことを言われるよりも親のことを言われるのが嫌いなのは当然です。思春期の時に精神的な意味で自分はとても潔癖な時期があって、自分は成績が良かったのですが、田舎の学校で女子としては学年で1番を争う人間だった。それを母親同士が集まって自慢をしあう。その大人ならではの腹の底を見せ合わない会話が潔癖な自分には当時我慢できないものがあって、それをまた同級生の男の子に私らしく小難しく語ったことがあるのです。詳しいことは忘れてしまった。
すると、その男の子はこういった。
「お母さんに直接いえばいいじゃん」
そして、私がついさっき口にした母親達のエゴを鋭く批判した言葉でもって母を批判した。
「私が言うのは構わないけれど、あなたに言われると嫌だ」
「なんだそれ」
その時のことを今でも覚えているのです。論理的な自分が小難しく自分の母や母親達を批判した次の瞬間に、感情的な自分が出てきて、胸を痛めた。私は母を愛していました。もちろん今も愛しているのです。いいところも悪いところも全部。論理的な自分を内に持ちながら、でも、感情的な自分がそれよりも大きかった。それは幼い頃から今まで変わっていない。私の究極の最後の結論はいつも感情的な自分が支配している。
東北にはたくさんの名湯があって、週末になると皆こぞって家のお風呂を見限って車で外の日帰り入浴ができる温泉へと車を走らせる。特に冬、常に寒風を吹きつけられ骨まで凍えるような冬にのんびりと温泉に浸かって体の芯まで温めるのは東北にある冬の一つの楽しみなのだ。
母と姉と私の女三人で雪の中の露天に入る。ピンと張り詰めるように冷たいお湯の外に出ている部分と温かいお湯の中の部分。外の部分もずっとお湯に入っていると血が巡って汗をかくぐらいに熱くなる、冬の冷たい空気が返って気持ちいいと思うくらいに体が熱くなる。そんな時はよく親子でいつもはしないような話をした。父の前では無愛想で素直ではない母は、しかし、父のいない隠れた場面では素直でした。
姉も私もまだお嫁にはいってなく、しかし、学生ではもうなかったような頃だったと思う。冬の真っ暗な空と美しい雪を背景に露天の中で母がのんびりと語り出した。
「お父さんはねぇ、小学生の時にお父さんを亡くしてるからね」
親戚の人から聞いたことがある。末っ子で甘えん坊の父は父親によく懐いていたのだと。
「そういう人って情緒が不安定なのよ。普段は平気だけどかっとした時に大変よ。あなた達はやめておきなさい」
黙って母の話を聞く。
「お母さんはお父さんが心配だからずっと最後までついてゆくけれど」
もしこの時母が、苦しそうな或いは諦めたような顔でこの言葉を言っていたのなら、この話の意味合いは全く違ってきます。でも、母はもちろんそんな顔はしていないし、娘の私たちも母がわざわざ言葉を付け足さなくてもわかっていた。母はずっと父を愛していました。一度も揺らいだことはない。
理屈を超えて人を愛し支える喜びを私に教えてくれたのは母だったのです。
何年も何年も経つまで、母が私たちにそう言ってから自分も結婚し子供を持ち、何年も経つまで、わかってなかったことがあります。
母のように一途に一人の人を愛し支える女の人というのは、実は世の中にそんなにいないのだということを。それは自分をも含めてです。そしてつくづく思いました。母を美しい人だなと。母のように純粋に一人の人を想い続ける心というものは美しいものだなと。誰もが持っているわけでもない。
父は、あの時代の人ですし、恋愛経験も豊富ではないでしょう。母のような人が存外珍しいのだと或いは知らないかもしれません。知らないまままた、あのような軽口を、自分が大学に受かってたらから始まる軽口をこそっと娘に聞かせるかもしれません。
一生、知らなくてもいいのかなと思いながら、私もまた黙って付き合うでしょう。もしもお父さんがもうちょっと勉強熱心で、同志社大学に受かっていたら、私はこの世にいなかったという話を。