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とりとめのないこと 抜粋  作者: 汪海妹
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塩田千春:運命の果てに 美術展感想

中国広東省深圳市福田 木星美術館にて 〜6月22日まで運命の果てにを見に行きました。

挿絵(By みてみん)


ベルリン在住の現代アートの担い手である塩田千春さんの展覧会に息子と二人行ってきました。タクシーで向かう車の外は灼熱の太陽。夏を思わせる炎天下でした。福田も広い。足を踏み入れたことのない倉庫街をゆく。こんなところに美術館なんてなかろうというところにそれでもあった。


大きな立方の空間を使う展示だから、結局倉庫が便利だったのだろうか、倉庫を改造した美術館に足を踏み入れる。


学校でもらった1枚のチケット。私はチケットを買い足してゆく。塩田千春さんがどんなアーティストかなんて全く知らない。それでいいのだ。長く深圳に住んでいても、足を踏み入れたことのない倉庫街、チケットをもらわなければ一生出会わなかったかもしれない、塩田さんのアート。


人生というのは偶然と結局は偶然からの必然に満ちている。


糸を使って表現をする人だということも知らずに中に入る。その糸の色は、赤と白と黒である。赤は血の色で、白は清浄であり、そして、黒は死や不浄を連想させる。それ以外の色も厳密に言えば使われているのだが、しかし、基本はその3色で、そして、それではその濃淡をたった3色でどう表すのか?


それが、糸の重なりなのだ。糸の重なり方で、語るのだ。なんとも新奇である。


若い頃は、空間を使うアートというものがなんだかよくわからなかったのだ。頭でっかちに生まれてきたもので、理屈で理解できないものが自分の中で収まりが悪かったのだと思う。


私の頭は歳をとるとともに不思議と削れて小さくなってきたようだ。ただ、単純に感覚で楽しめば良いと思う。


ありとあらゆるものが、画面を通して実感できるようになってきたからこその、ますますの空間アートだなと思う。つまりはとにかく2Dでは体感できないものを体感させるのだ。私たちがあまりにも出かけなくなり、あまりにも画面越しの体験を体験だと錯覚するようになったからこそ、写真には写らず、生きているようで生きてはいない我々を引き摺り出すのが空間アートだ。簡単に言えば、写真を見て我々は何かを見た気になっているが、空間アートは見る角度によって見えるものが違う。


これについては深々と考え込んでしまうが、私たちは昨今、他人が切り取った角度によるものを信じすぎというか、そういうものに左右されすぎだ。写真というのは他人によって切り取られた画像なのだ。それは本当に自分の視点なのか?


では、画像ではなくて動画ではどうだろう?それなら歩き回りながら撮れば、角度がつくので切り取られた画像よりはマシではないか?


これが現代の落とし穴である。


私たちは動画では、そのものの大きさを感じることができないのだ。


昨今の空間アートはとにかくでかい。芸術というのはでかいのだ。ピカソのゲルニカの本物もいつか見てみたいが。あれだってきっとそれなりの大きさではなかっただろうか。


感動にはスケールが必要だ。画面越しではそのものの大きさは伝わらない。


現代人はどうしてこんなに便利な時代になれてしまって、本物にあたるという努力を忘れてしまったのだろう?感じることもAIか何かに任せるつもりだろうか。


生きていくことがだんだん希薄に思えてくるんです。便利になるにつれてね。


大きな倉庫に広げられた物語を見上げる。見上げさせられる。全てに感想を書くと膨大な長さになるので割愛し、白い糸と、小舟と、空間に飛び散る無数の 『信 』日本語で『手紙』、爱的信件、愛の手紙について感想を。


この作品は中国人の複数人の人から募集して集めた実際の中国語の手紙のコピーが、あちこちに散りばめられた作品で、その数カ所に船がある。船と糸で再現された、私はこれは風だと思うのだが、その風とその風にのる手紙が散らばり、まるで本当に風が吹いているような感じを受ける。躍動感に溢れる。


ここでもう一度空間を使用するアートについて触れたい。


白の清浄さと、風と、船と、手紙。これで、確かに躍動感を人は感じると思う。そういうモチーフだ。だが、もしこれが大きなキャンバスに描かれた油絵だったらどうだろう?どんなに表現力のある作家が描いたとしても、私たちをその風の真下へ連れ込むことはできない。


それが、倉庫の高い天井から吊るされて、だだ広い空間に広がっているのである。我々はその抽象的なアートの下を潜るのだ。脇を通り、体験するのだ。これこそが体験である。


塩田さんがこの作品で何を表現しようとしたかは、あまりよく知らないのだが、だが、私がその時感じたのはこういうことだ。


生まれてから今まで色々な人と出会い、そして別れてきた。過去に出会ったが、それを覚えているが、しかし、これから死ぬまで一度も会わない人だっているだろう。


同級生の中には、まだ若いのに病気になって死んでしまった人もいる。私の思い出の中にはくっきり生きているのに。


手紙がモチーフにされていたけれど、私はそれを人と人との繋がりとして捉え直した。


これを言葉にできるだろうか?あの漠然と浮かび上がった感覚を。


私たちは生まれてから今までにたくさんの人と知り合い、すれ違い、生きてきている。それは結構すごい人数なのだ。しかし、一生を通してずっとつながり続けるのはそのすごい人数のうちの限られた人間だけだ。


私たちの脳はどこかで、その全員の人数を知覚していると思う。しかし、通常は、時間の感覚に沿ってそれを認知している。つまりは、小学校の時のことを思い出せば、その時間の箱を開けてそれらの人々を思い出すが、別の時間の箱、中学とか高校とか、それを同時には開けないだろう。


そういう時間ごとの箱を取っ払って、人間の全ての時間の出会った全ての人を、というか正確には人との繋がりを、一気にばら撒いた感じだったのだ。


私はそのあちこちに散らばって浮かぶ手紙の数々を見ながら、きっとこの一見膨大に見えるさまざまな手紙という形に表された人と人とのつながりは、あの倉庫の広さや手紙の多さにも限らず、一人の人間の一生である。


ひっくり返せば、一人の人間がこの世で生まれてから死ぬまでに出会い繋がる人たちの数というのは、こんなにも多いのだと思う。


普通は脳みその中に閉じ込めて、そのどこまでも繋がっていくような はるか を人は感じることがない。それが表されたものなのだと、私は思ったのです。


自分と繋がる人々というのが、無限とも感じられるようなスケールであるのだと体感する。それは一体自分たちに何を教えてくるのだろうか。


やはり、一人の人間の一生というものの 重みのようなものだと思う。


もちろん、私が感じたのはあくまで感覚であり、塩田さんが意図したものとは全く別のものだったかもしれません。


糸、糸は、つなぐもの、ですよね?つながる というモチーフに想い馳せます。きっとこの世のものはとても繋がっているのだと思う。


私の写真なんかでは 私のいうところの 風を感じることは無理かもしれませんが、ないよりマシということで、展覧会の写真をつけます。


思いつくままに書き殴りました。乱筆乱文失礼。

汪海妹

2025.05.06


風はつながりを巻き上げて一体どこへ私たちを連れて行くのだろう

きっとどこにでもいける

でも、どこへもいけない。それが私たちなんです。

影もまた、作品の一部なんです。

見ている自分まで取り込んでみる。

美術館を出たら、猫と出会う。

愛してやまない息子と猫のにらめっこ。

時々、ふとした瞬間に思う。

時よ、止まってほしい。

時よ、止まれ。

でも、それは、そうつぶやいても、時が止まらないことを知ってるからこそ、つぶやける言葉である。




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