年代の壁
年代の壁
日本というのは年長者を敬う文化である。年上の人と話す言葉とタメと話す言葉は違う。何を今更、わざわざ説明されなくともわかってるがな、という話である。そのせいか、日本人は年齢をこえて友達になることが難しい。
その傾向が現在中年である我々世代より、下の世代でより顕著であるように思うのは私だけだろうか。
話がぶっとぶが、例えばアメリカのドラマであるERシリーズを知ってるだろうか?やたらテンポのはやいアメリカンな医療ドラマなのだが、あそこで出てくる同僚たち、彼奴等は貧富の上下や身分的上下では壁を作るが年齢ではそこまで壁を作らない。
「いーなー、アメリカ人」
今度はヨーロッパだ。学生時代にイタリアに2回行った。当時のイタリア人の友人に金持ちの美人なお嬢様がいたのだが、彼女はとある日に突然白髪のおっさんを携えてやってきて
「友達なの」
といった。まさかのこのお嬢が、こんな、失礼だが、雑巾のような爺さんと、交際してるのかっ!と、ヒジョーニ残念な日本的昼ドラ的発想で腰を抜かしそうになったが、なんと!彼らは本当に友人だったのである。
いけてる金持ちのお嬢様と枯れすすきのような爺さんが、金目当ての交際ではなく、友人同士であるなんて、日本ではありえねえぞぅ!と、私が拙い英語で当時切々と訴えたか?
まさか、空気読みます。
「へー、世界は広いなー」
と感心しました。そして、日本である。下世代は、バシバシ壁を作ってくる。表ではいいことを言ってくれるが、裏では同年代と何言ってっかわかんねえだよ。
ウエーイ!(→グロッキーになってる)
アチトラも上世代と話すのが苦手なのでしょうが、コチトラも地味に下世代と話すのが苦手な時期がありました。ちなみに、下世代は、私も苦手だがさらにおっさんが苦手なのである。そんな下世代の横で、アチキが、めっちゃ違和感なくおっさんと酒を飲んでいたとします。というか、飲んでんだけど。
「……」(→下世代の沈黙の眼差し)
ますます、壁ガッ、厚くなりましたっ!なんかこの世代感のピシピシした空気、つれーぞぅ!と思ってた過去がある。そして、現在である。まぁったく、気にならなくなった。なぜか?
自分的には、子供を産んだからだと思います。この世に一人は確実に、私がいないと生きていけないというか、私に生きていてほしいと心の底から思っている人が一人はいる。私の子だ。子供ではなくて他にもいるかもしれないけど、子供の愛情というのは非常にストレートなので、心の奥の奥まで一気にとどくのだよ。
これで、別に、他の人に自分が求められようと、求められまいと、どっちでもいいや。失礼なことだけはしないようにしようと思った。
おっさんと違和感なく仲良く酒を飲み、下世代が私をおっさん側にカテゴライズし、ますます私に対する壁を厚くしようが、ケセラセラである。私は別に酒を飲めるならどうでも良い、グビ。
しかしだな、壁を作られて落ち込むことがなくなったとはいっても、残念なことだなとは思う。あの若者の盛大な拒絶は、腰にくるだよ。ぐはってやつだ。上世代と話そうと思うと気を遣って疲れちゃうんだろうな、とか、どうしたらいいかわからないのだろうな、とか、そういうことは思うのだ。ある程度は理解しているつもりだ。だけど、これみよがしにATフィールドみたいのを作られると、そりゃやっぱ張られた方は寂しいわな。
自分が張られた時も寂しいが、第三者として他人が張られているのを見てても、腰にくる。私の様々な衝撃が腰にくるのは、個人的に腰が弱いだけなのかもしれないが、腰にくる。水泳をしたほうがいいらしい。
若者と距離を詰めたくて、例えば、カラオケで若い歌を歌うために、家で練習したりした後に披露しているいい歳した人を、陰で馬鹿じゃねえのなんて若者が言ってたりするのを聞くと、なんだか第三者のアチキも寿命がちょっと縮むような気がするよ。
ここでまた、話が突然飛びます。ごめんなさいね、この人、思考回路が少し壊れているんですよ。
私は、若い子がおばあさんの手を取って横断歩道を渡っているようなのが好きなんですよ。世代を超えた人たちが交流しているのを見るとホッとする。それで、自分も小説を書くときは、若者しか出てこないような書き方はしないのよ。いろんな世代の人が出てくるのが好きです。
大事なのは、どの世代の人も拒絶されていないということなんです。
ベタベタと仲良くしてなくてもいい。でも、寒いねと言えば寒いねと返す、これ美味しいねと言えばそうだねと返す。その程度でいいんですよ。お互いを受け入れて、会話が成り立っていたらそれでいい。
それが昨今は話しかけてくるなオーラが発され、それから、業務事項で会話をしてても、「わかりましたか?」「ああ」不服そうに返事をするけど、だからと言って何が不服かははっきり言わない。無口だし、話しかけてもはっきり返事しないし、何を考えているのかよくわからない。これが上世代からよく聞く愚痴である。
別にぺちゃくちゃとたくさんおしゃべりしなくてもいい。ただ、話しかけられたらきちんと答えてほしい。無愛想でもいい。無愛想でも、そこに敵意とか悪意とかがないというのは、わかる人にはわかりますから、ちゃんと窓を開けてほしい。許せる限りの面積でいい。こちらが戸惑うのは、違う顔を見せられることです。裏では表とは違う顔で全く違うことを言っているのを見かけてしまうと、不信感を覚えてしまうのよ。
ま、ただ、最後の方は、別に若い世代に限ったことではないのよね。どの世代でもある程度の表と裏があるのは普通のことだし、ある程度は表と裏も必要だと思う。ただ、あまりにひどいギャップは、世代に限らず周りの不信感を招くと思う。
そこで自己反省してみると、下の世代に壁をつくられ表と裏で違う顔を見せられると、戸惑うし怖いですが、じゃあ自分に表と裏がないかと言われると、私はかなりあります。人に壁をつくられてショックを受けたら、自分も壁を作っている事実を引っ張り出して、どうして壁を作ったんだっけと考えてみる。人と直接ぶつかる怖さです。ついつい人とぶつかることを避けて、しかし、後ろで悪口を言ってしまい、言った後に言い過ぎたなと反省してる。
もしかしたら、彼、彼女もそうなのかなと思ったら怒れないじゃないですか。自分もやってるから。
だから、壁を作られたからといっていちいち傷つくのはやめました。
人間ってきっと全ての人とわかり合いたいという本能的な欲を持っているものだと思うのだけど、現実的には全ての人とわかりあうことは無理。だから、全ての人とわかりあわなくてもいいのだときちんと理解することが必要なのだと思う。そうすれば、他人と自分の感じ方や考え方の違いにいちいちイライラしたり、傷つくことはなくなる。
それが例え、みなまでわかりあうというコミュニケーションではなく、表面的なやり取りであっても、それで十分なんですよ。できるだけ敵対せずに、やりとりができているのならそれでよし。その中からより味方になってくれる人が一人でも多くなってくればそれもよし。
そして、生きていれば、自分がなすべきと思うことの前に、立ちはだかる敵は必ずいるものだ。できるだけ敵を作らないほうがいいが、どうしてもその敵を排除せねば前に進めない時、人はやはり刀を手に持つのだと思うよ。
人間の全てが自分の敵になるわけではなく、そのほとんどはむしろ潜在的な味方ですが、人生を生きるというのは、仲良しごっこをすることではないのです。刀を自ら持つか、あるいは、刀を持つ人の後ろでその人を支えることです。
大事なのは、全ての人間に否定されずに受け入れられることではなく、自分が何をこの世でなすべきかを知っているかどうかだと思う。
何の話でしたっけ?
これはもう、まとまらないと思いますので、途中で終わらせましょうか。この話の続きは、いつか、どこかで。それでは、まとまりのないままに失礼致します。
汪海妹
2025.02.18




