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とりとめのないこと 抜粋  作者: 汪海妹
255/354

人海














   人海(レンハイ)













小学館、中日辞典より

人海

名詞

1)人込み。人の海。

2)人の世。社会。


学生を終えてしばらく東京で働いたのちに中国の深圳へと来た。それからずっとこの深圳に住んでいる。東京から来たばかりの頃、深圳はもっと灯りの少ない暗い街だった。


当時、水性のボールペンの書き味は最悪で、インクが出ないので何度も何度も文字をなぞることになる。そして、事務所に置かれた某社のコピー機は3枚コピーするごとに紙を詰まらせ止まった。


インクが出ないペンを使うことに耐えられなかった自分は、足繁く香港に通った。当時深圳の郊外に住んでいたので、香港に出るのに片道2時間強かかった。往復で4時間だがそれでも日帰りで通った。香港に行けば普通に東京で買っていたようなものがあった。私はペンや日本製の化粧品を買った。


例えば、日本に住んでいる埼玉の人が東京に出るような感覚と似ているといえば似ている。しかし、厳密にいえば違う。距離は2時間だが、そこは全く異なる世界だった。物価と流通している物が全く違うし、香港人の給料と当時の中国人の給料も違う。あの当時は5分の1くらいだったと思う。


よく考えれば、日本にはこの深圳と香港のように隣り合った環境はないだろう。海で囲まれているからだ。外国と陸続きではないから、こんなにあからさまな陸続きの別世界を体験することはないだろう。


あの時、香港は深圳のお兄さんだった。私はそれを文字でではなく体験として体全体で覚えている。香港ドルの方が大きくて、中国元の方が小さかった。100人民元は100香港ドルにならなかった。香港人は自分も中国人なんだけど、中国人より自分は上だと思っているようだった。それで、好んで英語を使う。私は日本人だけど、毎日中国で暮らしているうちに英語を忘れてしまって、香港で英語で話しかけられても中国語で返事をしていた。


すると、あの当時、香港人は途端に態度を変えるのである。英語で話せば、私は日本人である。ところが、中国語で話すと大陸人(=中国人)だと思われ、途端に下に見られた。


香港の弟である深圳はでも、どんどん成長した。経済発展を経て、収入を得るようになった深圳人は獲得したお金を持って、香港へ特別な経験、スペシャルエクスペリエンスを求めて押し寄せるようになった。


せっせと香港に通っていた私は、深圳人の 人海(レンハイ)に飲み込まれた。香港中の飲食店、ショッピングモールやドラッグストアに深圳人による長蛇の列ができて、香港人はそれを迷惑がった。迷惑がりつつも大陸人(台湾や香港を除いた大陸の中国人のこと)が香港の小売に大きな影響を与えていたのは事実で、中国語を話すことを嫌がっていた香港人も徐々に必要に駆られて英語ではなく中国語で話すようになってゆく。


香港人が大陸人の到来に眉を顰める様子を見ると、主人は鼻を鳴らした。


「大陸がなければ生き残れないのにそれを理解していない」


香港人と大陸人の上下関係が少しずつ変化し始めていた頃のことだ。よく覚えている。そんなプライドを持って伸びつつあった大陸人と、イギリスから戻され、段階的に中国による支配の影響が強くなってゆく香港。とある時からとうとう中国元が香港ドルより大きくなった。100香港ドルが100以上の人民元になる日が来た。


香港というお兄さんはお兄さんのままのプライドで、深圳という弟に背を越された。


それから、あの雨傘運動があった。激しい抵抗とデモ。そして、傷つけられる若い人たち。


あの時、第三者の日本人として胸が痛かった。政治的な意見は持たない。ただ、香港というお兄さんにも深圳という弟にも、傷つけあってほしくない。


あのデモで香港が慌ただしくなったあたりから、自分はもう、香港に出かけることは無くなっていた。その後に長いコロナの時期があり、自分の足は完全に香港から遠のいた。


そして、香港に行けなくなり、海外にも行けなくなった私たちは、それでも、香港で買っていた海外の化粧品や食品、洋服が欲しかった。香港にまで行って購入していた客は大陸に閉じ込められ、しかし、そのニーズを大陸内でキャッチする売り手が現れ、あっという間に海外からEコマースで物を購入販売するルートが出来上がった。


コロナが終わった時、デモとコロナによる閉鎖で傷ついた香港の 飲食店やホテルは次々にその価格を釣り上げた。しかし、封鎖が解けても購買客は香港に戻らなかった。コロナが香港と深圳を分断し、コロナの間に深圳の小売が飛躍的に育った。昔は香港に行かないと買えなかったものや、大陸では安く手に入らなかったものが続々と手に入るようになり値段も下がった。わざわざ時間をかけて香港に行かなくても良くなった。


香港に行かなくても物が買え、さらに香港に行かなくてもさまざまなものが深圳で食べられるようになった。イタリアンとかフレンチとか。この傾向にコロナ期間に赤字だった状況を補填しようと一律に値上げをしたことが拍車をかけた。大陸人はもうこぞって香港へはゆかなくなった。コスパが悪いのである。


かつて大陸人はこぞって香港を目指した。スペシャルエクスペリエンスを求めてお金を握りしめて香港に傾れ込み、レジは長蛇の列で賑わった。それが今はどうだろう?


24日にディズニーランドへいき、21時半からの花火と映像のショーを見る。それは豪華で見応えのあるもので、シンデレラ城の周りは人という人でぎゅうぎゅうだった。しかし、一緒に行った知人によると、以前はもっとたくさんの人がいたという。ディズニーランドの設備はきちんと美しかったが、その中に人がまばらしかいない様子を見る。クリスマスのチケットが高すぎるのである。中身は素晴らしいのであるが値段が良くない。高すぎる。だから人が集まらない。


ディズニーランドからタクシーに乗る。運転手はキャッシュでの支払いを求めた。電子マネーばかり使ってる我々は香港ドルのキャッシュの持ち合わせが少ないので、ハラハラしながらメーターを眺めていた。しかし、200ドルと少しでそれは足りた。ホテルの前でホッとすると突然運転手が訳のわからないことを言い出した。メーターについている不思議なボタンを押すと200と少しだった金額が突然400近くになったのである。


「390払え」

「なんで突然値段が跳ね上がるの?」


一体どんなカラクリなのかわからないが、2倍近くになるなんて異常である。乗る時の説明もないし、納得できない。


すると突然、その初老のタクシー運転手は吠えた。広東語で怒鳴り出した。だからどうした。キャッシュなんてお前が言う額は持ってない。突っぱねると、怒鳴りながら、しかし、それならもうそれでいい と相手がおれた。


結局、自分が正しくないと知ってるから、ゴネきれないのである。我々はたっぷりと嫌な思いをしながらメーター通りに払って降りた。


「香港ってこんな嫌なところだったっけ?」

「なんかもう来たくなくなったね」


主人は前からこんな人はいたと言った。しかし、彼は昔の香港を大して知らないはずである。中国人は以前は香港への通行証を簡単に手に入れられなかったから、主人は私ほどの回数、香港に来ているわけじゃない。昔の深圳ではいろんな運転手に嫌な思いをさせられた。あの頃の深圳と今の香港が似ていると感じた。


そしてホテルに辿り着き、部屋に入ると3人で予約した部屋に大きめのベッドが一つしかなかった。朝から歩きっぱなしだった私たちは鼻を鳴らした。クリスマスイブの夜、ディズニーランドだけではなく、このホテルにもびっくりするような値段を払っているのである。それなのに、ベッドすらない?エレベーターも壊れかけていて、何度も重量オーバーで止まる。人が降りても動かない。そして、あの高い値段を払って、バスルームには湯船がなかった。


コロナで失った分を取り戻そうとしているのかもしれないが、やりすぎである。値段に対してサービスが全く届いていない。二度とくるものかと思わせている。


かつて我々に スペシャルエクスペリエンス を与え、魅力的だった香港はデモとコロナで痛めつけられ、中身がごそっと抜けたまま価格だけがべらぼうに高くなり、旅行客を寄せ付けなくなるだけではなく、ここに住む香港人の首をも締め付けている。がら空きのディズニーランド、我々を怒鳴りつけ価格を倍せびろうとする運転手、湯船がなくベッドすらないホテル。


香港の中が空っぽになり、そこが抜ける画が見えた。


翌朝、息子と主人をホテルに残し、自分だけ先に深圳に戻る。その日は25日のクリスマス。香港は連休だった。本当に5年ぐらいぶりに羅湖(ローフー)のイミグレを通る。そして、それを見た。


人海(レンハイ)、膨大な数の人々が一心に前へ前へと進んでゆく。


それは馴染みのある光景であった。大陸から香港へと押し寄せる人々の海。でも、一つ違うことは、その海の向かう方向だ。


人々は香港から深圳を一心に目指している。


私は文字でそれを知っているのではない。体で知っている。その人の海を体で知っている。自分もその一部として何度も時間をかけて香港へと向かっていたからだ。それが逆流した。


水は高きから低きに流れる。その逆流は、結局は非常に自然な流れである。香港人だって中国人だ。お金というものに敏感な人たちだ。納得できないものにお金を使うことが嫌いなのだ。


深圳という弟は大きく育った。香港と深圳は隣り合わせている。香港のレストランはべらぼうに値段を上げた。親族で集まってきちんとした広東料理のお店でご飯が食べたくても、以前だったら考えられないような額を請求される。それに対して深圳のレストランはそのサービスも味もぐんぐんとのび、以前とは違って香港と比べてもそこまで遜色がなく、その価格は5割〜6割程度なのだ。


高すぎる値段がそこに住む香港人を香港から追い出し、深圳は隣り合う香港からのニーズを獲得した。だから、隣の広州にはない活気が深圳に今生まれている。


私は下手すると自分も押しおされしてもみくちゃにされそうな、その人海を見ながら、経済というものの力を感じていた。そして、香港から深圳へと流転してゆく景色に眩暈がした。


自分は物事の変転、流転を目の当たりにした。経験した。何事もこの世で変わらないものなどない。太宰治が昔 斜陽 という題の小説を書いている。そのタイトルばかりが印象的に胸に迫る。


かつてはもっと良かった都市が、斜めに傾くなんてことは 歴史の中で何度も起こってきたことだ。珍しいことではないが、それでもその斜めに傾いた人たちの胸にはかつて栄えた人たち特有のなんとも言えない感情がある。


弟の勢いに兄が転ばされることもある。弟にその背を追い抜かれることもある。その憂鬱な毎日をそれでも我々は生きてゆかなければならない。


これは決して香港だけの話ではない。


日本は海で囲まれているから、隣の国の人から雪崩のように人が流れ込んでくることなどない。しかし、香港と深圳は別である。安くて良い物を求めて人は国境を越える。経済とは水が高きから低きへ流れるように本来非常に自然に流れる物である。


香港から深圳へ人が流れてゆくのも、自然な流れである。納得できる価格を求めて、自然と人は流れを変えた。深圳から香港へではなく、香港から深圳へ。


2024.12.26

汪海妹

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