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とりとめのないこと 抜粋  作者: 汪海妹
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原動力














   原動力














若い頃の自分の原動力といえば、欠けたものを埋めるためにせっせと動いていた。仕事をして褒められると自分が少し偉くなった気がした。一生懸命、働いた。


人生は長い長いマラソンである。最初は、純粋にがむしゃらに働いて、宝石未満の何かガラス玉のようなものをもらって喜んで、それでやっていけた。だけど、長い長い道を延々と淡々とそういうふうにやっていると、突然自分の足が自分の意思に反して動かなくなり、心がぼたりと落ちてしまう日が来る。


ある程度の年齢にたった今、若い頃のようには生きられないなと、そんな思考に気づいたらふと陥っていることが多い。


承認欲求が若い頃の原動力だったと思うんです。承認欲求という言葉を耳にすると、私は咄嗟にその横に爆弾を思い浮かべてしまう。爆弾とか銃とか弓とか毒とか。そう、毒。じわじわと蝕むという意味では、毒が近いかもしれない。


途中までは承認欲求でうまく回っていた。自転車の車輪がぐるぐると回るみたいに調子が良かった。その自転車のチェーンが外れちゃったみたい。


同じようには頑張れなくなった。


私のこの話に頷く方は多いと思う。人間は途中からエネルギーを換えて働いていくのだと思うのです。


ちょっと話がズレるのですが、自分が最近、ほんとうに大事だなと何度も何度も思っていることは、こういうことなんです。


人間は、心を壊すほど、あるいは体を壊すほどに頑張ってはならないし、また、真に自分の力を発揮して周囲にそれを感謝される人というのは、心を壊したり、体を壊したりしない。


死なない人間はいないから、どんな偉業を果たした人だって、体は壊したと言われれば上は成り立たないわけですが……。ただ、言葉足らずに言いたいことは、まだぼんやりとした輪郭のような物しか持たない思考ではありますが、人間が価値あることをするとき、その人は水が上から下に流れるように行動している。


これは結局 上善如水 という老子の思想によるわけですが、ただ、老子がこう言っているから私もそう思うというわけではなくて、自分が苦しみながら生きてきた中での実感にも沿っているわけです。


いわば 承認欲求 という原動力が、若い頃には自分を含め多くの人の主流で、流行のエンジンを載せて、みんなが目指す方向に漠然とかけてゆく。それが、人間という物ではないかと思います。


でも、途中で、そのエンジンが合わなくて走りながらこけてしまう脱落者が出る。走り続ける人は、そんな脱落者を見ながらそのまま前に進むわけです。自分はああはなりたくないなと思いながら。


転んでしまった人は様々です。半分壊れたバイクでそのまま起き出して走り出そうとする人。バイクを捨てて方向も変えて歩き出す人。そのままそこから動けなくなる人。


私もこのこけてしまった人の一人に入るわけですが、こけてしまった後に歩いていて、歩いているわけだから、バイクの人には簡単に追いつけないし、もうどうでもいいかと思うに至りましたが……


若い人というのは、いい意味でも悪い意味でも純粋だから、生きるということはみんなが同じバイクに乗って、同じエンジンで、同じゴールに向かってひた走ることだと思っていると思うんですね。


ただ、この年齢まで生きてきて思うことは、人が生きるということはそんなに単純ではない。みんなが自分と同じゴールを目指して走っているとそのレースに参加している人は思うかもしれないけど、でも実際はそこから脱落してしまった人や、そもそもスタート地点に入っていない人の方が多いんじゃないかと思うんですよ。


自分は自分のバイクとエンジンを選ぶときに失敗してしまって、それでもレースの途中までは見よう見まねでバイクを操ってみんなに遅れないように走っていました。途中で派手に転んじゃったんだけど。


転んだ後に長い時間をかけて、原動力について考えてきました。


無理をしながら走れるのは、若い頃だけです。でも、それだって、自分の最高速度を出せているわけじゃない。そして、歳をとってくれば、必ず、合わないエンジンでは走れない日がやってきます。


そのときにちゃんと立ち止まって考えなくてはならない。自分は何のためになら、疲れを忘れて頑張れるのか。それが本物の自分を動かす、エンジン、原動力です。


その原動力を見つけることができたら、人は、体が自然に動き、動いたことによって外部からエネルギーを得て、そして、永遠とはいえないまでもエネルギーを循環しながら生きてゆくことができる。それが、水が流れるような自然な生き方であり、また周囲に貢献するということじゃないかと思ってる。


これが私の最近の思考のアウトラインです。最近考え始めたことですから、外郭しかないのです。ゆっくり考え続けられたらなと思ってる。


成長するときに適切に褒められて認められてこなかった人というのは、そういう自己認識のつまみみたいなのが壊れて、砂漠のような状態になっちゃうと思うのね。水を与えても与えても乾いてしまうような。こういう人は、褒められるという水が欲しくて一生懸命仕事をすると思う。皆に重宝がられる熱心な人です。


自分の場合、そうやって頑張って仕事をしてきたから、皆に頼られたし仕事も多かったです。だけど、それは別に給与に反映されなかった。というか、正確にいうと、頑張っても頑張らなくても同じ、それに尽きる。みんなが公平に上がっていく。だから、頑張っても無駄でした。


ここで悩んでしまった。私は何のために人より頑張ってるんだ?


少し角度を換えて話してみると、私は別に一人でそこまでやらなくても良かった。一緒に働いている人に仕事を分けてゆけば良かったんです。それを人に仕事を渡さず、さらに新しい仕事に手を出そうとしてた。


承認欲求で仕事をする時は、近くにいる他人で自分との比較対象となる人に勝とうと人は動きますから、無理に仕事をしているんです。これは水が流れるように生きてはなかったなと今になって思う。


たいして褒められずに育った人間にとって、仕事で頼られるというのは麻薬のような物です。一生懸命みんなの注目を集めるために、部下や周囲の人の仕事を奪っていたなと思います。


でも、自分の欲しかったものは手に入りませんでした。ただ純粋にお金が欲しかったとかそういうわけでもありません。


必要とされたかった。有能と認められたかった。


それに尽きるのではないかしら?


基本的には仕事をしているほとんどの人が私と同じだと思うんです。それで、会社の中で認められる機会を奪い合っているのが通常なのではないかと思う。


それで色々なトラブルがあって、なんか違うなと思い始めた過去がありました。私がラッキーだったのは、老子を少しだけ知っていたことだと思います。


老子だったと思います。歳をとるとともに自分が主張したいことを主張しても人と対立することがなくなった。どこかでこの文章を読んでいて、それで、会社の中で頑張って仕事をしても、水が流れてそして最後にもう一度自分に流れ込むようには働けていなくて、認められているようで認められていない自分に疑問を感じていて、そして、これからの人生の後半生で自分はどんな人でありたいのかと考えるようになった。


そのヒントは、まぁ、簡単にいえば老子の文章にあったわけですから、私は老子を選んで、それで、真似をして生きてこうと思っているのだと思う。


私が自然に頑張れることって何なんだろう?


勉強がよくできたので、先生と親に期待されて、それで、人から尊敬されるポストにつくことを期待されてきました。そんな人、この世にごまんといると思いますが。ただ、私は、人の上に立って偉そうに号令をかけるのが好きではないのです。


そういう 立場 にこだわるのはもうやめようと思った。だって、無理をしなければ自分は偉そうになどなれない人間なのだから。よくよく考えればそれは先生や親が私にやらせたかったことで、私がやりたかったことではなかったです。


もう自分がやりたくないことはやらないと決めました。もし今後、責任のある立場に立たなければならないことがあったとしたら、私は偉そうに威張ることはできませんがそれでもいいですかと確認しますし、自分のその性質で何か問題が出たら、さっさと別の人に譲ってしまいます。


自分にできることしかしないというわけではなくて、自分だからできることがあるはずだと考えるようになりました。


自分は良くも悪くも優しい。必要以上に相手の心がわかってしまうからですが。そういうところを優しすぎるとか弱いとかそんなふうに思って働く上であまり役に立たないなと思いながら生きてきましたが、そういうものでもないのかなと思い直すようになりました。


組織の中に下にきつく当たりすぎる人がいた場合、そのままゆくと、辞職者が出たり、そこまでいかなくとも、職場内のコミュニケーションがギスギスしたり、ハラスメントの問題から心身に不調を訴える人が出るかもしれない。


そういう状況を緩和させるスキルを、おそらく自分は備えていて、きっとそういう人間の数の方が偉そうに号令をかける人の数より少ないと思う。


現代において、実は自分のような人間の方が必要なんじゃないかと思ったくらいです。


偉くなろうなんてことにはもう興味がなくなりました。もともとそれは親の夢でしたし。私の原動力は猿山の一番天辺に登ってやろうという目標では湧いてこないのです。これっぽっちも湧いてこない。


私の原動力は、自分と同じように目標を目指していたけど転んでしまった人や、そのままで行ったら転んでしまうのではないかと思う人。その人たちのためなら頑張れる。いわばそれは私の仲間な訳ですから。


知らず知らずに人を傷つけてしまう人たちと何かと傷ついてしまう人たちの間に立って、そのままだとぶつかり合ってしまい壊れてしまうものを守りたい。


きっとそういうことなら私はできるのだと思い始めたところです。そういうことがきっと自分が一番上手なことなのだと分かり始めたというか。傷ついている人を見ると昔の自分を見ているようで胸が痛むのです。昔の自分ではできなかった何かをしてあげたい。


これは給料が上がるとか、肩書きがもらえるとかそういう話ではないのです。ただ、これだけは自信を持っていえますが、日常の仕事でも、文章を書いて発表していることでも、それが些細なことであっても、プライスレスで自分にその結果が返ってくると自分は知ってます。


これは私にしかできないことだという感覚を得て生きています。それでいいんです。それに値段がつかなくても、この場に私がいたことで、喧嘩していたかもしれない二人が笑って話していて、そして、それが私のおかげであるということにみんなが気づかなくても、それでいい。


それがきっと自分が無理をせずにできる最大のことです。泉から水が沸くように湧いて出て、流れ出てゆくけれどいつか巡り巡ってまた大地から蒸発して雨になって私を満たすように。


これは繰り返し書いているかもしれませんが、本当は出来事というのはその多くがそれ自体が良いものでも悪いものでもないのだと思う。つまりは一見悪いと思える経験にも必ずプラスになる部分があるのだと思います。


私は子供の時、非常に内向的だった自分や、コミュ障だった自分が大嫌いで、そんな自分を無かったことにして新しい自分を創作して生きていこうと思ったし、途中まで生きてきましたが、改造には失敗し、自分の中にはいまだに他人を怖いと思う自分が住んでいます。


最近はそれで良かったなと思うようになりました。つまらない経験をして、それでも元気に生きている人でなければ、わかってあげられない心があるということを自分は知っているし、それこそが自分が生きている意味だと思ってますから。


飾らずともそのままの自分に本当は一番価値があるのだと思うのです。自分で自分を誇ることができれば。


中秋の名月は朧月夜今晩はくっきりと見えるでしょうか?お月様に期待です。それでは

汪海妹

2024.09.15

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