私なりに書き方の進め19:なりきる
私なりに書き方の進め19:なりきる
一口に小説と言っても、色々な書き方があるものだなと思います。例えば作中の主人公ですが、作家さんが男性であり、毎回男性の主人公が出てくる一人称、作中で起きている出来事から行けばそれは私小説ではないのですが、作中の主人公は作者の分身であり、作者の作品を並べてみるとその主人公の性格や人間性に共通項が見られるもの。
あるいは、誰かの視点から、というのにこだわらない3人称。個人の心情よりも作中の出来事を語ることに重きを置いた作品で、主観性が低く客観性の高い文章で語られるのが特徴です。
そして、上の例を挙げた上で自分の書き方を説明すると、自分はカメレオンのような書き手だなと思っています。自分は視点を変えながら一人称を使って作品を書くことが多い人間です。恋愛小説を書く場合、ダブル主役がいて、女の子→男の子→女の子、というふうに視点を変えながら物語が進みます。
男の子であるときは男の子になりきって、女の子であるときは女の子になりきって作品を書いています。そういうところは、俳優のようだなと思う。そして、そういう形で作品を書いた後に自分が行ったのは、脇役を次の主人公にして作品を書くというものでした。
今回投稿した 勝負をおりる は、下記のような流れで書かれてます。
長編:僕の幸せな結末まで 主人公、中條清一
長編:ゆきの中のあかり 主人公、藤田塔子(清一の母)
短編:勝負をおりる 塔子の愛人 高遠秀樹の妻 玲子が主人公
この行為に別に深い意味があったわけではなく、ただなんとなく浮かんだのでそれを形にしてきたという感じでしょうか。ただ、そういうことを続ける中での副産物がありました。
清一君についても、塔子さんについても、秀樹さんも玲子さんも、彼らのしたような経験を私は自分の実人生において味わったことがありません。自分の人生に起こっていないことを、でも、人間は書けるものなのだということを経験しました。それはとても不思議な経験でした。
俳優が演じるのと似ているのだと思うのです。なりきる。その人になりきる。
特に玲子さんの部分ですが、この勝負をおりるを書くまでは、私はどっちかというとこの人が嫌いだったんです。簡単にいうとそういうことです。本編の方では悪役として出してるのですもの、そりゃそうだ。それなのに、視点を変えるとこんなにも悲しい。これは、書き終わって初めて知った玲子さんの悲しさで、玲子さんという人物を誕生させたのは自分ですが、勝負をおりるを書くまでは彼女の深い悲しさを知らなかった。
自分の脳みその中から出てきたものですから、本当はどこかで知っていたのだと思います。それは自分の経験ではないけれど、私はどこかでこういう他人の経験を見ていて記憶していたのだと思いますね。
演技をする俳優さんも、その役に没頭すると理屈ではなく本能で体が動く、いわばのっとられたような状態になるのではないかと思うのですが、実は、一人称で小説を書く場合もそれと似たことが起こることもあるのだと思う。
勝負をおりる は 玲子さんという架空の人物に私がのっとられて書いた作品です。私の書いた他の作品も程度の差こそあれ、私が私ではない誰かになりきって書いています。自分はそういうタイプの書き手なのだと思います。
小説を書くためにそういうことをしてきたわけではなく、自分の繊細にすぎる体質でどうにか心の健康を保って生きていくために、幼少の頃よりよく自分の心と周囲の人たちの心を観察し分析しながら生きてきました。その長い蓄積のせいで、ふとした瞬間に他人になりきるようになったのでしょう。
そして、そういう書き方をしているからこその自分のキャラ設定なのですが、自分は登場人物を設定するときにそのプロフィールに生育歴を用意しています。生育歴とトラウマ的過去、からのコンプレックス。人間の言動には核となる原因がある、という前提のもとに、キャラの性格を創造してます。
実際にはそのプロフィールは作品に出てこないこともある。というか出てこない方が多いです。主人公だけじゃなく脇役にまでこのようなプロフィール設定をしているわけですから、一つの作品に書ききれるわけがない。
私はキャラ設定は比較的得意なので、こういう細かな設定が苦ではないですが、これがキャラではなくて、例えば世界的事件についての設定だと流石にお手上げです。
物語について、こう思います。それは、こういうことなんです。部屋の中にこたつがあって、2人の人が入っている。作品は部屋の中でこたつに入っている2人について書いていますが、物語としては、作品中では語られず、文中からは見えない、こたつの中についても設定が必要だってことなんですよ。
私はキャラ心情という意味ではある程度これができますが、物語中の出来事で仕掛けるという意味ではまだまだです。キャラだろうがイベントだろうが、同じことです。直接書かれないことに関しても裏にどれだけ丁寧な設定があるか、これが大事なんだと思う。
つまりは、それがすなわち、物語を丁寧に作るということなのだろうなと思います。
塔子さんと秀樹さんは高校時代の同級生で、十年以上の時を経て仙台のとある雑貨屋で再会します。高遠君は塔子さんを覚えているのだけど、塔子さんは覚えてない。
書きながらこの2人はこんな性格で、などと思いつき徐々にキャラが定まるというのではいけないと思うんですね。それだと、キャラの言動に一貫性が出てこない。だから、この場面を書くときには、自分は高校時代の2人の様子を先に想像しているわけです。制服着た高遠君が隣のクラスに評判の美人がいると聞いて友達と一緒に覗きにいって、でも、塔子さんの意識には残っていない。その他大勢だった様子。
2人の再会の時には、見えないこたつの中には評判の美人を覗きにいって相手にしてもらえない過去が隠れているというわけ。これは作品に直接書かなくていいのです。ただ、そういう関係性が再会した現在の言動や描写に影響を与えているということで、裏設定というのは小説の大切な隠し味です。
高遠君は、お金持ちのボンボンが酔狂で輸入家具と雑貨の店を持っていて、本業は奥様に任せててのらりくらりと生きている、しかも既に若いとは言えない歳。そんな不良中年のような人がかつての憧れの同級生の女の人に再会するというところから始まる。
しかし、その話のこたつの中には、高遠君は一見お気楽ご気楽に見えるけれど、非常に苦労して辛い経験をして育ってきているという裏設定があります。だから、お気楽ご気楽設定のまま進んでいく物語の中で、秀ちゃんはそれなりにここというところでは味わい深いセリフを残してた、はずだ?
こういう裏設定、いわばこたつの中の事実は、作者にとっては貯金のようなものです。物語を始めて読者と一緒に進むうちにどこかの時点で引き下ろして使います。
「え、うそ!そういうことだったの?」
そして、几帳面な読者さんだったら最初の頁から読み直すかもしれない。
「あ、ほんとだ、じゃ、この時は本当はこんな気持ちだったの?」
こういう時が、スルメのように美味しかったなと思う瞬間かもしれませんよね。もぐもぐ。そして、貯金を全部下ろしてしまったら……
「おしまいでございまする」
「あ!終わりだっ!」
これで終わる。終わるのだけど、ファンの気持ちというのはこれで収まらず、ちょっとでも多くこたつの中を覗きたいと思うものだ。例えばナウシカが大好きだった私が、映画本編とは少し違うナウシカの漫画を読み、制作秘話を読み、ありとあらゆる情報を集めようとするようなものです。
幼少の頃より宮崎駿監督の作品が大好きですが、その物語設定に対するきめ細やかさには恐れ入ります。小説というのはいわば紙とペンがあれば書けるので、超簡単な気がしますが、でも、面白いものを書くためには非常な工夫がいるものだ。めんどくせ、などと思うのなら小説を書くのをやめて、読んで楽しむ方に戻れば良い。書き続けたいのならば、こたつの外だけじゃなくて中についてもこだわろうではないか。日々精進。これしかない。
汪海妹
2024.08.04