私なりに書き方の進め10:裏をかく
私なりに書き方の進め10:裏をかく
2020年に長編の番外編として書いた短編の面接を、自分でもずいぶん長いこと読み返していなかったけど、久々に読んで、しみじみと
場面の切り替わりが乱暴すぎるなぁ
と思っておりました。
ま、それは置いといて、たまには小説の書き方テクニック的なものを読もうと思ってネット検索して読んだ記事がある。すみません、過去の話なのでURLとかはっつけられないんですが、そこで書いていたのはこういうことです。
読者の予想をいい意味で裏切る文章や話を書きなさい。つまりは、当たり前のことを当たり前に書くなということです。
それを面接をダシに説明すると普通なら仕事の面接の場で彼氏いるかは聞かないなんで?普通なら美人の部下がついたら喜ぶ、なのに嫌だなんで?普通なら女が男から逃げる、男が女から逃げているなんで?彼氏いるか聞いて、いたらホッとするなんで?
ここまででも普通じゃないのですが、最後が極めつけである旦那の部下に美人がついたら奥さんは普通は気を揉む喜んでる。なんで?旦那に浮気されたいなんて思っている奥さんは普通はいないうちの奥さんは怖い、しかし、いわゆる普通の怖いではない
最初から最後まで全部普通じゃない。それはあれだ、狙って書いたのかというと、実はそういうことじゃないんです。つまりはこうだ。
生まれた時から、臍が背中についている。誰が?私がだ。ちなみにこれは遺伝だ。父も背中についている。
臍曲がりの英才教育を受けて育った結果だ。私は毎日物事をひっくり返して見ているのだ。
超スーパーナチュラルに、365日、おぎゃっと生まれてから今まで、ずっと、普通のことを必ず、せんべいひっくり返すみたいにひっくり返したらどうなるかと考えながら生きてきた。ご苦労なことである。ちなみに、この行為によってお金を儲けたことはない。
→ムダ
それで、ここで、小説は意表をつけ、というお題に言いたいのだが、いわゆる、言葉を換えて言えば、独創性を出せということだと思うのですが、確かにオリジナリティというのは大切だと思う。だけど、独創性のなりすましになってはならない。
どういうことかというとつまりですね、別に本当は臍曲がりな人間じゃないのだけど、臍曲がりのふりをして、人がいうことと反対のことを言ってみたりとか。誰かの真似をして、普通なら言わないような発言をする。これは、なんか、伝わってくるのよ。すごいつまらないと思うのよね、こういうの。
オリジナリティというのは、みんな持ってる。社会に合わせるためにみんな着ぐるみを着て、独創性のない何かを演じているだけで、本音の自分はみんな持ってるし、それを失っていなければ、モノを書く時はその着ぐるみを着ていない自分を大切にして書けばいいんじゃないかなと思う。
大事にすべきはウケるものを書くことではなくて、本当の自分で、本物の自分の言葉で書くことではないかと。まんまの自分はそれぞれちょっとずつ違うはずだから。
ただ、こうは言いましたが、きっと現代人は骨の髄まで着ぐるみを着ているので、着飾らない自分の言葉で書くということ自体がきっと難しい。
そしてまたここに一言。
本当の自分で書くことに意味があります。ただ、本当の自分で書いたからといってその文章が他人の心を必ず打つというモノでもない。そこはシビアなんだな。嘘偽りのない自分の言葉で書いて、それでそれがウケなくてもしょうがないんですよ。
ただ一つだけ言いたいのは、少なくともその言葉によって救われる人間が1人はいる。ゼロでは決してない。
それは自分です。だから、自分に嘘をつかずに何かを書くということは、意味のある行為です。
優等生と乙女共著
2024.06.14