私なりに書き方の進め⑧ 小説編、文章の癖
私なりに書き方の進め⑧ 小説編、文章の癖
随筆と小説の違うところは、随筆は短い時間で書き終えることで、小説は短編でなければ長い時間がかかるということです。簡単に言えばスキマ時間では書き終えることができません。自分で設定したキャラがいて、自分で設定した世界があります。主人公たちは似てはいますが、私とは違う人間です。書く前に、そのキャラたちを身近に感じなければならなくて、そのために何が必要かというと、現実という日常生活を生きながら、小説を書いているときも書いていないときも、そのキャラたちとその世界について頭の片隅で考えているのです。
書いている時期はその人たちと一緒に暮らしているような感覚でいるということで、そこまでしてやっとその人たちに乗り移れるような感覚があります。
それが、世界観の異なる作品を読んでしまったり、あるいは、随筆を書いたりすると、なんというか、押すスイッチが違うというか、開けるドアが違うような感じで、登場人物たちが随筆を書いている私を怖がって、逃げてしまうとでもいうのでしょうか?彼らの世界が遠ざかってしまうんですね。
だから、今の小説を書き上げるまではしばらく小説を書くのに邪魔にならないような方向の文章を書いたり、過去作を上げることにしました。
それで、今日は自分が2020年に書いた短編、動物園へ行った日、をダシに、私の文章の癖についてお話ししようかと。私の文章の癖は、助詞の欠落倒置の多用場面の切り替わりのわかりにくさ(唐突に過ぎる)
癖としてあげました。ただもう一つ言いますと、癖を全て取り払ったお手本のような文章が味わい深いというわけでもなく、癖や個性は料理で言えば重要なスパイスでもあるのです。自分の癖をよく理解し、使い方を覚えて効果的に残す、これが大事なのではないかと思っています。
助詞の欠落正しい文章よりも助詞が欠落したような正しくない文章の持つ雰囲気のようなものが面白いなと思っていた時期があるせいか、助詞を気にせず欠落させて書いていたことがあります。人間は実際は会話の部分では助詞を抜いて話していることが多い。また順番もぐちゃぐちゃだったりする。だから、ひたすら教科書の中にあるような文章で会話を綴ればいいものでもないと思う。会話については、日本語がきちんとしている程度を書き分けることで、登場人物の性格や年齢、そして、会議中なのか飲みの席なのかという場面を書き分けることができます。だから、助詞の欠落は会話部分は良い。自然である。
また地の文で口語体を使うことで、カジュアルな雰囲気を出すこともできます。
但し、小説などの地の文で助詞を抜いた表現を、主人公の一人語りの部分などで入れるなら効果はありますが、別に使用目的の意図がないのに助詞を欠落させるのは、ただ、読みにくいです。だから、初期の自分の以下のような助詞の欠落は意味がなかったなと今では思っています。
例)勝手に僕の飲んだなつが、
「わたしのと交換しよ」
と言って、自分の赤い水筒持ってくる。
→勝手に僕のを飲んだなつが、
「わたしのと交換しよ」
と言って、自分の赤い水筒を持ってくる。
上の部分だけでなく、もっとたくさん助詞が落ちちゃってる箇所がたくさんあり、これは読む方が読みにくかったろうなと思う。失礼!
倒置あるべき文章の順番を逆にすることで、その部分を強調することができる。自分はこの倒置を多用する傾向があり、文章全体の効果を下げています。
残していい例)
母さんが、居間に入ってくる。僕の顔を見て、電話をかけている父さんの顔を見る。胃がきゅっとなる。母さんの顔を見ていると。
正しくは、母さんの顔を見ていると、胃がきゅっとなる。なのですが、ここは大事な部分なので、順番を逆にして強調で良かったと思う。
いらない例)
「ね、その禁止の物を手に持っていておばちゃんに見つかるとやばいんじゃないの?」
僕も共犯になります。すると、なつはふっと笑った。小学生とは思えない悪い顔で。
→僕も共犯になります。すると、なつは小学生とは思えない悪い顔でふっと笑った。
ここは、そこまで大事な部分でもないしなくてもよかった。
倒置をシンバルだとしよう。クラッシックの曲を聴いていてなるシンバル。アクセントなので、意味もないところで何度も鳴らすとうるさいのです。初期の私は倒置によるシンバルをサルの一つ覚えのように鳴らしすぎてます。
場面の切り替わりのわかりにくさ
「水筒とお弁当、用意しといたから」
テーブルにふたつ置かれた。
「いっしょに行けなくてごめんね」
「ううん。大丈夫」
お弁当をリュックの中に入れて、水筒をリュックのよこのポケットに差し込んだ。
「せいちゃ〜ん」
玄関で呼ぶ声に向かうと母が帽子を持ってきた。
このとき、お母さんと清ちゃんはダイニングにいて、ダイニングテーブルの上でお弁当と水筒をやりとりしています。横にスライド式のドアがあってその向こうが玄関ホールで、迎えにきたなっちゃんと二人がいる場所にはある程度の距離があり、また、リュックの横のポケットに水筒を入れて、次の瞬間になっちゃんの声がするのではなく、家のドアが開く音とか、玄関に入り込んでくる音とか気配、それから清ちゃんを呼ぶ声がする、というふうに段階があったと思うんですね。それがなくていきなり「せいちゃん」と呼ぶ声が現れているので、つながりが唐突です。さらに玄関で呼ぶ声に向かう、で、これが誰の声なのかも捕捉されてません。
私たちは漫画やアニメやドラマ、視覚補助のあるコンテンツに慣れているので、そういうものに慣れている人が小説を書くと、他のコンテンツなら画像や音声が補助してくれる部分を抜いて作品を書いてしまう傾向が強いと思うんです。
目に映る色や状況、香りや音、そういうものを補充して書けるようになると一気に小説としてのクオリティが上がってくると思います。
これがいいはいいのだけど、反面、ぶっちゃけ、結構めんどくさいのよ。上の場面を使って説明すると、つまりはね、清ちゃんの家の間取りとか、内装の雰囲気とかが頭の中にないと、リアルな描写ができないんです。(ちなみに私の空想上の中條家の間取りは、友達の実家の間取りが元になっている)
初期の頃は、情景描写がどうのなんて考えてなかったし、それに、展開の遅い作品はつまらないだろうと、小説上のコスパみたいなのをどっかで考えていたのかな?でも、展開が早くて面白いというのと、棒人間が動いているような小説を書くのは別の問題で、言葉や説明が足りないと家や背景も登場人物も棒で描かれた小説になっちゃうのよ。
だから、くどくならない描写とは何かで苦しんでおります。
ちなみに、これは、ネット上の小説技法で紹介されていた方法ですが、小説を書くときに実在する場所を参考に書くと良い。私はそれで小説の舞台になる場所をネット検索して、まるで旅行に行く人のようにいろいろ調べるようになりました。地図を見ながら、美味しいレストランを検索し、写真を見たり、高校を検索し、学校案内の写真を見たり、観光案内の写真を見たりしています。
とても面倒くさいし、美味しそうな料理を見ても中国にいる以上食べられないので悔しい思いはしますが、作品を書く上で無駄な行為ではなかったかなと思います。それに、めんどくさくはあったけど、知らないことを知り、小説を書かなければ考えるはずのなかったことについて考えたという意味では、私の人生を豊かにしてくれました。
また、くどくどと長く書きました。これが皆様の参考になるようなことがあれば、恐悦至極でございます。使い方、あってるかしら?
汪海妹
大雨の降る連休中日に
自宅より
2024.06.09