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とりとめのないこと 抜粋  作者: 汪海妹
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美食について その2












   美食について その2

   2021.12.4











   

 今書いている小説のために必要で、もう一度食べるということについて考えてます。今回の作品でも、今後も考えていきたい。少しだけその道筋が見えてきたような気がしていて、だから、ここにまたまとまらないなりに文字として残そうかと。


 美食について


 今回、パティシエの話を書くにあたり、掲載までの時間が長かったのもあっていつもより丁寧に取材とでもいうんでしょうかね?洋菓子の歴史みたいなものを調べて、そして、フランスの食文化を少しだけ除いた。


 トリュフとか生チョコ。そして、チョコボンボン。そういうものが発明された経緯のようなものを読んだんです。


 そのフランスを中心に食に関して心血を注ぐ文化にちょっとだけ触れた。


 そして、考えました。

 生きていくためには必要のない、ここまで贅沢なものをどうして人々は追い求めて発明していくのかなぁ。


 チョコの製法は確かに進化してます。新しい方法を発明する人がいて、新しい味が生まれている。


 私たち人間は、火を発見してから今まで、延々と食をも進化させ続けてきている。

 火を使って調理したほうが栄養の吸収率が上がったり、食中毒を防ぐといったような部分については理解できる。生き残るための知恵ですから。だけど、チョコボンボンのような贅沢な美味を追求する是とは何か?


 まだ学生だった頃に読み漁っていた手塚治のブッダを久々に電子で購入して読んでます。


 もともと自分は父の影響で子供の頃からある程度ですが、仏教や儒教に少し親しんで大きくなってます。

 親しんでいなければなかったかもしれない、贅沢な美味に対する罪悪感を持っているんです。

 美味だけではなくて、贅沢に対する罪悪感です。


 宗教思想をそんなに深く学んだわけではなく、中途半端に覗いてしまったから或いはまずかったのかもしれません。


 自分は子供の頃から、宗教的な生き方よりも、美術に焦がれてました。美しいもの。

 未熟なままにここに語ると、あるべき姿を懸命に描き続けた宗教画の時代を過ぎてルネッサンスを通り越し、絵画は自由になった。

 あの流れを見ながら自分なりに真剣に考えた。


 自分は何を美しいと思うのか。それは、ルネッサンス以降の現代の絵画です。

 そして、人間はありのままが美しい。自然な姿。

 正しくはありきれない姿が私は好きです。その反面、ではただひたすらに戒律のようなものに背を向けて己の欲望のままに生きれば幸せになれるかというと、そこまで単純ではないのかなとも思ってる。人にはやはり戒律のようなものが必要です。


 ただひたすら自由に生きている身からは、美しいものを感じる感性が抜けていく気がするのです。

 心は澄んでいなければならない。心を澄ませるためには、やはりある一定の戒律を人は持つべきなのではないかと思う。

 簡単に言えば、人を殺す人の心は澄んではいないでしょう。

 簡単に裏切る人の心も澄んではいない。


 物質欲について考えれば、食欲も物質欲のうちの一つなので、欲というのはそこがない。現代人は非常にたくさんの物に囲まれて生きている。引っ越しをすればわかる。大量の使わないものに囲まれて生きている。


 本当にこんなにたくさんのものが必要だったのかなと考える。

 実践できてはいませんが、自分にはミニマリストの素質があります。

 自分にとって本当に大切で、必要なものは何か、捨てられるものから順番に考える。


 これはとても、清々しい行為なんです。断捨離ですね。

 その想像の中で、自分の欲しいものとそれに囲まれた生活を考える。いらないものはいらない。

 生活はもっとシンプルになります。


 お金がなければこんな感じ。でも、お金があればそれはそれで……。

 やっぱり自分も人間だから、欲望はあるしね。

 だけど、本当に自分のしたい生活というのはきっとそこまでお金がなくてもできることなんですよ。


 お金がないとできない暮らしを求めているわけじゃない。

 だけれど、給料の高い仕事をしていないことにイライラとしていた自分。

 お金が欲しかったのではなくて、世の中に認められたかったのだと思う。お金持ちと結婚してお金を得たいと思ったこともない。

 人より低い給料で働いていることで、他の人に下に見られるのが嫌だ。それだけ子供の頃から成績が良かったから期待されて育ってきたんです。本当の自分はそんな自分ではありませんでした。


 本当の自分は一人が好きな自分です。本を読んだり、絵を描くのが好きな人間。

 人が嫌いなわけではありませんが、人とのぶつかり合いが苦手で許されるなら、本を読んだり絵を描いたり、静かに暮らしたかった。

 そんなにたくさんのお金など必要なかったはずです。そこまで人と関わらなくても働ける職場で真面目に働いて、家で本を読んだり絵を描いたり静かに暮らしていればそれで良かった。出世欲のようなものは外からやってきたのだなと思う。


 親が期待したからですね。

 だけど、親の悪口が言いたいわけではなくて……。でも、自分が本当にしたいことと親の欲する姿が違っていて、私はねじれてしまった。ねじれてしまった自分をゆっくり治すために私は日々を生きているわけです。


 物を捨てるということはね、無駄な欲を捨てることだと思うんです。そして、本当に欲しいものだけを手に入れて周りに置く。頭が非常にすっきりして、考えがまとまります。そして、心が落ち着く。


 随分長い前置きになってしまいましたが、美食というのもそういうものだと思うんです。


 基本的には自分が健やかに生きていくために必要なものを必要なだけ食べることだと思うんです。

 食べすぎれば病気になるように人の体はできているのですから。

 頭だってすっきりしないですね。適度に運動し、病気にならないような食事をする。そして、食べ物を無駄にしない。

 現代人は肉を食べ過ぎだと思うんですね。卵や肉、魚を少なめに食べたほうがいいのだと思う。


 その代わり、たまに味わうことでその味をより十分に味わうことができるのではないかな。

 たまにしか食べない代わり、どう食べるかには拘るべきだとも思うんです。


 せっかく生きているのだから、美味しいものを美味しく食べたい。

 でも、どんなに美味しいものでも、毎日のようにしこたま食べていたら、人は本来の味覚がぼやけると思う。

 人の味覚を鋭くさせるためには、贅沢な食に対する飢えが必要なのだと。適度な飢えです。

 それが結局は人の体を健やかにするのだし、贅沢を楽しむことに対する罪悪感を軽くする。


 私は罪悪感と共に生きています。

 罪に自覚的か無自覚かの違いだけで、角度を変えてみたらやっぱり贅沢は罪なのだろうな。

 だけど、自分は宗教家ではないです。


 私にとっては、僅かな罪の意識とともに飲み込む。それが最高の贅沢、美食でもあるのかもしれません。


 自分は画家になりたいのだと思います。美しい物を愛でたい。そして、それを愛でることができる身分であることに感謝をしています。世界中の人全てが、このような幸せな身分ではないということを忘れずにいる。それは私が選んだ生き方であり、全ての人がそうである必要はない。


 私は画家になりたいのだと思います。ただ、何かの因果で絵筆で絵を描くのではなく、言葉で絵を描くのかもしれません。


 贅沢でぬるい食と生活をすれば、きっと私の描いた物は光り輝かないかもしれませんね。

 だけど、人は、自然なままが美しい。少しずるかったり、ちょっとダメだったり……。

 私は人の小さな悪を愛しているのです。でも、それが大きくてはいけない。

 悪が大きくなる前に正しい方向へ、戒律のある方向へ戻る、それが重要なのではないでしょうか。


 まとまりのないままに。今日はここまでで、思考の散歩を終わらせようかと思います。

 明日からもう少し真面目に家の中を片付けましょうかね。


 汪海妹

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