世界は繋がっていて彼方には前線がある
世界は繋がっていて彼方には前線がある
2021.11.28
今まで自分で整理して来なかった、中国に来てからの出来事についてちょっとずつ考えようかと思ってます。それで、自分の思い出の沼に浮かんでくるもの。
(沼、沼だな。こう、どろっとしてんだよ)
中国に、中国語もほとんど、というか全然話せないのに単身で来て、とある工業団地の管理会社に就職。昼は宿舎と食堂の管理、夜は日本語教師として工業団地の中国人従業員に日本語を教えるという仕事をしてた。
宿舎と食堂の管理、というか、工業団地の宿舎や食堂に関してのクレームを聞く仕事でした。
ううんと、わかりやすくいうと、その頃は日本での人件費の高騰を背景に世界の工場中国に進出する製造業が増えてた。大企業が進出する。主だったサプライヤーにも中国進出を促すわけです。そう言った中小企業の受け皿だった工業団地。日系の中小企業がお客さん。
夢もある、希望もある。しかしだな、会社として出来上がってるわけではもちろんない。
ものすごいカオスだったわけだ。そのカオスの真っ只中に日本人苦情係件日本語教師として立ちました。
若かったよ。社会を右も左もよくわかんねぇ、普通の日本人のお姉ちゃんだった。
私とおんなじようなさ、中国語全然話せないけど、責任者としてこんなとこ飛ばされてきました!みたいな日本人男性。
「風呂のお湯が出ないんですけどっ!」
「はぁ、そうですか」
対、バックパッカーみたいな海外好きな社会経験に乏しい日本人女子。(→私)
「○○さんみたいな、女の子だったら、可哀想だって思ってクレーム言いにくくなるっていう戦法ですかっ?」
「へ?」
こんな世界だったよな。あんたに言ってもわかんないんだろうけどさっ!つうか、責任者出せっ!
と何度も怒鳴られていた。
責任者は、某大手商社を既に定年退職したとか、やはり海外で経験を積んで定年退職した海千山千のおじいちゃん達でした。
残った人生を海外に不慣れな日本の後輩達のために尽くそうと安い給料で働いていたおじいちゃん達。
もちろん、日本人です。日本人離れした日本人。
おじいちゃん達から見たら低レベルな若造の怒りになんて付き合わない。サクッと逃げてしまう。
本気の大変なことには付き合いますよ。もちろん。
宿舎の電気がとか、臭いとか、食堂でどうのとか、そういう系のことは取り合わない。
とりあえず中国語もよくわからない私が聞いてたわけだ。
みんな、慣れない外国で、しかも、インフラがまだ全然だったんです。あの頃の中国。
望んでもないのに飛ばされて、しかも、中小企業は会社で日本人一人のところも多かったし。
電話かかってくる。出る。怒鳴られる。えー、みたいな繰り返しでした。
日本での当たり前が全く通用しない。中国人の子達は、教育のレベルがピンキリで、工場に来るような子は算数もできないような子もいる。
治安も悪かった。法治国家日本しか知らない私たちにとって、あの頃の深圳は無法地帯でした。
尚且つ思ったのはね、日本の物の品質の良さ。
汚い話していいすか?
トイレの便器、あの座るとこ、プラスチック。
初めて中国に来て住んだ家のトイレの便器のプラスチック、割れてたんだよ。
「え?」
これって、割れる物なのですか?
それをあの、ガムテープではなくて、透明な段ボールを止めるテープあるでしょ?あれで補修して使ってたんだ。定期的に交換。
生まれて初めて割れた便器で生活したさ。
そして、とある強い雨が降っている日の朝、朝起きてベッドから降りるとぽちゃん。
床上浸水。
なぜ?ここ、3階。
なぜならば、事務所のビルの3階に作られたこの居住区、屋上の一部に部屋がある構造。屋上と部屋の高低差がないんです。部屋が高くないのね。だから、屋上にたぁくさん水が溜まると、部屋に流れ込んでくるんだ。
建築の専門ではない。
しかし、建築の構造について思い馳せました。この時。
そして、ボールペン。
中国に来たばかりの頃のそこらで売っているボールペン、必ず書けねえんだ。
ごろごろ、ごろごろ
優しくしてやった方がいいのか?こうか?こうか?
ボールペンに対して万遍なく気を遣って初めて、インクが出る……
おー、のー!
(来中したばかりの頃、香港までわざわざボールペンをまとめ買いしに行ってた。嘘ではない)
ボールポイントペンの構造についてもこの頃、学びました。
そして、コピー機。
紙が詰まらないのはコピー機ではない。
紙が詰まるたびに本来ならオフィスガールであり、コピー機の不具合に対応する必要はないはずの私は思い馳せる。
湿気か?紙が安いと、なんかしめっとしてる。だから、二枚も三枚も一緒に出た挙句詰まるのか?
この、1枚ずつ紙を送り出す部品、神だな。
どうやって1枚ずつ出すんだ?
しかし、この部品も、この安紙には屈したか。
どこが詰まっているのか示す画面表示を見ながら、紙を取り除き機械を再起動させる毎日だった。
これらの思い出話から、だから諸君、恵まれた環境にいながらぶつぶつ文句を言うでないという説教をしたいかというと、そうではない。
あの時、周りの日本人を見ていていろんな人がいました。
日本での当たり前が中国では当たり前でないことに素早く適応できる人と、なかなかできない人がいた。
前者の方がサバイバル能力が高いと思う。
じゃあ、前者の方が優秀かというと、一概にそうも言えないんです。
日本ならではの考えとか方法とか、そういうものを守らなきゃいけない場面もある。
ただ流されればいいという物でもない。だけど、日本の方法のままでは進めないのが海外です。
落とし所がどこなのかというのを我々は常に考えなければならない。
今、世界が繋がっていて、鎖国なんてできない時代。海外との落とし所を常に考えて、それが、自分たちの不利にならないようなところへ落とせるように常に足掻くべきなんです。海外に飲み込まれるべきではない。
しかし、日本の思う100を海外に押し付けることもできない。なぜならば外の国の人は外で、自分たちの譲れない部分というのを持っているのだから。
例え、日本に住んでいて海外とは無縁の生活をしているとしても、日本の物が海外へ出て売れていく。その影響でもって豊かな生活をしている。していた。その場合には、日本にいながらも海外というのをやはり意識するべきなのだと思うのです。
日本のものが海外で全く売れなくなったらどうなるか。
この世界はいつも争っている。争いながらその自らの領土を常に変化させているんです。
1番後方にいるからと言って、その事実から目を背けてはいけないのだと思う。自分の属している世界のずっとずっと向こうには、戦地がある。
そこで戦っている人がいて、そして、守っているものがあるから、後方にまで届くものがある。
本来であれば戦わずに平和にお互いが存在し合えればいいのですが、それもまた、たくさんの努力の上にあるのです。
例え今、1番後方の1番安全なところにいるとしても、それを人は忘れてはならないのだと思います。