手塚治虫先生とワタクシ
手塚治虫先生とワタクシ
2024.03.31
ブラックジャックが好きで、そして、火の鳥を読み、火の鳥は夢中で読みましたが、ただ、とっても怖くなったんですよねぇ。この怖さは簡単に説明できない怖さなんですけど、あえていうならば宇宙が怖いというのとも似ています。
父が儒教や仏教にある程度親しんでいたために、また、これは自分の個性だと思うのですが、子供の頃から難しい本も含め色々な本を興味が湧くものから片っ端から読んでいた。子供というのは純粋ですから大人のように逃げ道を確保する狡さという名の器用さは持ち合わせておらず、さまざまな難題を読んでは真正面からそれについて悩んでいたように思います。
話を最初に戻し、手塚治虫さんの怖さというのは、真理が怖いとでもいうのでしょうか。
漫画の中に描かれていることが時間にいえば悠久、空間で言えば、宇宙からのぞいているようなスケール感なので、人間を離れて神様に近づいてしまったようなそんな怖さだったのだと思う。
感受性が鋭く、前述のような狡さがないために逃げ場がなく、本能的に怖いと思ってたように思います。
じゃあ、嫌いかというとそういうことでもないのかな。
手塚治は私にとって読み始めると止まらない漫画です。
この前の週末、ガンダーラから取り寄せたあれはなんというのだ?石っころ?壁に掘られた石窟のプレートとでもいうのでしょうか。ギリシア神話の神様たちの姿もあったし、そして、さまざまな場面のお釈迦様の姿もあった。博物館に行ってきたんです。深圳博物館。親子三人で。
「これ、どういう話なんだろ?」
「うーん」
中国語を使って生活はしているが、自分の生活や仕事分野を離れた単語はちんぷんかんぷん。特に地名や人名は無理。ただ、そこに描かれた物語が気になって、それで久しぶりに手塚治のブッダを開いたのです。
大人になってから自分のことを客観視して思った。自分はごく幼い頃から、キリスト教や仏教と少しずつ触れつつ大人になった。純粋だった自分の結構深い部分に、宗教的な思念というのは刺さったのです。これが、自分が表面上では砕けた人間のようでありつつ、芯が真面目である所以です。
子供の時自分が初めてブッダを読んだ時、その生き方に尊敬を覚えつつ、怖かった。
どうしてかと言えば単純で、その本にお前もブッダのように生きろと言われているような気がしたからです。
子供の頃から今までその問いに対する答えは変わらない。無理。ただ、その無理という言葉は反射的に出た簡単な答えではなく、それなりに考えて悩んで出した結論。私に出家は無理。
ただ、ブッダのような宗教に身を捧げる生き方というのに対して、意味は感じていたのだと思います。私は理想家に生まれついています。仏教の思想は私に世の中の理想の形とは何かを教えた源です。そして、犠牲という考えを私に植え付けた。自分はブッダほどに苦労はしていない。自分はブッダほどに自分の人生で犠牲を払っていない。
大人の狡さを持たない子供の純粋さで、真面目にそんなことを考えてた。
そして、思ったのです。宗教って人に罪悪感を植え付けるものだよなと。
その後に、子供から大人になる過程で、いわば人間の反抗期の時期ですが、自分はその罪悪感を植え付ける宗教とか親を中心に植え付けられた倫理的なもの、それを壊そうとか外そうとか放り出そうとか、そう思った時期があった。
そして、途方に暮れたのです。
自分が取り外そうと思っていたのが、思いの外自分の中心の方に食い込んでいるものだったからだと思います。
そんな変遷を得た上で今また上記のようなことについて何を思い感じるか。
人間の罪悪感というのは大切な要素です。
正しくありたいと願い、しかし、自分の正しさはまだ足りないと思いながら大きくなってきた自分は、罪悪感の塊だったなと思う。
平和な時代に生まれ、豊かな国に生まれ、比較的裕福な生い立ちでした。病に苦しんだこともない。
罪悪感はいつも傍にあったように思います。
不思議なことです。恵まれているのだから何不自由なくその楽を楽しめばいいのに、そこに罪悪感を感じながら生きるなんて。
ただ、私のような罪悪感を感じながら生きている人というのは実は割と私以外にもいるんじゃないかな?
ブッダの生き方の中で特に私にはできないと思うのは、親と妻と子を捨てて出家している部分ですね。
できません。
自分には仏教をはじめ、そういう倫理観というものは深く入り込んでいると思います。
倫理観の教えるあるべき姿と倫理観に縛られない自然な姿。その二つの間でいつも行ったり来たりしながら迷ってきました。
ただ、そんな混乱した青春の過程で、自分で自分に決めたことがある。
私はですね、あるままの姿を見つめそれを写す人でありたいのです。
私のあるべき姿は画家でありたい。しかし、まぁ、今は絵筆を取らずに自分の目に映るものを言葉で絵にしたいと思っているのです。
ブッダを読んでいて、ブッダの生き方は尊敬するし心を打たれる。しかし、それは私の生き方ではない。
もちろん最初からそうだったのです。大抵の人がブッダの生き方に感銘を受けても、それを自分の今いる現実に引き込もうなどとは考えないでしょう。そこが切り離せない自分は理想家に生まれつき、そこが自分の個性でもあった。
親に上を目指せと言われながら歳をとり、自分はさまざまな自分のあるべき姿を描いてはより混乱していた。
父が宗教家になれと言ったことなどなかったですが、父が望んでいたのは倫理的な人間であり、宗教家などではなかった。ただ、自分は倫理的であることの形を追求し、その完成された姿が出家した人であり、現代で経済的成功を収めている人の姿とは矛盾するものだった。
口では倫理的であれと言いながら、私の目から見る大人たちは自分の親も含め欲を持った普通の人たちでした。
そんな中で自分が志したかったのは小説家、或いは漫画家、または画家だった。芸術を望んでいた。しかしその反面、親に倫理的であれと言われ、倫理的であることと自由な発想のもとに創作をすることもまた矛盾していました。
そこまで真剣に悩まなくてもよかったろうに、物事をとことん突き詰めて考えるのも自分の性質でして、大人でも解けないパズルを子供の頃から解こうとして四苦八苦していたように思います。
自分はむしろそんなごちゃごちゃした10代を過ごしてきた。10代の自分には苦しい思い出が多い。
むしろそこを過ぎて歳を取ってからの方が、自由を得て青青としているような気がしているくらいです。
私が今、ブッダに対して思うこと、それは、自分に自己犠牲を求めてくる存在では決してありません。
この世には、たくさんの自己を顧みずに他人のために生きている尊い人たちがいます。その人たちを見て、罪悪感を覚える必要はない。
ただ、感謝。
人には器があります。それぞれの人が運命に求められるものの大きさも違う。
私は子供の頃、自分の器の大きさを知らなかったのだと思う。
人は自分に与えられた器によって、求められたことに対して真摯に取り組めば良い。自分の器は目の前のミッションをクリアすることによって少しずつ大きくなります。その大きさを人と比べる必要なんてない。
私の人生の前半には、自分がいなかった。
親からどう思われるか、先生からどう思われるか、友達からどう思われるか、そんなことが全てでした。
小説を書いて生きていきたいと思った時、色々な小説家の人生について読みました。有名な人たちに比べて、自分は大した苦労をしていないなと思ったものです。自殺しかねないようなトラウマとか、ブッダのような激しい自己犠牲とか、何かそういう特殊なものがなければ自分は認められることはないと強く思いこみ、私は生きていることを楽しんでこなかった。
ブッダは自身の苦しい人生の中で、一度も、お前も苦しめなどとは言っていないのですよ。
試練というのは神から与えられるもので、自ら拾いに行くものではないと思うのです。
今目の前にある試練に真摯に取り組めば良い。
人類のためのより大きな試練に関しては、それを受けてくれている人が既にいる。だから、自分も無事生きているわけで、そのことに対して心から感謝し、そして、自分は自分にできることを精一杯やるだけ。
川が流れるように生きてゆけばいい。
自分にできること、すべきことは遠くを眺めて手を伸ばさずともすぐ目の前にきっとある。
己を生かしてくれる他人に感謝しながら、自分もまた他人を生かすために自分にできることをやる。
大切なのは、他人に認められたいと思い、他人のために生きようとするその欲を手放すことです。
自分のために自分にできることに向かうとき、人は迷わず、その心の水面は鏡のように澄んでいることでしょう。
 




