直感的に生きる
直感的に生きる
2024.01.24
帰り道、地下鉄を降りてから家路を辿る。目の前に淡い水色の小さなダウンを着た姿が二つ。お母さんとおばあちゃんに手を繋がれて一生懸命歩いている。同じぐらいの背丈だから兄弟姉妹ではなく双子なんじゃないかな。
よちよちと歩くその後ろ姿。見ず知らずの子供達を見て、心があったまりました。
週末は歩けば汗ばむほどの陽気だったのに、月曜日から突然冷え込んだ深圳、運動不足のために少しでも歩こうと地下鉄一駅分歩いている。寒いからさっさと歩こうと小走りに近い早歩きで見上げた冬の夕空。
空が今日はきれいだな、空は今日もきれいだな
空がきれいだと思える心の余裕があるということは、私は今日は元気だということだ。
心なんてどんなに気をつけていても、いつも浮いたり沈んだりする。
新しい勤め先、地下鉄に乗りながら通うのも中国に来てから初めて。今週からは慣れない道を歩く。
知らない道を歩くのが好きだ。知らない道をゆけば、新しい発見がある。
「あ、こんなお店がある」
私好みの隠れ家のようなカフェバーや韓国焼肉の店、おしゃれなカフェも見つけたぞ。
「よりたいな」
と思いながらも素通りして地下鉄の駅へと急ぐ。息子が待っているからだ。
正確に言えば、小学6年生の息子はそれほど熱心に私を待っているわけではない。ただ、子供を家に置いて働いている母親は、いつもどこかで後ろ髪を引かれているのである。
息子が高校生になったら、子供は日本で寮に入り、親は中国で働く予定なのである。
バラバラで暮らすなんて想像すると今から胸が張り裂けそうだけど、ただ、子供というのはいつか自立して離れてゆくものだから、子供の成長のためには悪い選択ではないと思う。
そうしたら自分は仕事帰りにこんな自分好みのお店で一人飲もうかな。
お知り合いにお酒を飲みながら一人、文庫本を読むのが好きだと言っていた人がいた。
一人になってしまって寂しくて死にそうになるより、むしろ楽しみを持った方がいいよね。
厳密に言えば息子が日本へ行ってしまっても、主人がいるのですが、射手座の男は家に寄りつかないからな。
蟹座は射手座と結婚するべきではなかったよ。やれやれ。
地下鉄に乗って三駅すぎる。一駅歩いた分乗る時間がさらに短くなった。
地下鉄の中ではいつも真剣に携帯ゲームをしている。このパズルは頭をめっちゃ使わないとすぐにゲームオーバーになる。
いつもは5つのハートを全て使い尽くした頃に降りることになるのだが、一駅歩いた分ハートが残った。
ゲームに熱中しすぎていたために、最寄駅で降り損ねそうになった。慌てて降りた。心臓がドキドキした。
東京で流行っている曲のランキングをアイフォンに流させる。邦楽は詩が悪いと気に入らないので、聞くに耐えないものを飛ばしながら聞く。
昨日ランデブーという曲が気に入って、履歴の中から再度それを探してかけた。
地上に出ると、寒風にさらされる。
大人になってから、冬が少し好きになった。
短い冬が来ると、頭が冴える。
それがどうしてなのかについて少し考えていた。
きっとそれは、私が子供時代を東北で過ごしたからなんだろう。
自分が一番感覚的に研ぎ澄まされていたとき、それを寒風にさらされると思い出せるような気がするから。
小さな女の子の自分を連れながら歩いていたら、お揃いの薄水色のダウンをきた子供達を見かけたのである。
私は子供がとても好きな人なのだと思う。これもここ最近自覚したことだ。
子供好きの感情というのは国際的なのです。つまりは、日本人が中国人の子供を見ていても可愛いなと思うし、中国人が日本人の子供を見ていても可愛いなと思うだろう。子供嫌いな人を除けば、子供を見て可愛いなと思う気持ち、中国人と日本人に違いはないんです。
私は子供の頃から、そういう部分ではっきりと割とボーダレスでした。
自分が海外に長くいるからわかるのですが、人間のボーダレス度というのには個人差があるのです。
海外に対して不信感の強い人は日本人にもいるし、中国人にもいる。
私はかなり海外に対してオープンな人で、それが高じて海外で生活し結婚までしてしまったのですが、だからこその主張といえば、
子供を可愛いと思う気持ちは国が違えど同じです。
だから、ガザで子供たちが亡くなっているのを見て、たくさんの人が胸を痛めるわけで。
女は子宮でものを考える。だから、どの国の子供だろうが子供は可愛い。そんな論理でもって様々なことを判断すればいいのになんて極端なことを考えたりする。私は元々はとても直感的な人間なのです。
そんな一方、若さと引き換えに学んだことでもっていうと、女は子宮でものを考える。プラス、私は直感的な人間ですので、よくいえば斬新な、悪くいえば急進的な論を進める傾向が強かったのです。また別の言葉で言えば、偏っているというか……。
それが最近、色々苦労してうまくいかせたいことがうまくいかなかったからとでもいうのでしょうか、今までにないほど深く考えることが時折あって、そして、気づいたことは自分が自分にはまっていたというか、自分のことばっかり考えてて、周りを見てなかったなということです。冷静になって周りを見てみたら……
どちらかと言えば自分は自分に厳しく他人に優しい。自虐傾向の強い人間で、ずっとその罠にハマり続けてきました。
冷静になって周りを見てみたら、ちょっとずつ違いはあるものの、他人だってそれぞれ短所を持ってるなと。私だけがダメなんじゃなくて、みんな似たようにダメだなと。そして何より、独りよがりなのですよ。
独りよがりな人の話すことというのは、偏っている。
女性の場合は子宮でものを考えている人もいるでしょう。
しかし、その偏った言葉や思想というのには、ある程度の力しかないのだなと。
大きく人に影響してゆく言葉や思想というのは、安定した基盤の上に立てられていて、偏っていないのだなと。
人を動かす人の思想というのは、自分と対峙する人の考えに対しても非常に寛容であると思う。
もうちょっと噛み砕いていうと、深い考えを持つ人というのは、まず、他人の考えを遮らずによく聞いていると思うのです。
簡単に否定せずに、まず受け止めて、それから、自分とは違う部分について問いかけてゆく。つまりは対話をしている。
偏っていないというのはつまりは、むやみに他人を否定しない部分にあるように思います。
また、それと同時に矛盾するようですが、むやみに他人を信用しない。
信用しないというとちょっと語弊があるのかな?
テレビで報道されているのをみて、他人の意見に右往左往する。でも、マスコミというのには限界があって、現在世間で問題になっていることにフォーカスされていることに集中して報道するために、やはりそこにも偏りというのが出るのです。
参考にはしても軽々に左右されるのではなく、もう少し時間的には長く空間的には広く、自分なりに思考するべきなのかと思うようになった。
自分は感覚的な人間で、感情的な人間でもあるのですが、子供を可愛いと思うのはどこの国の人も同じなんだよという感情を中心にして派生してゆく自分の思考は、そのままではたくさんの人に理解されることはないわけです。
人に自分の考えを説き、理解してもらうためには、偏りなく語りかける技術が必要なのだと学びました。
論理だけではない。それはやはり、コミュ力なのだろうなと。
自分とは異なった考え方をする人と対話してゆく力が、求められているのだと思います。