06. おとぎの檻
夏至祭まで、あと八日。ジュリアンはフルール城にある窓のひとつから身を乗り出して、地上までの高さを目測していた。敷き詰められた硬い石畳を見ていると、決意が揺らぎそうになる。
「だ、大丈夫だ。この高さなら、問題ない」
残されたわずかな日数で、最悪な運命から逃れるためには、必死で足掻かなければならなかった。
大至急、対策を講じる必要に迫られた彼は、体を壊して、宴を欠席しようと考えたのだ。
それに、リナリアが嘘をついているかどうか、確認する意図もあった。神子の力が予知夢ではなく、ジュリアンが予想した幻惑の力なら、彼女と関わりなく怪我を負った時には、発動しないはずである。
窓の縁に片足をかけた。恐怖を和らげようと、自分を鼓舞する。
「頭から落ちなければ、死にはしないさ。城には腕利きの医師だっているんだ。俺ならきっと、上手くやれる。よし、行くぞ……!」
窓縁を蹴り、勢いよく空中へ飛び出した。高い窓から跳躍したジュリアンは、高速で落下し、地表へ叩きつけられた。骨が砕ける鈍い音がし、衝撃の激しさに視界が明滅する。電流のような激痛が、ジュリアンの体を駆け巡った。
「うあっ、あぐうぅっ」
あまりの痛みに震えが止まらず、満足に悲鳴をあげることさえできない。涙と脂汗が吹き出して、くしゃくしゃに歪めたジュリアンの顔を濡らしていった。
地べたに転がり、ぜいぜい喘ぎながら、怪我の状態を確認しようと身をよじる。折れた両足は奇妙な角度でねじ曲がり、それぞれの爪先が、とんでもない方向を指していた。
「ひあぁあ!」
ショッキングな光景に、喉の奥から情けない呻きが漏れてくる。その時、強い眩暈に襲われて、ジュリアンの意識は途切れた。
目を覚ましたのは、翌朝だった。自室の寝台で、穏やかな一日が始まろうとしていた。
「そんな……嘘だろ」
激痛が消えていた。掛布をめくると、真っ直ぐな両足が、すらりと伸びている。損傷した痕跡は無く、ジュリアンの体は健康そのもの。骨折の事実が消えていた。
リナリアと接点の無い条件下でも、こうして怪異が発生した。彼女が語った恐ろしい運命の話を、ジュリアンは信じ始めていた。
□
夏至祭まで、あと七日。ジュリアンは、愛人クレオメの屋敷へ馬を飛ばしていた。
怪我を負って夏至祭の宴を欠席しようという安直な方法では、運命を変えることができなかった。ならば、クレオメが宴に乗り込む動機になる物を、取り上げてしまおうと考えたのだ。
「クレオメ!」
「まあ、殿下。突然、訪ねて来られるなんて、どうなさったんですか?」
「ドレスは! 俺が贈った、ドレスは届いているか?」
「はい! あれほど豪華な贈り物を、ありがとうございました。私、ずっと不安でしたが、ようやく確信することが出来ましたわ」
「か、確信だと? いったい、どんな……」
うっとりと、クレオメが告げた。
「あのドレスこそ、ジュリアン殿下の、お心そのもの。私への愛の証だと、ちゃんと伝わっておりますよ」
クレオメの誤解に、気が遠くなる。違うと怒鳴りつけたくなったが、ぐっとこらえた。一度、こうだと思い込んだ人間に、認識を改めさせるのは困難だ。下手に否定しようとすれば、余計、頑なになるだろう。
「実はな、あのドレスには深刻な欠陥があると判明した」
「えっ!?」
「縫製に問題があり、着ているうちに糸がほどけて、下手をするとバラバラになってしまうらしい」
「そんなぁ」
「お前が人前で裸になっては大変だ。だから、急いで駆けつけたんだよ。仕立屋に直させるから、あのドレスを渡してくれないか?」
「分かりました。ただいまお持ち致します!」
クレオメを言いくるめて、なんとかドレスを回収した。再び馬に飛び乗ったジュリアンは、愛人の屋敷を後にする。
建物の無い平地に到着した彼は、部下に油と火種を用意させた。物理的に燃え上がる、愛の証。ドレスがすっかり灰になるのを見届けると、ようやくジュリアンは肩の力を抜いた。
「よし、これならクレオメは乗り込んで来な……」
眩暈がした。彼の抵抗を嘲笑うかのように、呆気なく意識が遠ざかる。再び目を覚ましたジュリアンは、寝台の中で、翌朝をむかえていた。
□
夏至祭まで、あと六日。一週間をきってしまったことで、ジュリアンは余裕を失った。
最早、手段を選んでいる場合ではない。幽閉以外のリスクなら、甘んじて受け入れる覚悟で、がむしゃらに行動する。
宴の会場となる、城の大広間へ放火した彼は、あっさり翌日に飛ばされた。
破壊行為が通用しないなら、信仰方面でなんとかならないかと、発想を切り替える。
高位の聖職者へ接触し、個人資産を全額寄進すると申し出た。大喜びの聖職者へ犯した罪を告解し、悔い改めると誓った途端、翌朝をむかえていた。
聖職者が駄目なら、権力者の知恵を借りようと、今度は執務室へ飛び込んだ。仕事中の父と宰相へ、これまでの悪事を洗いざらいぶちまける。
国政の最高責任者と最上位補佐官を、同時にポカンとさせる偉業は達成したが、すぐに翌日へ飛ばされた。ジュリアンが暴露した己の悪行は、二人の記憶に残らなかった。
□
夏至祭まで、あと三日まで迫っていた。切羽詰まったジュリアンは、苦渋の決断を下し、城の薬草保管庫を訪れた。
醜くなる薬を入手して、自室に籠ると、ひと息に飲み干した。
「ぐわあぁぁ!」
全身を焼かれるほどの激痛に、悲鳴を上げてのたうち回る。苦しみは、十時間近く続いた。ようやく変異を終えた美貌の王子ジュリアンは、二足歩行のヒキガエルじみた姿に成り果てた。
「ははは……、これが俺か。惨めなものだな」
鏡の前で立ち尽くす。己の姿に涙が止まらない。だが、この醜悪さなら、面食いのクレオメは、必ず冷めてくれるだろう。国の混乱を回避でき、家族に迷惑をかけずにすむのだ。容貌くらい安いものだと、自分自身を慰める。
こんな姿になってしまったからには、一生、僻地で隠れ住むしかなくなった。それでも、幽閉よりは、随分マシに思われた。
ようやく運命から解放される。そう安心した直後だった。ジュリアンは、強い眩暈に襲われた。
「また、だめなのか?」
意識を失い、寝台で目を覚ます。歪めた顔さえ麗しい第二王子は、燦々と輝く朝日を浴びていた。
ジュリアンが前日にとった行動は、ことごとく消去され、都合よく修正されていく。どれだけ彼が苦労しようと、何事もなく公務を行い、平穏に過ごしたことになっていた。
□
夏至祭まで、残り二日となっていた。
ふざけたおとぎ話の檻に閉じ込められて、自力では抜け出せそうにない。万策尽きたジュリアンは、わずかな供を連れて、隠すように建てられた石レンガ造りの塔を訪れた。
屋外に部下を待機させ、一人きりで階段を上がっていく。
ここは、嘆きの塔と呼ばれている。王族専用の幽閉塔だ。その最上階には、客室に似た造りの部屋がある。長らく使われていないため、立派な調度品には埃避けの布がかけられていた。
「ちっとも変わらないな。いや、外の光が差し込むだけ、昔よりマシか」
窓には鉄格子が嵌まっている。窓の周囲には、漆喰を剥がした跡があった。扉は重く頑丈で、開閉できる穴が二つ空いている。上部の小さな穴は、生死確認のための覗き窓だ。下部の細長い穴は、食事の配膳に使われる。
現在、扉は開け放たれている。近くで部下たちも待機していた。しかし、その部屋にいるだけで、ジュリアンは恐怖に襲われ、平静ではいられなくなる。
『ここはね、罪を犯したり、正気を失った王族が収容される場所なのよ、ジュリアン』
道を踏み外し、あるいは、気が触れた王族たち。彼らは死ぬまで、この塔に閉じ込められて、嘆きながら死んだという。
幼いジュリアンがどんなに怯えても、繰り返し聞かされた話だ。冤罪をかけられて、表舞台から葬られた王族の話まで混じっていた。悲惨な末路を嬉々として語る老婆の声は、どんなに懇願しても止まなかった。
『お前は、あの女と顔立ちがそっくりね。きっと性根だって腐っているはずだわ。ええ、ええ、きっとそうに違いありませんよ。わたくしの愛で、矯正してあげるしかないの』
ヒステリックな老婆が、記憶の底からジュリアンを責め立てる。過去の亡霊は、実の祖母、王太后の顔をしていた。