10. 黒い羊
動けるようになったジュリアンは、ふらつく足取りでクレオメから後退った。麗しい顔は青ざめて、すっかり血の気が引いている。
自分が何をしたのか、詳細な記憶が残っていた。心の中で、どれだけ嫌だと叫んでも、抗うことが出来なかった。
「くそ……」
異様な人間を見る、恐れと軽蔑が入り交じった視線。四方を囲む白い目が、ジュリアンを冷ややかに注視している。
今や、彼の評価は地に落ちた。敬意を受けて当然だった第二王子は、歴史に残る愚かな道化になったのだ。
気力が失せたジュリアンの、しなやかな体が、ゆっくりと傾いた。
「殿下っ!」
たった一人、飛び出して来たのはリナリアだ。体勢を崩した青年を、小柄な少女だけでは受け止めきれず、共に床へと座り込む。
向けられる白い目など、彼女は意に介さない。リナリアは必死で、ジュリアンの体を支え続けた。
駆けつけたリナリアを、クレオメが険しい顔で睨み付ける。
「ちょっと! 棄てられた女の分際で、図々しいわよ! 私のジュリアンに触らないでちょうだい!」
甲高い金切り声が響き渡る。クレオメの非難をきっかけに、会場はざわめきに包まれた。
第二王子の奇行に、宴の出席者たちは、動揺を隠せない。立場を忘れて侵入者を手助けした者たちも、正気づいて震えていた。
混乱が広がる前に、なんとか場をおさめようと、まず王太子が動きを見せた。警備に向かって、指示を出す。
「何をしている、その怪しい女を捕らえよ! 弟は……ジュリアンは、き、急病で錯乱したのやもしれぬ! 大至急、保護して医師を呼べ!」
騒動に関与していない近衛騎士たちが、命令に従い、クレオメを確保する。拘束された彼女は、運命に操られていなかったのか、納得いかない様子で喚き散らした。
「放しなさいよ、未来の王子妃に無礼じゃない! せっかく、老いぼれが片付いて、素敵な王子様に見初められたのよ! 私は、幸せなお姫様になるんだから! 誰にも邪魔はさせないわ!!」
激しく暴れる彼女を、屈強な騎士たちが数人がかりで引きずっていく。程なくして、クレオメは大広間から連れ出された。
ジュリアンの元にも、騎士たちがやって来た。憔悴した王子に抵抗する気配は無い。しかし、かたわらにいるリナリアが、鋭い目で牽制するため、騎士たちは手を伸ばし兼ねていた。
「ジュリアン殿下は、ご気分が優れぬのです。殿下が落ち着かれるまで、もう少しお待ちなさい」
愛するジュリアンに、不審な女と同じ扱いを受けさせるものかと、屈強な騎士を相手に、一歩も譲らない。
毅然と振る舞う彼女は、最早、都合よく扱われるだけの少女ではなかった。そこにいたのは、王子妃になるべく成長した、誇り高い淑女、エルヴィユ伯爵令嬢リナリアだ。
「……リナリア、もういい。俺から離れろ」
うつむいているジュリアンが、ポツリと呟いた。
王子としての矜持までへし折れて、何の希望も残っていない。全てを失った今、ジュリアンは却って冷静に、自分の状況と向き合っていた。
神の茶番が終った以上、運命の強制力を証明するのは困難だ。まして、この場にいる全員が納得できる形で、立証するのは不可能である。
家族の温情にすがるという、甘い考えも捨てていた。あれだけの醜態だ、誰にも擁護できないと、現実を受け入れたのだ。
こうなってしまっては、幽閉は避けられない。気が触れた王族に深入りすれば、リナリアが不利益を被るばかりだ。
「俺をかばう必要はない。もっといい相手を見つけろ。父上か兄上に相談すれば、お前の力になって下さるだろう」
「そんな……、ご本心ですか?」
「ああ」
我が身の破滅に、誰かを巻き添えにするなど、馬鹿げている。まして、恥を晒した自分の元へ、躊躇なく駆けつけてくれたリナリアには、迷惑をかけたくない。
昨日、助けを求めてしまったことを、ジュリアンは後悔していた。
「お前が望んだわけでもないのに、婚約者だの、神子だの、損な役割ばかり押し付けられて来たんだ。もう、十分だろう。これからは、お前の好きなように生きて行けばいい」
顔を上げて、リナリアの目を覗き込む。形だけの懺悔ではなく、ジュリアンは気持ちをこめて、彼女へ言った。
「何度も苦しめて、悪かった」
「殿下……」
ジュリアンの体を支える華奢な両腕に、キュッと力がこめられた。リナリアが、泣きそうな顔で微笑んでいる。怒っているようにも、喜んでいるようにも見える、大人びた表情だ。
「ええ。わたくし、好きにするつもりです」
リナリアは、ジュリアンから手を放した。濡れた目元を素早く拭い、決意に満ちた眼差しで、力強く立ち上がる。厳しい顔で沈黙していた国王へ、彼女は臣下の礼をとった。
「恐れながら、陛下。どうしてもお伝えしたき儀がございます」
「かまわぬ。申してみよ」
許可を得たリナリアが姿勢を正す。国王と対峙して、尚、彼女は怯まない。
「近頃、隣国で発生した、魔女騒動をご存知でしょうか。件の魔女は『魅了』という魔法を使用したとうかがっております」
「……!」
リナリアの意図を察した王が、目を見張る。王妃と王太子夫妻もまた、息を飲んだ。
王族として平静を装いながらも、ジュリアンを守る方法はないかと、心乱していた家族にとって、リナリアの言葉は光明だった。
「人間の意志を奪い、思いのままに操る禁忌の魔法です。被害者たちには、抗う術などありませんでした。『魅了』とは、それほど恐ろしい魔法なのです」
「そうだ。その通りだ」
「聡明なジュリアン殿下が、王命に背かれるはずがございません。また、我ら貴族を始め、近衛騎士の皆様、侍女たち、下働きの召し使いに至るまで、いずれも陛下の忠節な臣下でございます」
「まさしく」
「しかしながら、先程の出来事が発生致しました。本来なら、起こるべくもない、集団による異常行動です。隣国の騒動と同じく、邪悪な魔女によって『魅了』が使用されたのではないでしょうか?」
会場から、おお……と、感嘆の声が上がる。国民から尊敬を受ける近衛騎士団には、高位貴族の子弟が大勢、所属している。また、城へ出仕する侍女も、貴族の血を引く女性たちだ。
騒動に関与し、クレオメを導いてしまった者の家族や親族、寄り親たちが、客の中に含まれている。
「さすが神子殿、ご慧眼をお持ちだ!」
「あの女だ! あの女こそ魔女だ! クレオメという女が現れて、皆がおかしくなったのだ!」
「魔女の仕業です、陛下! クレオメと申す女は、無形の魔女に憑依されたに違いありません!」
「邪悪な魔女に鉄槌を!」
誰もが責任の所在を求めていた。証明できない真実より、都合のいい嘘で構わなかった。
「お、おい……待て……」
ジュリアンが狼狽える。クレオメは魔女ではない。過ぎた夢を見ただけの、ただの人間の女である。運命の力が働かなければ、門兵に追い払われていただろう。
「リナリア、ちがう……クレオメは……」
ジュリアンの声は、喧騒にかき消された。彼の弱々しい訴えに、気付いたのはリナリアだけだ。
肩越しに、チラリと視線をよこしたリナリアは、困ったように目を細めると、唇の前で人差し指を立ててみせた。
「な……」
渦巻き、高まる、昏い熱気。最大多数の最大幸福。宴に迷いこんだ、黒い羊。なんてことだ、何が起きてる。息ができなくなってきた。
フルール国王が、威風堂々と王命を下す。
「王国の災禍は、祓わねばならぬ! ただちにイラの根を用意せよ!!」
王の言葉を合図に、会場へ歓声が轟いた。予想外の成り行きに、気力を使い果たしたジュリアンは、ついに失神した。




