きみの番犬と呼ばれたい
「レジナルド。ボタン!」
「レジナルド!椅子に座って」
「パンはちぎってから口に入れるの」
クラリッサは、大変口うるさい。でも。
「うちのレジナルドがすみません!!」
うちのレジナルド。
これは、何度聞いても悪くない――と思う。
「あ、クラリッサさんだ」
友人のパトリックが、窓の外を見て言った。
それはほんのつぶやきだったけど、レジナルドの耳が聞き逃すことはない。
クラリッサ・コナーという子は、レジナルドの家主だ。
今十九だというから、三つ年上のはずだが、全くそうは見えないし、思えない。基本的に同年代の獣人の女子は、レジナルドと同じくらいの身長があるから、余計そう思えるのかもしれない。
初めてこの家に来たとき、玄関に現れたクラリッサを見て、なーんだ年下かとほっとして、シャツを脱いだら叫ばれた。本当はレジナルドの故郷でも、目上の人の前では上着を着る。だから、このときの彼は実は二重の意味で失礼を働いたことになる。クラリッサには悪いけど、レジナルドはこの些細な誤解は解かないつもりだ。家の中でちょっとの時間もシャツをくつろげられないなんて、地獄だから。
「クラリッサがどうしたって?」
パトリックに近づいて外へ目をやると、確かにあのきれいな栗毛は、彼女だ。ゆるめに編み込んで一本にまとめたそれは、尻尾みたいに左右に揺れている。
「お前、またなんかやったの?」
パトリックに疑いの目を向けられるが、珍しく身に覚えがない。第一、クラリッサには昨日来てもらったばかりだし。いつもはちゃんと自覚があるから、呼び出しが連日になってクラリッサが残業から帰ってこれないなんてことはないようにしている。そうだ、最近は。
そう言って首を傾げたレジナルドに、パトリックは呆れた顔をした。
「お前……愛情確認もいい加減にしないと、本当にそろそろ嫌われるぞ」
「それは困る」
クラリッサに嫌われたら、元も子もない。即答したレジナルドは、パトリックに相談した。
「なぁ。こういうとき、人族ならどうする?」
クラリッサは、レジナルドが何かするたびに、駆けつけてくれる。自分とは似ても似つかない銀色の頭を下げさせながら、一緒に頭を下げてくれる。
それで、言うのだ。「うちのレジナルドがすみません」と。
これは、彼にはとても新鮮な響きだった。
レジナルドは獣人の中でも特に力を尊ぶ狼の群れの一つで生まれた。次期首長の父も母も立派な体躯の狼獣人で、兄弟も、一族の中でも武に優れた優秀な若手だ。それなのに彼だけはなぜか、いつまで経ってもひ弱で小さく、貧弱だった。
走れば一番後ろを追いかけるしかなく、狩りも素手では難しい。
十五の終わりで課される狩の儀式、レジナルドは自分が身体能力だけではどう頑張っても小型の動物しか仕留められないのを分かっていた。仕方ないから事前に獲物の通り道や習性、嫌う臭いや好む味を下調べし、開始直後から罠を張った。そうして捉えた無傷に近い大猪三頭を見て、両親は表情を消し黙り込んだ。そして、翌朝、彼に留学を言い渡した。
一族の中で、レジナルドがどんな情けない醜態をさらしても足を引っ張っても、両親は眉間にしわを寄せるだけだった。うちの息子が……とは決して言わない。レジナルドのために謝ることも、彼をかばうことも、ない。あの儀式は、レジナルドが一人前だと認められるチャンスだった。レジナルドは賭に出た。そして、その結果両親は彼を目に入らないところへやってしまうことに決めた。
だから、クラリッサの言動は衝撃的だった。
なんでただの下宿人のために、大汗かいて駆けつけてくるのだと。なんで、他人の自分のために頭なんて下げるんだと。その上、「うちの」だなんて。親にも見捨てられた異国の異人種を捕まえて、何を言っているんだろうと。
俺の何を知っているんだと反発も覚えたし、赤の他人さえこうしてくれるのにと親のことを思い出して勝手に傷つきもした。
実際、クラリッサはレジナルドのことを知らない。ただ、名前と、叔母さんの知り合いの子で、十六才の狼獣人というだけだ。これくらい、一度もあったことのない担当外の教員さえ知っている。
クラリッサが知らないのは、レジナルドだけじゃなく獣人そのものもだ。これは彼女に限ったことではないけど、彼女は初等学校を終えてすぐにお針子になったというからなおさらなのだろう。ここ最近は、騎士学校に毎年留学生が入っているが、それも寮完備だからあまり外に関わらない。
知らないのは、本当にお互い様だけど。
レジナルドもまさか、人族が家の中でも靴を履いているとは思わなかった。これは今でも理解しがたい。
食事を机で食べるとも思わなかった。運んだ皿を絨毯の上に置いたときのクラリッサのあんぐり開いた口を忘れられない。
同じ言語のはずだったのに、敬語の表現や時間帯の意味合いが違っている。レジナルドの朝は、クラリッサの早朝だ。
最初、レジナルドがおかしなことをするたびに、クラリッサはひどく驚いた顔をして、それから眉を下げて、人族の流儀を教えてきた。ときには頑固なくらいのときもあったけど、その根底には、彼が集団生活を送る中で困らないようにという心配が見えた。
「郷に入っては郷に従え、だよ」
そう言いつつも、家の中では多少ボタンが外れていたり、耳や尻尾が出ていても、許容してくれる。
レジナルドは獣人の国に馴染めずにここまで来た。だから、自分が獣人の国の人間だという意識はあまりなかった。
だけど、こちらに来て、この国の文化に驚くたびに、獣人の国ではこうしていた、と思ってしまう。そして、その度に、はっとする。
おい、お前は獣人の落ちこぼれ、一族に見限られて、もうあいつらの言うとおりになんてなるか、国になんて戻るもんかと思っていたんじゃなかったか、と。それなのに、人族の中に入ったら一丁前に獣人ぶって人族の文化を否定するのか、と。
何だか頭がごちゃごちゃして、いろんなことに苛立った。
自分は落ちこぼれで、一人前の獣人ではないのに、ここでは獣人として見られる。もちろん人族でもない。じゃあ、自分は一体何なんだろうと思った。
レジナルドは、とにかく学校を辞めたかった。士官学校なんて、一族の落ちこぼれの烙印だとしか思えなかったから。烙印を消して次にどうするかは、それから考えよう、そう思っていた。
クラリッサは、それにすぐに気づいた。だから彼は、図星を突かれたのが痛む傷をえぐられたみたいで、腹を立てた。でもそれ以上に、『辞めればいい』と言われたのが、刺さった。レジナルドには、『出て行けば』と聞こえたからだ。魔除けのネックレスのことも重なって、クラリッサまで自分を追い出すのかと、勝手に思傷ついたのだ。辞める気でいるくせに追い出されたくはないなんて、今思えばひどい自己矛盾だ。
「クラリッサ!」
「レジナルド!?え、どうしたの?」
夕方、クラリッサの職場の前で仕事が終わるのを待っていた。
パトリックにもらった助言通りだ。
「お疲れさま」
「わっ、自分で持つよ!」
レジナルドは、さっとクラリッサの荷物を取り上げる。
「いいよ、このくらい軽いし。クラリッサ、昼間出てたみたいだし、忙しかったんでしょ」
そう言うと、クラリッサはまたちょっとびっくりしたみたいに目をぱちくりさせた。そうすると、木の実みたいなおいしそうな茶色の目がまあるくなって、子どもっぽいとレジナルドは思う。
「すごい。なんで知ってるの?」
「秘密~」
秘密もなにも、見ていただけだけど。それでも、すごいなんて言われるとうれしくなってしまう。褒められなれてないから、我ながら、簡単過ぎてまずいなとレジナルドは自嘲した。
「頼んでおいたものが届いたから、取りに行ってたの。――ちょっと貸してね」
レジナルドの気も知らず、クラリッサはさらに彼を喜ばせる。がさがさと彼の持ったカバンを漁って、見せてきたのは、スリッパ。
「これを使えば、レジナルドも少しは楽ちんになるよ、きっと」
家の中専用の緩い靴があるのだと、前にクラリッサが言っていた。良いなと言ったのは覚えている。でもこの町の雑貨屋や靴屋では、男性用の扱いがほとんどなくて、取り寄せるしかなかったのだ。
「休みになってから取りに行くんでよかったのに」
あの店は、閉店が早い。だからわざわざ昼休憩を潰して取りに行ってくれたのだろう。もしかしたら自分の昼食を犠牲にして。
そう思うと、腹の奥がすごく熱くなった。
「……ッ、クラリッサ!何食べたい?!」
「え!?何よ、突然」
自分でも唐突だとは思うけど、猛烈にクラリッサに食べ物を食べさせたい。出来れば自分で獲ってきたいけど、とにかく自分の手で満腹にして、笑わせたい。
「肉?魚?何にする?」
「ぇえー……魚?」
「よし!決まり!!」
クラリッサと入ったことのある屋台で、揚げた魚の餡かけを4人前。思いついて2件隣の甘辛い串焼きと、その隣の果汁の店でも大瓶を。
「ちょっと!こんなにどうするの」
クラリッサに財布を出させないために、串焼きを持たせる。もちろん黙って払わせてくれるクラリッサじゃないから口は出してくるけど、その一生懸命な様子がいつも可愛いと、レジナルドは思う。
「こら!レジナルド!」
クラリッサの高い声が名前を呼ぶから、レジナルドは追加で甘いパイを買ってしまった。
翌朝クラリッサは、前夜の残りの串焼きをほぐしてサンドイッチにしてくれた。
「だってレジナルドが買いすぎるから」
軽く詰るように見上げるクラリッサは、残り物をレジナルドに食べさせることにやっぱり抵抗があるらしかった。でも、一族で同じものを食べるというレジナルドの故郷の風習に合わせてくれたのだ。
珍しく昼食持参のレジナルドに、級友がよってくる。
「お、もしかしてクラリッサさんの手作り?」
「やらないよ」
くれと言われる前に牽制するレジナルドに、トーマスがあきれ顔をした。
「お前、コナー家の番犬を引き継いだのか」
「なんだ、それ」
犬とは、狼を含むイヌ科の獣人によく使われる蔑称だが、コナー家の番犬、しかも引き継ぐというのは初耳だ。
「トーマスはここが地元だっけ」
言いながら、パトリックが側の椅子に座る。トーマスは頷いた。
「そうそう。この辺じゃ有名だぜ、コナー家の番犬って。あの家はさ、早くに両親亡くして祖母さんと子供3人暮らしだったんだけど、この弟二人が祖母さんと姉ちゃんに対して過保護で過保護で。俺は下の弟と同じ年だったんだけど、あいつ絶対に姉ちゃんの作ったおかずはくれないんだ。去年までは姉ちゃんが遅くなると職場に迎えに行ってたし、誰かが姉ちゃんの名前を呼ぶのも嫌がるし。がたいのいい兄貴と揃って、姉ちゃんに手を出そうとした男を訪ねて行ったこともあったな」
「なんか、クラリッサさんも大変だな」
「いや、あの人は多分気付いてない」
「それで、『コナー家の番犬』ね」
なるほど、とレジナルドは聞いて思う。
クラリッサは年頃のわりにどうも隙が多いと思っていたが、そういう環境のせいだったのかというのが一つ。
それから、あの魔除けのネックレスの件も番犬の威嚇行動か、というのが二つめ。
そして、自分がコナー家の番犬と言われたわけが三つめ。
「番犬かぁ」
「あ!ごめん、使うべきじゃない表現だったかも」
「いや、マーカスがそういう気じゃないの分かってるからいいよ。それに、ちょっと気に入ったし」
「え?番犬が?」
「うん」
機嫌良くサンドイッチにかみついたレジナルドに、マーカスは首を傾げた。
レジナルドは構わず食事を楽しむ。サンドイッチには、昨日の甘辛い肉だけじゃなく野菜も挟まっていた。生の野菜があまり好きでなかったレジナルドだが、細かく刻んである上肉と混ぜてあるので、取り除くことは出来ない。それ以前に、わざわざクラリッサが食べさせようとしてくれたものだ、残したりしない……トマト以外は。
それにしても、と思い出す。
昨日のあの、猛烈に『食べさせたい』欲求を。唐突で抑えの効かない衝動を、一体何だったのだろうと何度となく思い返していた。
しかし、今一つの推論に至った。
もしかしたら、これはレジナルドがクラリッサを一族の一人と認識したからかもしれないと。いや、違う。クラリッサが彼の新しい一族なんだと。
クラリッサとレジナルドで、新しい一族。故郷との別離で、レジナルドは一族を無くした。でも、見つけた。これが自分の一族だ。自分は、コナー家の番犬となった。
「うん。ぴったりだ」
「へえ、やっぱりクラリッサさんて料理うまいんだな」
マーカスが一人で何か納得しているが、そちらではない。しかし、否定する必要もないので、レジナルドは微笑んで食べ続けた。
レジナルドの新しい日課が加わった。
クラリッサの迎えだ。
三日も行くと、店の人に顔を覚えられて、七日目くらいでクラリッサも諦めた。
これは以前の番犬――彼女の弟達の存在に皆慣れていたからだろう。
「まあ、レジナルドくん。クラリッサ!お迎えよ!」
店の脇で待っていると、邪魔にならないようにしていても、仕事終わりのお針子が気付いてクラリッサを呼んでくれる。
店の人はおおむねレジナルドに友好的だ。
それはクラリッサの職場での人間関係が良好なせいでもある。加えて自分の見た目にも関係あることを、敏いレジナルドは知っている。
獣人の成人男子として細すぎる体格は、人族の中では細身で好ましいものらしいし、身長の方も低いと言われたことはない。それよりも銀の髪や左右対称の顔立ちが重視されることは、女生徒や学校の側で待ち伏せしている少女たちの言葉から知っている。不思議ではあるが、使えるものは使うのがレジナルドの信条だから、いやな気はしない。
今日も他のお針子に急かされながら、クラリッサが小走りで出てくる。
「お帰りクラリッサ」
「もう!……ただいま。クラリッサ『さん』でしょ」
少し不服げにしながらも、クラリッサはレジナルドに取り上げられた荷物を諦める。
多分弟たちにもそうされていたのだろう、と以前見かけた彼女の弟を思い出す。
騎士学校に通っているというその青年は、人族にしてはかなり長身で逞しい、はっきり言うととてもうらやましい体格をしていた。その彼が低い声で『リサ!』と親しげに呼ぶのを聞いて、思わずその場から逃げてしまったのだ。
「レジナルド?どうかしたの」
黙り込んでいたのを心配したらしく、クラリッサが顔をのぞき込んでくる。背中で結んだ髪がさらりと流れ落ちて、揺れている。栗毛の尻尾をつかみかけて、レジナルドははっとした。
「……俺も、リサって呼びたい」
「え」
ごまかそうとして思わず口をついて出た言葉に、クラリッサが固まった。それからめちゃくちゃに両手を振る。
「いやいやいや!むしろ『クラリッサさん』だから。私、年上!あなた、年下!いい?」
焦りすぎて片言になっている。
レジナルドは必死に否定されたが、可愛いとしか思わなかった。
「俺はクラリッサが俺の一族……家族だって、思ってる。だから、そんな他人みたいな呼び方は、いやだ」
「だめだめだめ」
「なんで?クラリッサにとって俺は、他人?」
「違う、けど、年上」
「俺は故郷でなら去年成人の年だよ。クラリッサと同じだ」
譲る気のないレジナルドに、クラリッサが困った顔で口ごもる。そこへ。
「良いじゃないかクラリッサ。レジナルドはこんなにいい子なんだし」
「えぇ……?!」
「そうだよ。よその国から来て、あんたを家族と頼っているんだ。好きなように呼ばせてやりなよ」
「う……」
計算していた訳ではないが、道端で言い合っている二人に、顔見知りの商店主たちが加勢してきた。こうなると俄然レジナルドに優勢だ。レジナルドは知らないことだが、皆適齢期なのに弟達の影響で出会いのないクラリッサを気にしているのだ。そして、士官学校の生徒で顔もよいレジナルドを、皆クラリッサの家族として認めている。
「リサ」
呼んでみると、クラリッサは肩を震わせて口をパクパクさせた。色白の顔は、赤くなるとすぐに分かる。
それが可愛くて、レジナルドはもう一度呼んだ。
「リサ!」
「叔母が来るって」
ある日、電話を切ったクラリッサがそう言った。
「叔母さんって、アリッサ・コナーさん?」
クラリッサの叔母アリッサ・コナーは、親を亡くしたクラリッサたちを長らく支援してきた働く女性だ。若くから国内外を飛び回っており、その仕事内容は姪たちもあやふやにしか知らないようだ。
ただ、レジナルドは獣人の国で彼女が行っていたことなら知っていた。アリッサは、獣人の優れた戦闘技術や文化を認め、それを取材する許可を求めてきた。獣人は一族の結束が強い分、排他的な面もあるのだが、彼女は粘り強い交渉の末レジナルドたちの集落に一時期住み込んだ。彼女の取材や交易がきっかけとなって、獣人を蛮族ではなく隣人と考える人々が急増し、今では留学という形の交流も生まれている。
結婚していないため、姓はコナーのまま、そして若々しさもここ十数年変わらない。
アリッサ・コナーは、昼過ぎに大量の土産と共に現れた。
クラリッサがその土産から食品をより分けたり冷蔵庫にしまったりしている間、アリッサとレジナルドが向かい合うことになった。
「レジナルドくんね。まあ、前に会ったときはフィーリーそっくりだったけど、目もとがウルフガンクに似てきたわね」
がっしりした父親に似ていると言われることはあまりに少なくて、レジナルドは咄嗟に肯定できなかった。
愛想笑いでコーヒーを飲む。
「こっちの暮らしはどう?クラリッサとは、うまくやれてる?」
「はい。友人も出来ましたし、リサも優しいし、快適です。」
「良かったわぁ。下宿を後押しした手前、気になってたのよね」
「お気になさらず。……決めたのは両親です」
若干硬い声だった。
アリッサが、頬杖をついた手の上で小さく首を傾けた。
「……不本意だったのかしら?」
台所から戻ってきたクラリッサが、心配そうに眉を下げている。彼女の椅子を引いて座らせながら、レジナルドは答えた。
「ここでの暮らしには、満足しています」
「つまり、それ以外には不満があるのね。ご両親をうらんでいるの?」
すぱんと直球を投げ込まれて、レジナルドは取り繕う暇を与えられなかった。たじろいで耳や尻尾が飛び出すのだけ、辛うじて抑え込む。
「……いいえ。ただ、もうあの人たちに俺は必要ないでしょうし、俺もあの人たちに期待するのはやめたんです」
「レジナルドくん。フィーリーたちが留学を勧めたのは、あなたが要らないなんて理由じゃないわよ。あなたにのびのび生きて欲しいからなのよ」
レジナルドはコーヒーカップを机に置いた。中身は空だ。いざとなれば席をたつ用意が出来た。
「どうでもいいことです。あの国で生きるには俺は、弱すぎるってことでしょう」
これでこの話は終わりだという意志を込めて言い放ったが、交渉を生業とするアリッサには通用しなかった。
「いいえ、違うわ」
レジナルドは反抗的な目を上げた。
「貴方に、あの国は狭すぎると言っていたわよ」
「……なんの冗談ですか」
相手の気を引くことに成功したアリッサは、ゆっくりとした口調で確認する。
「レジナルドくんは、成人の儀式で大物を持ち帰った。そう聞いたけど」
「ええ」
獲物を見たときの両親の顔を思い出す。驚きに目を見開いて、それから唇を噛みしめた。それを見て、また褒められなかったと落胆した自分の気持ちも蘇った。
「二人はね、貴方の獲物が人並み以上だったことを認めるべきだと主張したらしいわ」
「嘘だ」
「わざわざ蒸し返してまで嘘をつくメリットが、私にある?とにかく、問題は、二人の主張は認められなかったということ。名高いグローグナーの戦士で地位も名声ももつウルフガンクが一晩かけて主張しても、獣人の国の合議は知力による勝利を認めなかった」
「そんなこと、聞いてない」
「言えなかったでしょうね。ずっと不当に扱われてきた息子が必死で頑張って結果を出したのに、それを認めさせることができなかったなんて。それで、ウルフガンクとフィーリーは、自分たちの国の価値観の狭量さに激昂したわけ。それまで何とか国の中で、一族に貢献できる獣人に育てようとしていたみたいだけど、もうそんなことのためにレジナルドを窮屈な国に閉じ込めておくものかって。そう言ってたわ」
アリッサがカップを傾ける。
レジナルドに、考える間が与えられる。
今もたらされたくらいの情報量は、彼には簡単に処理できるはずだ。けれど、既存の認識との齟齬が多すぎてまるで理解が追いつかない。
ようやく口をついて出たのは、
「そんなの……まるで……俺のためみたいじゃないか」
情けなく震えた声だ。
アリッサもクラリッサも、黙っていた。クラリッサの目が、隣からそっと自分に向けられているのを、レジナルドは感じた。きっとまた、ハの字の眉の下で、茶色い瞳を陰らせているのだ。
情けない姿を見せている。不安な顔をさせている。そう思うと、レジナルドはそこに座っていることに耐えられなくなった。
ガタンと椅子を引いて立ち上がる。それから、無作法をごまかすように頭を下げて言った。
「……ちょっと、一人にしてください」
レジナルドが自室に引き上げると、アリッサはクラリッサを散歩に誘った。
「私たちが家にいたら、あの子の耳じゃ一人になった気がしないでしょうからね」
すたすたと歩きながら、叔母が言う。散歩の速さではないが、慣れているクラリッサは小走りぎりぎりでついていく。
「あんまり驚いてないみたいね?」
広場のベンチに座ると、アリッサが言った。
クラリッサは頷く。
「この前、留学した経緯は聞いてたから」
「あら、話したの。と言うことは、レジナルドはよっぽどあなたを慕っているのね」
「違う違う、私がかんしゃくをおこして、言わせただけよ」
思わずといった様子で否定するクラリッサに、アリッサはふふっと笑うだけだった。
途中で買った飲み物を、口に運ぶ。この前レジナルドが大瓶で買ったジュースだ。実はクラリッサの好物なのだ。
「家族に複雑な気持ちがあることは聞いていたけど……そういうことだったのね」
「レジナルドの両親とはね、十年来の友達なのよ。だから、誓って言えるけど、二人がレジナルドを愛しているのは確かよ。あの末っ子はフィーリーが死ぬ思いで産んだ子なの」
「兄弟がいるの?」
「ええ。レジナルドにとってはコンプレックスを感じるような、体格のいい兄が三人。でも、家族は比べてなんかいない。比べているのは、本人とよその人間だけなんだから。レジナルドが少しでも過ごしやすくするために、両親は武功を上げて地位を手に入れて、兄も弟の分まで獲物を獲ってくるし」
クラリッサは、はあー、と大きく息を吐いた。
「良かった……」
脱力して呟いた姪に、アリッサは目で続きを促した。
「レジナルドがちゃんと愛されていて、良かったと思って」
心からの嬉しさが、クラリッサの顔にあふれ出る。頬は薔薇色に輝き、瞳は感激に潤んでいる。それは、ただの下宿人に向けるにしては過ぎた感情に見えるほど。アリッサはそれをまじまじと見つめて、
「……へぇぇ……ほぉぉ……」
と相好を崩した。
「なあに?」
「ううん。そうそう、クラリッサ。恋愛は自由だけど、婚前交渉は駄目だからね」
「突然何の話?!」
驚いたクラリッサがジュースを零して、その話は終わりになった。
レジナルドは、ベッドにうつ伏せて二つの足音が遠ざかっていくのを聞いていた。すでにシャツは部屋の入り口に脱ぎ捨ててある。
一人きりになると、止まっていた脳が少しずつ働き出す。
信じられない。
そう思う感情とは別に、理性が再考を促す。
すると、自分が回りに馬鹿にされたときの両親の厳しい顔が、周囲に対するものだった可能性に気付かされる。ついでに、傍証も見つかる。両親はレジナルドの弱さを責めたことは一度も無い。厳しくはあったし、褒められたこともなかったが。
あの儀式の翌日、両親はとても疲れた顔をしていた。レジナルドの弱さに見切りをつけてどう追い出すか相談していたためだと思っていたが、一晩中合議に参加していたというなら、そうなのかもしれない。
ぐぐっと体を丸めると、清潔なシーツが体の下でしわを作る。レジナルドの鼻が、石けんの匂いをとらえる。クラリッサからするのと同じ匂いだから、安心する。もっともクラリッサのは石けんに料理と、それから花のような甘い香りがまざったものだけれど。
清潔で家庭的な環境と、知力の試される学校。これらをあえて選択したのだと考えると、騎士学校ではないことも、故郷を出たことも、見放したと言うには不十分な気がする。
実家を出るときに渡された金は、餞別かと思って腸がちぎれる気がした。けれど、その一月後辺りに送金があり、今度は生活費だったのだなと思った。クラリッサに渡そうとしたが、生活費ならもらっていると言われて、やり場に困って習ったばかりの投資に使った。文字通り投げ捨てたつもりだったが、すぐにかなりのもうけが出た。それはもう、現在ではその儲け分だけで投資が成り立つほどだ。
それで、二度目の送金があったとき、それまでもらった額をまとめて送り返した。けれど、一月後にはまた送られてきた。面倒くさくて考えるのを放棄していたが、これはもう、多すぎる小遣いだったのだろう。それなら手紙の一言でもあれば分かったのにと呟きかけて、思い出す。別れ際、手紙と言いかけた母親の言葉を遮ったのは、自分だったと。
家族に背中を向けたのは、すねて僻んで見方を歪めていた自分だったのだ。
「ばっかだなぁ……」
盛大なため息と共に吐き出して、ごろりと転がり、大の字になる。
自分には、まだ父親と母親という群れが残っていたのか。
レジナルドの心にその解釈がじんわりと浸透していく。クラリッサの作ったスープを飲んだときのように、温かいものが腹を満たしていく。不意にレジナルドは、ここ最近感じたことのないほどの眠気に襲われて目を閉じた。そしてそのまま、子犬のように深く眠ってしまった。
そうして季節は流れる。
都には、早くも夏が訪れようとしていた。
「レジナルド、休み中はどうすんの?」
放課後友人とよく寄る飯屋もできた。この食堂にも先日から、夏季限定の冷や汁麺とやらのメニューが貼り出された。
その冷や汁に店に置かれている辛い味噌を大量投入するのが早くもレジナルドのお気に入りになっている。
マーカスに見るだけで辛いと呆れられながら汁を一口啜って、レジナルドは言った。
「二、三日は実家に戻るかなぁ。リサに故郷の服も見せたいし」
「あれ?お前家族とケンカしてるのかと思ってた」
さらりと言ったパトリックを、レジナルドはまじまじと見た。見直したとも言う。
「お前……見かけによらず鋭いな」
「見かけによらずってお前なぁ。……まあ、良かったじゃん」
パトリックは、苦笑を途中で和らげた。この人族の友人は敏いので、もしかするとレジナルドの体格や来たばかりの頃のすさみ具合から、その原因すら察しているのかもしれない。けれどもそれを追及しない優しさもまたある。人族もいろいろだと、つくづく思う。
レジナルドはちょっと微笑んで、ありがと、と軽く礼を言った。それから全員の料理が揃ったので、しばらく無言で食べ続ける。
麺を完食し、真っ赤な汁を惜しんで掬う辺りで、ようやくまたレジナルドが口を開いた。
「でも、不思議なんだよな。それでリサへの気持ちが変わるのかと思ったら、それがそうでもなくてさ」
「んー?話が読めん」
マーカスだけでなく、パトリックもさすがに首を傾げている。
「だからさぁ、肉親と離別状態で、唯一の一族だからリサがこんなに大事なのかと思ってたんだよ。でも、」
「なるほど!変わらず大事で大事で仕方ないと」
急に二人揃って理解を示され、それはそれでレジナルドは不思議に思う。しかも、二人は何故かやたらとニヤニヤしているのだ。
「うん、それ」
「ほうほう。具体的には?」
「お腹いっぱい食べさせたいし、危ない目に合わせたくないし、出来ればずっと側に居たい。特に男と話すのを見ると心配でイライラする」
「おおー!!」
友人二人の歓声に、レジナルドはとうとう身を引いた。
「何なの?二人とも」
「いやぁ、だってなぁ」
マーカスはニヤニヤするばかりで当てにならないと、レジナルドはパトリックへ視線を移す。
すると、彼は両手を組んだ上に顎を載せて、レジナルドを見返した。
「レジナルド。人生の先輩として教えてやろう。それはな、恋だよ」
「は」
「お前、クラリッサさんに恋してるんだよ」
いいや、そういうことじゃない。リサは大事だけど。そう手を振りながら否定するレジナルドだったが、その頭上には耳が飛び出していた。
「認めちまえ。そんなに動揺してるのが何よりの証拠だろう」
それにさ、とパトリックが言う。
「お前、最近呼び出し受けてないよな。ちょっと前はクラリッサさんが来るの楽しみにしてたのに」
「それが、どうしたんだよ」
「いや、家族には迷惑かけられても、やっぱり好きな子にはかっこ悪いところ見せたくないんじゃないのか?」
答えは出たとばかりに口を閉じるパトリック。マーカスと二人、頬杖をついてレジナルドを見守る。
言い返そうと開いた口に、言葉が出てこずまた閉ざす。それを二度三度繰り返して、レジナルドは、とうとう頭を抱えて机に突っ伏した。
クラリッサが必死な顔でレジナルドのところまで走ってくるのは、今でもすごく、うれしい。士官学校に謝罪に来るとき、クラリッサはいつも少し緊張したようすで、無意識にかレジナルドとの距離が近いのも良い。何より「うちのレジナルド」と言われると頬が緩む。けれども、悲しい顔をさせたいわけじゃないし、急いで来る間に危ない目にでも遭ったらと思うと、わざとそんなことはできなくなった。
つらつら考えながら、クラリッサの店の前に着く。店内には明かりが灯っている。閉店の札を出しに来た店員が、レジナルドに気づいた。
「あらレジナルドくん。ほら、クラリッサ!あなたの彼氏のお迎えよ!」
レジナルドは彼氏ではない。けれど、クラリッサの、とつくなら悪くないなと思って、いつも訂正しないでいる。そしてこの立場を人に譲る気もないのだ、全く。
だから、やっぱり好きなのかもしれない。
奥から急いで出てくるクラリッサの頬は、紅潮している。これはただの照れだろうと冷静に考えて、少し残念に思う。この柔らかな頬が、自分への好意に色づいたなら、と。
ああ、好きなんだなあと、そこでレジナルドは納得する。
「おかえり、リサ」
「レジナルドったら!もう」
クラリッサはいつも通りぷりぷりと頬を膨らませた。ますます年上には見えない、と笑ってしまう。
それからクラリッサはこれもいつも通り、
「レジナルド……ただいま。あと、ありがとう」
レジナルドを真っ直ぐに見上げて、レジナルドのところに帰ってきてくれる。不本意そうにお礼を言ってくれる。
これは、何回聞いても、悪くない。
「どういたしまして、俺のリサ」
レジナルドは、そう言ってまたクラリッサを怒らせた。