行く当てのない少年は温かいスープをすする
「いただきます……」
「ささ、遠慮しないでたんと食べておくれ」
少し時間が経ったあと、少年は助けたお礼として少女の家に招かれている。
ようやく町に辿り着けたが行く当てもなく、誰に頼れば良いのかわからなかった。
彼にとって、その誘いはまさしく僥倖だった。
少女の家は街の中の一角にある宿屋のひとつ。
ホテルよりも民宿と呼ぶほうが妥当な小さな2階建て。
泊まるための部屋の数が一桁の小さな宿屋。
少女や彼女の両親と交流を深めるうちに、いくつかわかったことがあった。
少女は彼女の両親からアズという名前で呼ばれていること。
ここは陸路の中継地点として利用される、さほど広くない宿場街だということ。
少年が森で聞いた水の音は、この街の水源になる川だということ。
アズと呼ばれた少女の姿は見当たらない。
疲れが限界に達したのか、先に眠りについている。
木製の椅子に座る少年の前にはテーブルクロスが敷かれたテーブル。
淡いピンクと白のチェック模様が可愛らしかった。
テーブル越しには彼女の両親が椅子に座っている。
彼女の母親は恰幅が良かった。
彼女の父親は白髭を蓄え痩せ気味だった。
少年は木製のスプーンを使い、木製の器に入ったスープをゆっくりすする。
身体の中に温かさが広がっていくのを感じる。
「どうかしら……美味しい?」
「温かくて美味しいです」
「それは良かった。母さんも大喜びだ」
感想を聞き、2人は満足そうに笑みを浮かべた。
「アズを助けてくれてありがとう。今日はゆっくり泊まっていっておくれ」
「記憶喪失なんだってね。若いのに大変だね……」
「えぇ、まぁ……」
元の世界から来た少年は、この世界の常識もルールも何もわからない。
例えるならば、それは白紙のノートに近い。
適当に嘘八百を並べれば、いずれボロが出てしまうだろう。
そこで彼は記憶喪失だと偽り、身分を明かさないで済ませている。
本当は記憶喪失でないことに対し、彼は若干の後ろめたさを覚えた。
それに美味しいという感想もやや微妙だ。
美味しいけれど味に違和感がある。
今まで体験したことが無い不思議な味……。
緊張していることもあり、彼の返答はどこか元気がなく、影を帯びていた。
少年の服装はアズや彼女の両親、それにフードの3人組と比較すると浮いている。
ましてや記憶喪失だ。
彼女の両親から見れば少年は得体の知れない存在だろう。
それでも彼女の両親が温かく迎えてくれたのは、見ず知らずの娘を救ってくれた彼の無償の優しさからだろう。
「ごちそうさまでした」
「お粗末様でした」
「夜も遅い。疲れているだろう……案内してあげなさい」
「あら……もうそんな時間なの。それじゃあ部屋まで案内するからついて来てね」
アズの父親に促され、少年は彼女の母親に部屋まで案内してもらう。
「ありがとうございます。それじゃあえっと……おやすみなさい」
「おやすみなさい。良い夢を見てね」
軽く別れの挨拶を済ませたあと、少年は今晩泊まる部屋の中に入る。
電気らしい電気は無く、暗くひっそりと静まり返っている。
もしかしたらランタンのような灯りがあるのかもしれない。
しかしようやく周りに気を遣う必要が無くなった彼は緊張の糸が切れる。
灯りの有無に対し、そこまで考えが回らなかった。
部屋の隅には彼のナップサックがちょこんと置かれていた。
最初に案内された時と部屋の様子が変わらないことに、少年はほっと一安心する。
靴を脱ぎ、用意されたベッドの中へといそいそと入っていく。
緊張から解放され、安心しきった彼の意識は直ぐにブラックアウトしていった。
「うっ……」
窓から朝日が差し込み、少年の顔を照らし出す。
太陽の光に起こされた彼は目をこすりつつ、ぼんやりと意識が覚醒していく。
「そっか……」
家じゃないんだな……彼は醒めることの無い現実を直視して心が沈む。
異世界に来てまだ半日しか経っていない。
だが半日にして、早くもホームシックになろうとしている。
用意された部屋を改めて見渡す。
壁を見ると、湖と森が描かれた風景画が飾られている。
ベッドと反対側の壁には木製の小さな椅子と机が配置されている。
机の上を見ると本が一冊置かれていた。
彼は本の元に移動し、おもむろにページをめくって中身を確認する。
一通り目を通すも、書かれている文字が未知のもので読めない。
唯一わかったことは、アラビア数字が文字として使われていることだ。
もっとも、同じ意味合いでアラビア数字が使われているか過信できない。
本を閉じ、元の場所に戻してベッドにうつ伏せでダイブする。
文字が読めないのに言葉は何故通じるのか。
この世界はいったいどんな世界なのか。
疑問は次から次へ湯水のように沸いてくる。でも、答えはわからない。
「待てよ……?」
不意に頭の中を過去のとある出来事が回想される。
少年がプレイしているTCGは海外でも販売されていた。
つまり海外で販売されているものが国内でも販売されたことがある。
そんな中、間違えて英語版のカードパックを買ってしまった。
英語で書かれたテキストを必死になってに翻訳し、解読してゲームで使った。
この異世界で会話は通じるが、この異世界の文字は読めない。
会話ができるということは、この異世界の文字を学ぶことができる。
この世界の文字は頑張れば読める――新たな可能性が生まれた瞬間だった。
胸の内に希望が生まれたその時、コンコンとドアを叩く音が聞こえた。