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クリスマスタブロー(其9)   作者: 城☆陽人
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夏から秋 図書館 動物園 「オネアミスの翼」 「ふくやまジックブック」

夏休み、と言っても靖男にしてみれば日本では珍しい2期制の学校に通っている為、中間試験休み、とでも言えばいい期間なのだが、一応文部省の指導があるのか普通の学校並の夏休みではある、に入った京都の蒸し暑い夏の最中、流石に高2の夏、そろそろ大学受験を見据えた勉強を開始しなければならない筈なのに、どうもそんな素振りを見せていない靖男の様子を感じ、葵は府立図書館へ靖男を誘った。

葵はソバージュに飽きたのか、手入れが面倒臭くなったのか(葵の性格として、後者は恐らくないと思ったが)、ストレートヘアに戻していた。再び髪を伸ばし始め、肩よりも下まで、さらりとした髪がかかっていた。

2人で並んで座り、靖男は数学の参考書を開き、葵はゼミの課題のオー・ヘンリーの短編を、辞書をひきながら訳していた。黙々と辞書をひきながら鉛筆を走らせている葵に比べ、明らかに靖男は面倒臭そうだった。

「ねぇ、葵さん。辞書と睨めっこしながら読んでいるだけで、楽しいっすか?」

自分の勉強に身が入らないらしい靖男は、図書館だけに小声で葵に話しかけた。

「楽しいか?って・・・それが勉強だろう?」

「いえ、そういう意味でなくて、オー・ヘンリーなら翻訳本がいっぱい出版されていますから、課題となっている小説も日本語訳が文庫本にでもなっているでしょう」

「まぁ、今訳している作品も読んだ記憶がある小編だ」

「なら、それを使って読めばいいじゃないですか」

「そんなの邪道ではないか!カンニングみたいなものだ!」葵は驚いたように、だが図書館なので小声で、声を上げた。

「そうは思いませんね。自分が訳した文章と、プロの翻訳家の訳を見比べてみる。訳に詰まった時、翻訳文を見てみてどんな表現を使っているのか確認してみる。それが英語のニュアンスを感じ取る一番の取っ掛かりだと思うんです」靖男は下手くそな鉛筆回しをしながら話をしている。

「それに、英文と翻訳では随分と翻訳家が意訳している箇所があったりして、そういうのを見比べるのも楽しいもんです。そこいら辺を、翻訳文そのままを持って来てゼミで発表したら、そりゃカンニングになるでしょうが、その翻訳文を参考にして自分なりの訳を作ったら、それは立派に自分のやった勉強になると思います」

「城くんは、英文の小説を読んだ事があるのか?」

「たまたま立ち寄った古本屋に、ウィリアム・フォークナーの『響きと怒り』の英語版があったので、あ、ウィリアム・フォークナー大好きなんです。あの、アメリカ中西部の19世紀末から20世紀初めの澱んだ世界を、架空の街、ヨクナパトーファにほぼ限定して、黒人や没落西部貴族なんかに冷徹な視線を注いで描き続けた手法、って言うか、そのどろどろとした濃密さ、ですね、好きなのは」

「ふぅ~ん、ウィリアム・フォークナー・・・知らないな」

「まぁ一度読んでみて下さい、日本語訳ででも。でも、まぁなんですかね・・・和訳された文章って、かなりの南部訛りで表現されているんですが、原文では普通の英文なんですね。自分としたら“S”の発音が“Z”になってたり、そんな表記があるんじゃないかと思っていましたが、結構普通の英文でした。あれは、翻訳者の力量っていった所なんでしょうか。日本なら、中上健次なんかが南紀訛り丸出しの文章書いたりしているけど、そういうのって英語圏ではないのかな?なんて思ったりしましたけど、1作品しか読んでいませんし。ボブ・デュランの歌なんか、あれは詩だからかも知れませんが、やたら分かりにくい単語を使ったり、文法的に分からなかったりする所が見られますし、J・ジョイスなんかも『フィネガンズ・ウェイク』でとんでもない造語を連発させて、翻訳家が訳すのに悪戦苦闘しているって話も聞きますけど、そういう柔軟性ってのは、どの国の言語でもあるんでしょうね」

「・・・う、うむ」オー・ヘンリーの英文でさえ、高校まで習っていた英語と異なると感じていた葵には思いがけない話が続いていた。

「英語の表現として“ain’t”ってありますよね。あれって、“am not”や“are not”、“don’t”“didn’t”“have not”に使える万能否定語なのに、どうして授業では教えないんでしょうね。スラングっぽい言葉だからですかね『じゃねぇな!』みたいな。あ、あと、“yessum”って単語が『響きと怒り』の中で連発されてるんです。翻訳では『わかりやした』みたいに訳されているんで“yes”の意味である事は分かったんですが、“sum”が分からない。“yes sir”かな、と思って調べてみると、“yes ma’am”だったんですよ。そうやって読み返してみると、確かに黒人の使用人が女主人に対して使っているな、なんて分かった時には面白かったですね」

「そうか・・・城くんは英語の成績はいいんだろうな」“ain’t”なんて単語も知らなかった葵は、なんだか分からない話に付いて行けず、平凡な相槌を打つだけだった。

「いえ、全然です。やれ文法だ、過去分詞になったらどう変化するか?なんてど~でもいい事を、わざと普通でない変換をする単語を無理矢理覚えさせたり、あんなの英文流し読みしてたら大体ニュアンスで分かるじゃないっすか。それをいちいち減点するために出題したり。後、訳文の文章もなんであんなに糞つまんない、訳せてもなんの興味も持たない、それでいてややこしい文章を出題するんですかね。わざと読みたくも無い文章で集中させないようにしているとしか思えない。新聞記事みたいな面白みもない文章。日本の新聞記事でさえ、読み物として読んでいるわけじゃなく情報を入手するために読むってのに、それを英語で読まされても・・・なんだかなぁ、って感じだし、『和訳せよ』って書かれている部分まで読むまでに、なんだかげんなりしちゃいますし」と言いながら、靖男は何度も回し損ねた鉛筆を、ついに机の上から床に落とし、机の下を探し始めた。

机の下に這いつくばっている靖男を見ながら、葵の心の中では、閉め切っていたと思っていた窓が閉め忘れていて、そこからそっと涼やかな風か吹き込んで来て、今、自分は小さな部屋の中にいて、外に広い世界が広がっているのだと、改めて気付かされた思いだった。

何を思う訳ではなく、ただエスカレーター式に入学した短大、そこで何とはなしに、他に興味がある学部学科がある訳で無かったので入った英文学科。そこで行われる授業は、高校時代の「教えられる、覚えさせられる」授業とは異なり新鮮だったが、本当は覚えたり、求められている模範解答を答えるための勉強ではなく、城くんが言っていた、そんな事を知るための授業だったんだ、そう思い至った。

「城くん!」ようやく机の下から顔を出した靖男に、葵は声をかけた。

「気分転換に、動物園に行こう」



市立動物園は、市立美術館の裏側、歩いても10分もかからない距離だ。

入園料300円と、園内で買うと高いので、近くの自動販売機で缶コーヒーを買って入園すると、500円でお釣りがくる。

「動物園なんて、小学校の写生の授業以来です」懐かしそうに、そして物珍しそうに靖男が辺りを見回しながら言った。

「そうか?私は好きだから結構来るぞ。で、その時、何を描いたんだ?」

「確か・・・ワシでしたか・・・」

「おぉ、私もワシは好きだぞ。じゃあ、行こうか!」そう言うと、葵はずんずんと、猿山や、虎やライオンなどの人気の檻に目もくれず、鳥類が飼ってある檻の方へと向かって進み、それに靖男も付いて行った。

「ここだ」そう言うと葵は、人の殆どいない鳥類の檻の中の白頭鷲の前に立つと、じっと白頭鷲を、睨むかのように見つめ始めた。靖男は隣でぼんやりと見ていたが、葵はじっと、じっと・・・ずっと白頭鷲を見つめ続けている。暫くすると、靖男は近くのベンチに向かい、座って缶コーヒーを飲み始めた。

「・・・面白いですか?」

「話しかけるんじゃない!」

「はい・・・」

暫く葵のそんな様子を眺めながら缶コーヒーをちびちび飲んでいると、ようやく葵がベンチへと歩いてきた。

「今日は、負け、という事にしておこう」そう言うと、靖男の隣に座り、缶コーヒーを開け、一口飲んだ。

「負け?」

「そう、負けだ。面白い事にな、ワシとはいつも勝負になる」

「勝負・・・ですか?」

「うむ、睨めっこだな。小学生の頃からやっている。ワシというのはだな、人の視線もしっかり分かっている。そして気高く、見られていると分かると、じっと見詰めてくる。いや、睨んでくる。で、お互い、視線をじっと合わせ、どちらが先に逸らせるかが勝負だ」

「はぁ」

「面白いものでな、顔を動かさず視線を少しずらしただけでもワシは気付くのだ。そして、表情がふっと緩んだり、羽根を広げてリラックスしたりするのだ。目を少しワシの眼から嘴に移しただけで、だぞ。悔しいじゃないか」

「・・・で・・・勝つんですか?」

「・・・10回に一度くらいは。で、でもだ。その時のワシの恥ずかしそうな表情といったら!」

鳥の表情などてんで分からない靖男にとっては、全く理解不能な話だった。大体、眼球が動く訳でも無し、嘴だから口元が緩む訳で無し、どこに表情が出るというのだろう。

「それが、フクロウだったら、また別なのだ。彼らはじっと見つめられていると、『どうしたの?』って首を傾げたり、『あっ、後ろに何かあるのかな?』って感じで、ふいに後ろを向いたりするのだ。それがとても可愛らしいのだ」

「他の動物はどうなんですか?」

「虎やライオンは手持ち無沙汰そうにダラダラ歩き回っているだけだし、カバは自堕落に池に浸かってじっとしている。猿は群れてうるさい」

「つまり、鳥を見に、動物園に来ている、と」

「そうだ。よし、もう一度、白頭鷲に勝負を挑んで来る!」そう言うと葵は、残りの缶コーヒーを一気に飲み干し、ゴミ箱に入れると、再び白頭鷲の檻の前に向かって行った。


そうして10分も経っただろうか、葵が靖男のところに戻って来た。引き分けだと言っていた。城くんをあんまり待たせたら悪いと思い、まだ頑張れる所だったが戻って来た、という事だった。

折角なので、もう少し園内を散歩していた。ゴリラの檻の前で、小学生になりたての男の子だろうか、父親のカメラにポーズをしていた。それを見ていた葵は、

「宜しければ、お二人の写真をお取り致しましょうか」と声をかけた。

「いいんですか?お願いします」

「はい。・・・いいですか?はい、チーズ」シャッター音が小さく響いた。

「ありがとうございます」男の子の父親が、葵に感謝の言葉をかけた。

「いえ、お役に立てたのなら、私も嬉しいです」葵はにっこりと答えた。

「おねえちゃん、ありがとー!」男の子が父親に手を引かれ、歩いて行った。


「・・・葵さんって・・・普通の言葉も話せるんですね」親子が道を曲がって見えなくなって、靖男が呟いた。

「あたりまえではないか!普段からこんな言葉遣いでは、変人だと思われてしまう」

「って事は、自覚はあるんですね?変だ、って」

「そ、そりゃ・・・まぁ・・・」

「どうして自分に対しては、そうなんですかねぇ?」

「いや、それは・・・最初がああだって・・・直すのもへんかな?なんて思ったり・・・」

「いいんです」靖男は言った。

「自分が、口調が変わる位、特別な存在、って事ですよね」

「と、特別?・・・い、いや、そういう訳でも・・・いや・・・そ、そうなの・・・かも・・・」

葵の頬が、少し照れたように、ほんのりと紅くなっている。

「そういう事にしておいて下さい」

「う、うむ。さて、気分転換は終わりだ。図書館での勉強に戻ろう!」

葵が歩き始めた。照れ隠しに、少し早歩きになっているように、靖男には感じられた。



9月の初め、葵は1人、寺町通りを歩いていた。夏休みも終わり、若者が遊んでいた通りもまばらになり、おばさんや、観光旅行に来ているのだろうか、老齢の夫婦なんかが目立つ通りを、特に何をするでもなく、葵は歩いていた。

すると、小さな映画館に『オネアミスの翼』の看板があるのが、ふと目に入った。

『オネアミスの翼』は『AUT』でも期待作として取り上げられていた作品だ。放映時間を見てみる。丁度、次回の放映時間にぴったり。

葵はチケットを買おうと窓口に行った。学生証を提示しようとしたが、

「お嬢ちゃん、学校サボるのはよくないよ」と言いながら、窓口のおじさんがチケットとともにお釣りをくれた。100円お釣りが多かった。「お釣りが・・・」と言おうとしたが、ふとチケットを見ると、中高生の券だった。少々癪に障ったが、まぁこれも自分の見た目で得する事なんだろう、と思い、そのまま映画館に入って行った。

封切りしてから半年以上経っているからだろうか、観客はまばらだった。よくもまぁ、まだ放映しているものだ。逆に、妙に耳障りなひそひそ声や、ポップコーンを食べる音を気にせずにすむ。遠慮せず中央の、スクリーンが真っ正面で見える座席に腰を下ろした。

ブザーが鳴り、暫く次回作の宣伝映画が放映された後、『オネアミスの翼』が始まった。


ガイナックスだったか、あまり耳にしない制作会社が作っているにもかかわらず、絵は綺麗だった。打ち上げられた事のないロケットの為の宇宙軍、そこに配属された主人公のシロツグと、女の子リイクニとの人間関係の中、ストーリーは淡々と進んでいく。

様々な問題を乗り越え、王国軍と共和国軍の戦闘の最中、ロケットの発射が行われ、そして、パイロットであるシロツグが宇宙から見える地球に向けて静かなメッセージを送る。


大きなドラマがある訳でもない、静かな映画だった。でも、心の奥底に、じんわりと染み入って来る映画だった。「ガイナックス」、覚えておこう、と葵は思った。

次の回も観ようかと思ったか、終わりが夕方遅くになってしまうので、葵は席を立った。

暗い映画館を出ると、もう陽が傾き始めている時間なのに、陽射しが眩しく感じられた。

四条通りを下って、古本屋が並んでいる通りに入る。

何気なく数点の古書店を物色していると、ふと、ある冊子が目にとまった。

古書店で普通扱うのだろうか、簡素な作りの同人誌で手に取ってみると、『ふくやまジックブック』とあった。

『ふくやまジックブック』?思わず葵は題名を凝視した。

『ふくやまジックブック』は、今、徳間書店で「アメリア&エリス ゼリービーンズ」や「タップくんの探偵室」等、漫画好きの中で話題になっているふくやまけいこが初めて手掛けた同人誌であり、この同人誌に興味を持った編集者が、彼女に漫画を描かせ、世に出るきっかけとなった伝説の1冊だ。『AUT』でも、同人誌の紹介コーナーで大々的に取り上げられていた。

裏返して値段を見てみた。200円だった。こんな安さでいいのか?と葵は思った。躊躇せず、葵は購入した。

市バスの座席に座って、早速紙袋から取り出して広げてみる。古今のアニメや漫画に対するふくやまけいこさんの愛が溢れ出て来た。今、雑誌で掲載されている絵よりも少し拙い感じはしたが、それ故に、ふくやまけいこさんの伝えたい気持ちが誌面からこちらへ、迸って来る気がした。CDではない、懐かしい、お気に入りのアナログのレコードにゆっくりと針を落とし、少しのノイズの後、心地よく曲が始まっていく、そんな感じだった。

今日はいい日だ、葵は思った。『オネアミスの翼』を観て、『ふくやまジックブック』に出会う。今度、城くんに会う時には、『ふくやまジックブック』を持って、『オネアミスの翼』の話もしなければな、と葵は思っていた。


「へぇ~、『オネアミスの翼』観たんですか」

「ああ、あの、寺町にある小さな映画館があるだろう、あそこでまだ放映していたのだ」

いつもの御所の、いつものベンチに座り、2人は話していた。

「『オネアミスの翼』は、封切り前は結構『AUT』なんかでも特集されていましたが、放映されてからはあんまり話を聞かないですね。どうでした?」

「これが結構面白かった。絵も綺麗だったし、特にラストのシロツグが・・・」

「待って下さいっ!ラストは話さないで下さい!」

「でも、知りたいのだろう?」

「知りたい、ですけど、それはやっぱりじかに映画を観て味わいたいです」

「なら、今度、一緒に観に行こうか?」さり気なく葵は言った。

「いやぁ・・・お金、ないんですよねぇ・・・」

「何を言っている。Men’s BIGIのザックを持っていたり、小説の原稿料が入ってきているんじゃないか?」

「あれは・・・おたくがダサいって世間的に思われている固定概念に対する反抗心ですし、小説買ったり漫画買ったりしていると、高校生の小遣いではあっぷあっぷです」

「まぁ確かに、今はバイトしている分、私はちょっとばかり余裕が出来ているのは確かだ」

「へぇ、葵さん、バイトしていたんですか。初耳です」

「本屋でな。レジなんかはまだ任されていないが、書棚の整理や配送されてきた本の開梱なんかをしている。たまに新刊をちらりと読む事が出来て、一石二鳥だ」

「ふう~ん。あ、あと、映画館ってなんか嫌なんですよ。他人の気配がどうも気になって集中出来ない、と言うか・・・」

「私と、でもか?」

「もっと集中出来ませんよ」靖男は小さく照れ笑いをする。

「美術展も人と一緒に見るじゃないか」

「美術展は何か違うんです。同じ絵を見ていても、どこか違う見方をしている、って感じと言うんですか」

「そんなもんなのか」

「変かもしれませんが、そんなもんなんです。絵は他の人観ていても自分だけで独占している、って感じですが、映画は映画館で見ると、どうも他人と分け合ってる気がして・・・きっとあの作品なら、読売テレビが『アニメ大好き』で放送してくれると思います。それまで、期待しながら待っています」

「そうか、なら私も、敢えてあらすじの話はしない事にしよう」

「ありがとうございます。でも、楽しみなんだよなぁ『オネアミスの翼』。庵野監督って、あのDAICONオープニングフィルムを作った人ですし、そう、知ってました?広告の裏紙かなんかに原画を書いて、セルじゃなくってペラペラのプラステートに描いたとか。後、『ナウシカ』の巨神兵が王蟲を炎で焼き殺すシーンの原画を担当していたとかで、かなり有名な人なんです。後・・・」

靖男の話はとめどなく続いて行く。遮る訳でもなく、心地よく葵は耳を傾けていた。


「そういえば、今日はもう一つ話題があるのだ」と、靖男の話が落ち着いた時、葵は話しながら、カバンから冊子を取り出した。

「何だと思う?」

「え?」靖男が手を伸ばす。

「大切に扱えよ。貴重なモノだ」

靖男は受け取り、表紙を見た。

「えっ!これって、『ふくやまジックブック』じゃないですか!」

「そうなのだ」葵は靖男の反応に、少なからず満足感を覚える。

「どうしたんですか?」

「それは内緒だ」

「あれだけ色んな雑誌で特集されていたから、見てみたかったんですよ。読んでみて、いいですか?」

「ああ、もちろん」

「ありがとうございます」

葵は、靖男が愛おしむようにゆっくりと、1ページごとに丹念に読んでいるのを隣でじっと見ていた。懐かしいレコードを2人で聞いている気持ちになっていた。


「・・・凄いですね」読み始めて随分経って、およそ半分程眼を通してだろうか、靖男は葵にようやく声をかけた。

「そうだろう。私もそう思った」

「雑誌のコラムより充実していて、何より取り上げている作品全てへの愛が感じられます」

「そうそう」嬉しくなって、葵も弾んだ声で答える。

「こんな風に自分の気持ちを同人誌にして、それが世間の目にとまって漫画家になれる、って凄いですよね。葵さんは、大学卒業したら、何をするんですか?」何気なく、靖男が言った。

お気に入りのレコードは、何度も何度も聞いていたからだろうか、傷が入っているのか、急に同じフレーズを繰り返し始めた。

・・・いつからだろう、大人になる夢を考えなくなったのは。

子供の頃は、スチュワーデスや看護婦さん等、おぼろげながら夢見た事があった。中学生になった頃からだっただろうか、そんな漠然とした未来の夢は消え、大学を卒業したら数年間OLをして、結婚し、子供を授かり育てる。そういうものだ、と思うようになっていた。今、城くんに改めて聞かれると、それは夢や希望ではなく、何事も無く敷かれたレールの上を、ただ移動していく事をなんとなく納得しようとしている、そんな風に急に思えて来て、どう答えていいのか分からない自分が、どこか遠くにいるもう1人の自分から見えた。

「そりゃ文章で身を立てられたら最高なんだけど、物凄い、双曲線的なピラミッドの業界ですからね。専業にして生きていける人なんて、ほんの一握り。それは分かっています。でもなぁ、進路指導の時に担任に言われたんですよ、『お前はサラリーマンになんか、絶対になれない』って。確かに自分もサラリーマンになっている未来なんて想像も出来ませんし・・・」

城くんの言葉が耳を通り過ぎて行く。レコードも同じ部分を繰り返し回っている。

葵は『ふくやまジックブック』を手に取り、ページを開いた。ちょうど、『リボンの騎士』が描かれていた。手塚治虫のタッチより、より可愛らしいサファイアがいた。

幼い頃から大好きで、繰り返し繰り返し読んでいた『リボンの騎士』。ああ、やっぱり私は子供の頃から、そして今でも漫画が好きなんだ・・・そう思い返した時、急にレコードの針が盤面の傷を滑り、明るい、アップテンポの曲に移った。何か薄っすらと覆っていた靄から微かではあるが灯りが差し込んで来た気がした。

「どうしたんですか?」そんな雰囲気を察したのか、城くんが聞いてくる。

「あ、いや・・・そうか。そうだな」

「?」

「なんでもない。そう、なんでもないのだ」

ただ、「何か」が見えた気が、葵にはした。

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