9杯目 私の初めての友達
誕生日が終わり、留魂儀まではひたすら練習の毎日。リドリーがくれた練習着に変わってからはより一層練習に気合が入った数週間を乗り越え、ようやく酒豪人生の一歩が決まる留魂儀の日がやってきた。
6月の下旬、運命の日にふさわしい晴れた青空がリリスとなって初めて家の外に出た私を出迎えてくれた。
風が私を歓迎するかのように吹き抜ける。見上げた青空は、生前よりも背が小さいからか、それともビルやモニターがないからか、今まで見たどの空よりも広大で、そして美しく思えた。心なしか、日本で見ていた空よりも、透明感がある気がする。空の青色もくすみが無く、くっきりと目に入ってくる。真っ白な紙に青いペンキをぶちまけたみたいな、そんな真っ青な色だ。私と空の間に無機質なビルや騒がしいモニター、電線なんていう余計なものは挟まっていない。見上げた視界いっぱいにただ空が広がっていた。
流れていく白い雲、その合間を縫うように飛んでいく鳥たち、外に出てわかる街のざわめき、砂の匂い、草木の香り、花の色。汚染されていないありのままの世界がそこにはあった。同じ景色を日本で見てもきっとここまで美しいとは感じなかっただろう。それほど、この世界は澄んでいた。
「せかいって、すごくきれいなのね! ね、おかあさま」
「ええ、これからあなたが生きていく世界。神様がお創りになったみんなの世界よ」
エリスママは私の隣にしゃがんで一緒に空を見上げて言った。反対側にリーグお兄ちゃんがしゃがんで私の手を取る。小指にはお兄ちゃんがくれた指輪を肌身離さずつけている。
「リリスは騎士になったらこの世界を守らないといけないね」
「リリス、ちゃんとまもってみせるわ!」
「じゃあ、まずは今日頑張らないとな」
家の門を開けてリドリーが入ってくる。どうやら留魂儀を行なう会場までの馬車が到着したらしい。私は緊張で震える体に気合いを入れ直すと、エリスママに手を引かれながらリールパパが連れて来てくれた馬車へと向かった。
留魂儀は、ウェセター国の中でひときわ大きく、命と神が宿る意思の大樹と呼ばれるこの国のシンボルともいえる大樹の根元で行なわれる。意思の大樹は、私たちが住んでいるウェズリンから馬車で2時間ほど、そこからはまた森の中を30分ほど歩かなければならないらしい。留魂儀のような特別な儀式のとき以外、一般市民は立ち入りを許されていない神聖な森。なんだか、ちょっとドキドキする。神様が宿る森なんて、なんだかロマンがあるなー。
でも私にとってこれは初異世界!リールパパに促されて馬車に乗ったけどもちろん初馬車!椅子は少し硬めで、ごとごとと石畳を進み始めると揺れてお尻が少し痛い。でも、今の私にはそんなことよりも外の風景だ。窓には当然ガラスがはめられているため顔を出すことはできなかったが、走るスピードが遅め――もちろん比較対象は車や電車。――の馬車からは街の風景がよく見えた。
馬車の座席は向き合う形になっているためまっすぐ座って外を見ようとすれば首が痛くなる。私は隣に向かい合って座る両親の顔色を窺うと、怒られる覚悟で座席に膝立ちして窓に張り付くように外を見つめた。後ろで一瞬、エリスママの「こら、リリス」という声が聞こえたが、それを「いいじゃないか」とリールパパが宥めてくれる。リールパパは私の気持ちを優先してくれたようで、それにエリスママも仕方ない、とばかりにおとなしく従った。ありがとう、リールパパ!
しばらくは物静かな道を進んでいたが、何度目かの筋を曲がった先に広がっていたのは女の子の誰もが一度は想像する、ヨーロッパの街並みだった。思わず「わあ!」と声が漏れる。いわゆる商店街のような通りなのだろうか。広い道の左右に並ぶ建物では様々な食べ物が売られており、朝の買い物客がにぎやかに店主と会話をしている。通りを進んだ先にある大きな噴水からは太陽の光を反射した水が星のように煌いていた。ここでもご近所様の井戸端会議はきっちり開かれているらしく、噴水のそばではバスケット片手に楽しげに話をしている女性が何人か集まっていた。
みんなが馬車に乗る私を見ては手を振ってくる。何故私に手を振るのかはよくわからないが一応挨拶は返すもの。わたしはおしとやかに小さく手を振り返した。
「月の末は留魂儀があることをみんな知っているのよ。だからみんなあなたを見て、応援してくれているの」
朝早くに、家族全員で馬車に乗って出かける、というと確かにどこへ行くところなのかは容易に想像できそうだ。だからか、時折店の方からは「がんばれよー!」という活気のいい応援の声が聞こえてきていた。
この儀式を終わらせると、私も外の世界を自由に歩けるのだ。それは今までの私の世界が広がることを意味する。早速街を歩き回って、本を読んで情報を仕入れていかなければ。何の情報かって、そりゃもちろんお酒のね!そこはぬかりなし!でも、この世界にはまだまだ知らないことがたくさんあるのだ。それらを知る機会があると思うだけで充分わくわくしてくる。その前にもっと文字の勉強をしておかないと。本を買っても読めないんじゃ意味がない。きっと家にはないような世界の酒辞典、みたいな本が本屋さんにはあるだろうし、もしかしたらお店にお酒が売ってる可能性だってなくはない。だってお酒が飲めないっていうのは家族から聞いた話で、それ以外何の情報もないのだから。
ワクワクする街中はしばらく走っているとどんどんと閑静な道へと変わっていき、活気あふれた商店街ではなく、人々が穏やかに暮らす住宅街へと変わった。その住宅街には私の家よりも小さい家が立ち並んでいる。ここに住んでいる人々はおそらく、一般的な家庭の人々なのだろう。そう思うと、転生したのが騎士の家系だったのもお酒が無ければ生きていけない私への神様の計らいだったのだろうか。とっても運がいいことだ。一般的な家庭に生きていると、きっとここまで綺麗に筋肉の付いた体つきにはならなかっただろうしね。
住宅街を走っていると、同じ方向に向かう馬車がちらほらと見えた。みんなもしかして留魂儀に向かっているのかな。
住宅街を過ぎていくと石畳は舗装されていない砂利道へと変わった。道がいくつかに分かれている中で一本だけ大きく逸れた道を馬車は進んでいく。その道の先には森が見える。街を抜けて自然に囲まれた穏やかな世界に変わると、私はようやくきちんと座り直して馬車を飲み込むように入り口を広げている森の入り口を見ていた。
馬車が森の中へ入っていくと、木々がアーチのように空を覆い、辺りはうす暗くなった。揺れる葉の隙間からこぼれるように降り注ぐ光は、緑色のベールのように柔らかで、優しい光だ。ここまでくると、私たちの家以外の馬車が同じ方向に向かっているのがはっきりと見えた。森にはいくつか道があるのか、立ち並ぶ樹の隙間から馬車が何台か走っている。
「留魂儀にはとてもたくさんの子供たちが集まるのよ。みんなで一緒に留魂儀を行うの」
私がちらちらと見える他の馬車を目で追っていると、それに気づいたエリスママが声をかけてくれた。
「ぎしきはむずかしい?」
「いいえ、意思の大樹の根元に広がる神聖な泉で身を清めてから大樹に名前を告げて、神石に触れる、もしくは持ち上げる。最後に大樹にお礼を言っておしまい。簡単でしょう」
「いしのたいじゅには、かみさまがいるの?」
「ええ、この世界をお創りになった月神ルナリオラスと陽神ソルダリウス、そして創造主テラーアドス様が宿っているのよ」
「へぇ……」
さすが異世界、聞いたことない神様の名前。でもルナとかソルとかちょっと地球でも聞いたことのある言葉も混じっているし、どこか似てる部分もあるのかもしれない。
ぼんやりと外を見ていると、ゆっくりと馬車が動きを止めた。
「ここからは歩いて行くぞ、リリス。滑りやすいから気をつけるんだ」
「はい、おとうさま」
先に降りたリールパパが手を取って 馬車からおろしてくれる。馬車から降りた瞬間、むわっと緑の青臭い匂いが鼻をついた。うっそうと生い茂る森の中には自然の音があふれている。近くで止まっている馬車数台からは、親に連れられて歩いている子供たちが何人か見えた。みんな私と同じ年、同じ留魂儀を受ける子供たちなのだ。もしかしたら友達ができるかもしれない、とほんの少しワクワクしながら、手をつないでくれたリーグお兄ちゃんに引かれて私も森の中を歩き始めた。
森の中は確かに滑りやすい。木々に生えた苔と、朝露で何度か転びそうになったのをリーグお兄ちゃんが手を引いて助けてくれたり、リドリーが後ろから受け止めてくれたり。割と悪戦苦闘していると、先を歩いていた女の子も同じように苦戦しているのが見えた。かわいいピンク色のワンピースを着ている。やっぱり女の子ってピンクが似合うよね、うんうん。これはどこの世界でも共有の認識なのかもしれない。若葉のような鮮やかな緑の髪色が、ピンクのワンピースに映えてて、まるで桜のようだ。おぼつかない足取りで進んでいくその女の子の両親はしっかりとした足取りでさっさと進んでしまう。おいていくなんてちょっと可哀想。
と思った瞬間、その子はずるっと滑って転んでしまう。
「あ!」
転んだ女の子は気丈にもぐっと泣くのをこらえて立ち上がるも、結構派手に転んで尻もちをついていたから痛そうにしている。その子の両親は立ち止まる様子はない。私は見かねてリーグお兄ちゃんの手をほどいて、私自身も危なげな足取りながらもその子へかけよった。
「だいじょうぶ?」
「ふえ、えっ! あ、あの……はい、だいじょうぶ……です」
うわあ、かわいい子!すっごいかわいい。と思わず言いそうになるくらい、大きな二重の金色の目、長いまつ毛、ふっくらした唇。肌も白く、頑張って歩いているからか、息が上がって頬も赤く染まっている。同い年とはちょっと思えない、幼い顔つきで、なのにどこか色気もある。これはなかなかの可愛さ。人形みたいとかそういうレベルを超えてる。話しかけたけど、あまりの可愛さに私の方が圧倒されてしまう。
「あ、あの……ころんでた。その、ごりょうしんは、さきに……いってしまったみたいだし……」
「ありがとうございます。父と母は、その……きびしい人たちで。じぶんのちからでなんとかしなさいって」
「そんなの、ダメだよ。ひとりじゃできないこともあるんだから。ほら、てかして」
はい、と手を差し出すと、一瞬きょとんとした後、その子はゆっくりと私の手を握る。
「わたしはリリスっていうの。あなたは?」
「あ、わたし……ルチアって言います」
「ルチア、ね! せっかくだからいっしょにいこう?」
「でも、その……リリスさんはごかぞくといっしょじゃ……」
ルチアがちら、と後ろを見る。私の両親は私のすることに基本口は出さない。いい意味で放任主義なのだ。今も全員で私の動向を見守ってくれている。
「だいじょうぶよ、わたしのかぞくといっしょにいけばもうころんだりしないし。それに、んーと……ほら、ルチアちゃんのめ、わたしのかみのいろとおなじ。ね、もうかぞくみたいなものじゃない?」
大げさかな、と思いつつもほら、と指先で髪を跳ねさせて遊ばせる。それを見るとルチアはくすくすと笑いだした。少しずつだが眉間の不安げな皺が無くなっていく。
「ではぜひ!」
きゅっと握り返された手に、私はにっこりと笑い返した。