6杯目 リールパパの最終試験
留魂儀に向けて猛特訓を始めてから3ヶ月くらいが経過した。
今は6月に入ったところ。季節は移り変わって春の気温が段々と高くなってきている。といっても、この世界の夏は日本より気温が低い。夏が苦手な私としてはとても有難いこと。
6月なのであと数日で私の誕生日が来るが、私の頭は留魂儀とお酒のことでいっぱいいっぱいなので、嬉しいよりも焦りを感じる。
ただこの数カ月間で毎日練習をするにあたり、ほんの少し弊害はあった。
例えばリドリーとの壁を壊すこと。兄妹なのに、なぜかいろいろとすれ違いを起こしていた私たちは、初日に中途半端に打ち解けてしまったからか数日間少し気まずい空気が流れてしまった。というのも、お互い嫌っているわけじゃなかったという事実が明るみに出たおかげで見事に今まで通りの接し方ができなくなってしまったのだ。
あの数日間は、変に緊張、というか恥ずかしさが先に来てしまい、ぎくしゃくしている私たちと、状況をあまり把握していないオリアドルというとんでもない空間が出来上がっていた。変に優しくしようとするリドリーと、変にお兄ちゃん扱いをしようとする私。
終わりは、気まずい空気に耐えられなくなったリドリーが私を指さして叫んだことだった。
『仕方ないから面倒見てやってんだぞ、だからちゃんとしろグズ!』
それがリドリーの精いっぱいの勇気だったんだろう。これで今までの関わり方に戻す、というやや荒っぽいながらリドリーなりの気遣いで、私は有難くその気遣いに甘えた。
そのあとからは私の脳内はまたお酒が占めるようになり、リドリーの態度も以前と同じようなとげとげしいものに戻った。だが、前よりはほんの少しだがとげが丸くなっているような気がする。
そしてもう一つの弊害はエリスママだった。
これも初日の出来事だが、私がリドリーの服を着ていることに激しく動揺したらしい。倒れはしなかったものの、その日は貧血を起こしたかのようにふらふらと椅子へ座ったまま、落ち込んでいた。
訳のわかっていなかった私はオリアドルに半ば無理やり元々着ていたワンピースへと着替えさせられた。その時にそっと耳打ちで教えてくれたのはまさかの言葉だった。
『女性が男性の服を身に纏うということは、私は結婚しません、という証なのです』
衝撃だった。まさか、女が男の服を着るだけでそんな意味を成すなど、知らなかったとはいえこれはエリスママが卒倒しかけるのも頷ける。
というか、リドリーもオリアドルも知っていたなら最初に教えてくれたらいいのに。
だがさすがにワンピースを着たまま腹筋やら腕立てやら縄跳びはできない。裾や袖に引っかかって危なくて仕方ない。
エリスママには精神的苦痛を与えてしまうかもしれないけれどこればかりは私の安全のために分かってもらうしかない。
リドリーにも説得を手伝ってもらい(すごく文句を言われたけど仕方なく手伝ってくれた)、私はエリスママに己の安全性を重視するために仕方ないのだ、と説明をした。
最初は真っ青な顔をしていたものの、練習に使用している空き部屋の中でしか着ないこととリールパパの前で着ないことを条件に許してもらった。
というか、じゃあ騎士になった時どうするんだろう。ひらひらスカートで戦うのかな。というふとした疑問が浮かんだもののそれはひとまず置いておいて、これで全て解決。
快適な練習生活を手に入れた。
起きて、柔軟から始まり腹筋や腕立て伏せ、縄跳びを経て、また最後に柔軟。
最初の頃はリドリーが付きっきりで見てくれていたし、学校が休みの日はリーグお兄ちゃんもカウントを手伝ってくれたりした。オリアドルは私にお水を用意する係に徹していた。
そんな生活を続けていたものだから、私の体は3歳児とは思えない逞しい成長を遂げた。
リドリーが正しい姿勢を徹底的に教え込んでくれたおかげか、筋肉はバランスよく綺麗についた上に体を痛めることもなかった。
心なしか服がきつくなったような気がするけれど、まあそれは仕方がない。痩せたゴボウみたいな女より、少し(筋肉寄りではあるが)ふくよかな女の方がいいって言うしね。
今日は待ちに待ったリールパパが家に帰ってくる日。
私は昼間から意気揚々といつもの倍は張り切って練習に勤しんでいた。
「70、71、72……」
そうそう、リールパパが家に帰ってくる頻度は割とまちまちだったりする。
私たちが住んているのは城下町で、リールパパが城内勤務の時に住んでいるのは王都。もう1つ上の階層の人たちが住む、いわゆる貴族と呼ばれる人たちの街だ。その王都の一番奥にウェセター国の城がある。私はまだ見たことはないけれど。
そんなリールパパの城での勤務は、所属騎士団での訓練や城内警備から各国の偵察など多岐にわたる。そのため、ひとたび遠征に行ってしまうと半年家に帰らない、なんてこともあるそうだ。だが、幸いにも昨今のウェセター国はいたって平和で、今は貿易もうまくいっているため他所の国と揉めていたり、緊迫した空気というわけでもない。ここ十数年は平和が続いている、とエリスママが言っていた。
だからリールパパは早くて数週間、長くても3か月の周期で家に戻ってくる。
今回は私の誕生日に合わせて家に帰れるようにしてくれたらしい。個人の都合で休みを取れるなんてものすごくホワイト企業だなぁ。
「リリス、そろそろ着替えた方がいい」
私が夢中になって腕立て伏せをしていると、隣で本を読んでいたリドリーが声をかけてくれた。
近頃リドリーの助けなく一人で練習出来るようになったが、それでもなおリドリーはサボるといけないから、と一緒にいてくれる。
私が練習している間リドリーは、剣技の訓練ができないからいつも本を読んでいる。どんな物語なんだろう、と思って覗き込んだことがあるが、ウェセター国の歴史だったり、神話だったりする。物語とは程遠い、堅苦しいもの。5歳のリドリーには難しいのではないかと思うけど、辞書みたいなものを片手に読んでいるからこれはもはや読書でなく、勉強だ。
騎士には愛国心が必要なのか、国や神話に関する勉強を一番最初にやらなければならないそうで、しっかり予習するなんてすごいなーと思う。他人事のようだけど、いつか私もしないといけないんだもんね、やだなー。
「リドリー、きがえるからおそとにいて」
「はいはい」
リドリーが外に出てから私はオリアドルに汗ばんだ体を拭いてもらい、今朝エリスママが選んでくれたワンピースへと着替えた。外に出るとリドリーは律儀に待ってくれていた。出てきた私を見るなり、そのまま何も言わずにどこかへ行く、と言っても行き先は大体わかる。おそらく庭、今頃リーグお兄ちゃんが剣の練習をしているからそれに合流するのだろう。
私も後ろから追いかけていき、庭に出れないため窓から見学。2人の兄が木刀を打ち合う姿をぼんやりと見つめていた。
もちろん、力も速さも技もリーグお兄ちゃんの方が優れている。学校に通わない限りリドリーがリーグお兄ちゃんに敵うことはないだろうし、年の差はなかなか埋めることはできない。それでも、初期に比べるとリドリーもだいぶん成長しているんじゃないかな、と素人目線で私は思っている。
ふと視界の端で何かが動き、そちらに目を向けるとリールパパとエリスママが並んで歩いてくるのが見えた。ちらっと見えただけだが、あの赤茶の髪色と背の高さはリールパパで間違いないだろう。
私は走って玄関へと向かった。
「おかえりなさい、おとうさま、おかあさま」
きちんと挨拶をしなければエリスママにやり直しさせられるので、言われなくても教えられた挨拶をする。3ヶ月ぶりに家に戻ってきたリールパパは出迎えた私を見るなり、その場にしゃがんで私をジロジロと見つめた。この国の騎士って、女性をじろじろ見る習性でもあるのかしら。
「リリス、ただいま。ちゃんと訓練しているみたいだな。この腕の筋肉、締まってきている無駄のない体……美しいじゃないか!」
目をキラキラさせながらリールパパは私の引き締まった腕や腰回りを触って納得しているかのように一人うんうん頷いていた。いや、待って。リールパパ普通にそれは引くからやめた方がいいよ。
一人感動に浸っているリールパパのお尻をぽんぽんと叩いてエリスママが家に入ってくる。
「リール、カルトン豚を家に運んでちょうだい。肉屋さんが外で待っているわ」
「おお、そうだったそうだった!」
鼻歌を歌いそうなくらい上機嫌で外へ行く。戻ってきた時には右手に軽々とカルトン豚の塊を持っていた。普段エリスママが買うような大きさではない。ファミリーパックという大きさを超えたそれはもはやパーティサイズ。
「ほら、リリス! お前の好きなカルトン豚の塩漬けだぞ!」
「すごくうれしい!」
でもどっちかというと喜んでいるのはリールパパな気もする。
「せっかくのお誕生日だからな、奮発したんだ! ああ、安心していい。これは誕生日プレゼントじゃないからな?」
そうでしょうとも。4歳の娘の誕生日に豚の塩漬けの塊をプレゼントする父親とかおかしすぎるから。さすがにそれプレゼントって言われたら心からは喜べないかなぁ、もらうけど。
「ありがとう、おとうさま!」
そう喜んでいたのもつかの間、リールパパがすごく嫌な笑顔で私を見ている。ああ、すごく嫌な予感。この笑顔は、私に練習メニューを渡してお城に戻っていったあの時の笑顔にすごく似ている。
「可愛いリリスのためならこのくらいどうってことはない! ただし」
ほらきた、なんだ?子どもだからあまり食べさせてくれないとかかな?小さい頃は卵は一日一つまでってよくお母さんに言われてきたけど、それと同じようなことを言うのかな?まあ、塩分って取りすぎは良くないしね。
「リリスが食べられるのは、これを持ち上げてからだ」
そういってドヤ顔でリールパパが私の目の前へ紙に包まれた肉の塊を置いた。
……え?
「練習の成果をきちんと見ないと安心できないからなぁ!」
至極楽しそうにリールパパが笑う中、私は呆然と豚の塊を見ていた。