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立夏の伊予灘を西へ白波蹴立てて進む二隻の艦艇があった。両艦の姿は素人目に見ても全く似ても似つかない。大きさですら、前を進む艦と、追い掛けている艦は何倍もの違いがある。
先頭の艦は、遠目には真っ平らな俎板を浮かべているような外見をしている。艦の右舷側、やや前方よりにこじんまりとした島型艦橋を持ち、飛行甲板全体を緑色を基調とした複数色による迷彩塗装で包んでいる。
この艦こそ、日本帝国海軍に残された数少ない空母、「雲龍」である。全長二二七.三五メートル、基準排水量一万七一五〇トンのこの雲龍型空母一番艦は、最初から空母として建造されたフネとしては妹の「天城」「葛城」と共に、一九四五年の日本帝国海軍中、最大の空母だった。その事実が、今の日本帝国の窮状ぶりを物語っている。
だが、空母としての使い勝手という点から考えれば、「雲龍」は申し分ないとは言えないが、さりとて不満だらけの落第艦という訳でもない。こんにちの帝国海軍が運用する空母としては必要な所要件を満たしている。
「雲龍」の後方一〇〇〇メートルを追従しているのは、駆逐艦「冬月」だ。艦隊防空を主任務として建造された秋月型駆逐艦の八番艦で、全長一三四.二メートル、基準排水量二七〇一トンの艦体は前型の夕雲型より一回り大きいが、前を走る「雲龍」と比べればカッターのように見える。
「冬月」の今日の任務はトンボ釣り……空母の着艦に失敗し、海面へ落ちた航空機の搭乗員救助である。
「雲龍」艦橋最上部、防空指揮所から東の方角を見つめている艦長小西要人大佐は、胡麻粒のような点々が空に浮かび上がって来たのを目にした。
「擬接艦、擬着艦と訓練を重ねて参りましたが、やはり緊張の一瞬ですな」
傍らに立つ副長が言った。三〇ノット近い速力で走っているため、耳元で叫ぶように言わないと聞こえない。
「これが『信濃』のような大艦なら、彼らも着艦はやり易かっただろうね」
小西が惜しむ口調で(大きめに)呟いた。大和型戦艦三番艦を改造して建造された空母「信濃」は、半年前に横須賀から呉へ移動して艤装が進められているが、折からの資材不足と空母の戦力化に対する優先順位の低下により、未だ竣工していない。
実際問題として、どうやりくりしても五〇~六〇機程度しか艦載機を運用出来ない巨艦一隻よりも、レイテ沖で敵戦艦数隻を血祭りに上げた「大和」や「武蔵」の修理優先度が遥かに高いのは仕方ない話だった。こんな事ならば、空母に改装せず、戦艦のまま竣工させた方が良かったのではないかとすら、一部では囁かれている。
しかし、全長二五六メートル、全幅四〇メートルもの巨大な飛行甲板はさながら洋上要塞であり、着艦という艦載機乗りにとって一番の難業を行う搭乗員たちからすれば、これほど嬉しいフネもない。
「本艦も悪く無いフネですが、さすがに『信濃』と比べるのはちと可哀想かと」
「違いない」
二人が他愛もない事を話している間にも、瀬戸内海ののんびりとした空を突き破るように機影が大きく見え始めている。
万が一の事故に備えて、副長は応急指揮所へ降りていった。艦橋では航海長が速力、針路そのままと命じている。
「六〇一空機、接近します。数八」
双眼鏡を目に当てたままの見張員が報告する。
小西が飛行甲板へ視線を向けると、甲板作業員たちが両舷のポケットへ避退し、後部の着艦制動索が上げられ、前部エレベーター前の着艦制止装置も起き上がっている。
続いて、近づいてくる機影を眺めた。今回「雲龍」で着艦訓練を行う部隊は艦戦隊だが、彼が以前まで見慣れていた零戦とは明らかに見た目が異なる。
遠目から見ると、アメリカ海軍艦上戦闘機F6Fヘルキャットとよく似ている。松山基地で錬成を続けている三四三空が陸軍航空隊向けに識別点を教えるべく、機体ごと鹿児島の知覧基地へ出張したという話があるほどだ。
まさに今、小西の眼前で「雲龍」艦上をフライパスしたその戦闘機こそ、局地戦闘機改め艦上戦闘機紫電改――制式名称紫電四一型の勇姿であった。
機体上面を少し青みがかった暗緑色に塗られた紫電改が一機「雲龍」上空を通過し、第一旋回点に入る。きびきびとした操縦で、何ら迷いの無い動きだ。
(流石は熟練の集う戦闘四〇二飛行隊だけの事はある)
今や彼ら第六〇一航空隊戦闘四〇二飛行隊は、片手で数える程度となってしまった母艦航空隊隷下の艦上戦闘機隊である。戦局の膠着状態を利用して、日々練度向上に務めていた。
アメリカ軍が昨年一〇月のレイテ沖海戦で大敗してから半年が過ぎたが、マリアナ諸島からB-29が飛来して主に夜間空襲を行っていく他は、アメリカ軍は不気味に沈黙している。無論、海上交通路を絶つための通商破壊戦は別だ。
聯合艦隊は稼働駆逐艦の半数を海上護衛に注ぎ込んで、蜘蛛の糸のようにか細い海上交通路の確保に懸命となっている。戦時量産型の松型を中心に、すでに一〇隻以上が沈没の憂き目を見ているが、その犠牲は確実に、日本帝国の寿命を先延ばしにする効果をもたらしていた。
第二旋回点を通り過ぎ、第三旋回点へ向かう紫電改と自らが預かる「雲龍」の姿を交互に見ながら、小西はそうした事実を噛み締めている。
「一番機、『冬月』上空通過!」
見張員の声に、小西は艦尾方向へ目をやった。第四旋回点、つまりトンボ釣りを行う「冬月」の真上で最後の変針を終えた紫電改が、「雲龍」へ最終アプローチへ入ろうとしていた。
紫電改は主輪と着艦フックを降ろしながら、速力、高度、気流を絶妙に把握調整し、零戦と比べて無骨な機体を「雲龍」へ持っていく。
吸い込まれるように「雲龍」艦尾をかわった紫電改は、一二本ある索のうち、最後尾から四本目の索を着艦フックで抱き締めて、無事に「雲龍」へ着艦した。
完全に機速が殺された事を確認すると、退避していた甲板作業員たちがポケットから飛び出し、着艦フックに掛かった索を手早く外す。紫電改はスロットルを僅かに吹かして、ゆるゆるとした速度で飛行甲板上を進み着艦収容区域まで自走していく。
雲龍型はそれまでの空母とは違い、着艦技量に不安のある若手搭乗員対策として、着艦制動装置を前部エレベーターより前に設置しているという特徴がある。着艦に必要な区域は広がるのだが、艦載機の着艦作業中に前部エレベーターを作動させる事が出来ない。つまり、艦載機急速収容数の上限に達すると、前部エレベーターで艦載機を格納庫に降ろしてしまわない限り次の着艦が行えないという制約があった。
もっとも、その制約が実戦で露わになる見込みの方も少ない。今こうして「雲龍」へ降りてきている戦闘四〇二飛行隊と、昨日の午前中に発着訓練を行った天山艦攻装備の攻撃第二五四飛行隊はともかく、六〇一空隷下の他の飛行隊は錬成が進んでおらず、あと数ヶ月は時間が必要と目されている。
そして、アメリカ軍は向こう一ヶ月以内、六月には動き始めるだろうという予測が、聯合艦隊司令部及び軍令部では支配的だった。この点は小西も同意見である。
急速収容数の上限以上は着艦時間が延びてしまう……ための十分な艦載機を実戦で用意出来ない――日本帝国の現状をこれ以上なく物語る一つの笑い話として、小西は思わず天を仰いだものだ。
後続の紫電改たちも続々と飛行甲板へ滑り込んできている。大凡、問題のない着艦技量と言えそうだ。
八番機の着艦が終了したのは、最初の紫電改が飛行甲板へ足を降ろしてから六分後だった。
最初に「雲龍」へ降りた戦闘四〇二飛行隊長の藤田怡与蔵大尉は、仏像のごとき柔和な表情を浮かべて後続の着艦を見守っていた。最後の紫電改が「雲龍」に無事着艦し、搭乗員全員が藤田のいる艦橋前まで集まってくる。
「君らの着艦の様子は全部見た。概ね、よろしい。経験者も何人かいるからあまり心配はしとらんかったが、私が細かくあれこれ言う必要はない程度によろしい」
藤田はそう言うが早いか「一三〇〇に再び艦橋前へ集合、解散」と告げ、艦橋の中に入ってしまった。
これは、藤田の指揮能力に問題がある訳ではない。それどころか、藤田は兵学校出身の戦闘機搭乗員としては三本指に入るエースであり、あのミッドウェー海戦時は「蒼龍」に乗り込み、上空直掩任務で一〇機の撃墜スコアを挙げた経験さえある。
今日「雲龍」へやって来た搭乗員たちは、その藤田をして満点をあげ得る力量をもったメンバーが揃っていたという事だ。
三々五々に別れていった搭乗員の中で、傍目には親子ほど体格の違う二人組が、基地から持って来ていたサイダー片手に艦橋の傍に座り込んでいる。艦の乗組員ではこの昼間なら絶対に出来ない振る舞い方だ。
背の高い方がぽつりと言った。
「ええ飛行機に載せてくれるんは嬉しいんですけどね」
サイダーをちびりと口に含む。キリっとした美丈夫で、ラバウルにいた頃生やしていた髭を綺麗に剃っている分、街中で歩いていたら年頃の少女たちがよく振り返った。
「B公が数日置きにやって来るような状況で、今更艦載機隊作って御役目があるんか、私ぁ疑問なんです」
「まあ、そうだな。護衛機の来ない裸のB公相手でも夜を飛ばれちゃ、俺は大丈夫だが若いのはどうしようもないわな」
相槌を打っている方は、隣に座るガタイの良い男とは反対に、小柄で、ともすれば畑で農作業に精を出していそうな朴訥の印象を与える。そんな彼が只者ではない事は、末端の将兵の規律を縛り上げないと軍紀を保てなくなっている昨今、七三分けの長髪を綺麗に整えているところのみに伺える。
「俺らが考えてもしょうのない事なんだろうがね。しかし、紫電改は良い飛行機だ。零戦と同じように振り回しても遜色ない。航続距離が短いのは頂けんが」
速力を落とした「雲龍」から見える伊予灘の海を眺めながら、サイダーを呷る。
何かを思い出したのか、背丈の高い方が、小柄な先輩の背中を指差しながら言う。
「そうだ、救命胴衣のそれ、いい加減変えないといけませんな」
ああこれか、と温和な顔を崩さずに背中を見る仕草をする短躯の男。
「零戦じゃなくて、紫電虎徹にしないと」
「語呂が悪いなあ」
そう、岩本徹三少尉が破顔すると、釣られて西沢広義飛曹長も笑みを浮かべた。
帝国海軍の撃墜王ランキングトップ五に入る男たちを乗せた「雲龍」が、国家が危急存亡の秋にあるとは思えない麗らかな瀬戸内をゆっくりと進んでいた。
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