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栗田艦隊は速力二二ノットでサマール沖を南に突進していた。道中、北方でハルゼー艦隊を誘引しているはずの小沢艦隊から、
「敵艦上機約八〇機来襲、交戦中」
「『瑞鶴』敵艦上機ノ空襲ニヨリ被弾、通信機故障。『大淀』通信代行」
との電文が午前八時過ぎから一〇時頃までに旗艦「愛宕」へ入っている。
これらの電文だけでは、小沢艦隊がハルゼー艦隊を引っ掛けたかどうかは判断がつきかねるけれども、栗田はレイテ湾への進撃を強く命じた。
彼の状況判断はこうだ。
・日の出前に遭遇・撃滅した敵空母部隊は特空母を中心とする上陸援護の艦隊で、ハルゼーの機動部隊ではない。
・付近に存在すると考えられる別の空母部隊も、一航艦及び二航艦の情報によれば特空母の部隊である。
・我が艦隊は散発的に敵航空機の空襲を受けるも、二〇一空直掩隊の迎撃により損害はほとんど無い。
・志摩・西村艦隊がスリガオ海峡に突入し、目下敵艦隊と交戦中である。
このような情報を勘案していたので、栗田を始め艦隊司令部要員たちは誰もレイテ湾突入以外の選択肢を取ろうと思わなかった。そしてその判断は、「愛宕」へ午前一一時過ぎに入電した、南西方面艦隊発の「〇九四五『スルアン』灯台五度一一三浬ヤキ一カ機動部隊アリ」という無電を読んでも変化はなかった。
なぜならその電文を受け取った時点で、彼ら栗田艦隊は損傷艦を置き去りにして三〇ノットの速度で進めばホモンホン島南方まで数十分で到達可能な海域に進出しており、なおかつすでに、スリガオ海峡を突破した西村艦隊が、ホモンホン島沖の戦艦多数を含む敵艦隊と交戦に入ったという無線通信が直接入ってきていたからである(つまり、栗田・西村両艦隊はそこまで近づいていた)。
確かに、この状況は八月に聯合艦隊司令部と作戦打ち合わせを行った際に提議された「敵輸送船団と敵主力艦隊を二者いずれかを選ぶ場合は、敵主力を撃滅する」ケースそのものだった。
ところが、ヤキ一カ(航空機用の地図で用いる符号)に本当に敵機動部隊が存在するなら、とっくの昔に栗田艦隊は北方から前日のような大規模空襲を受けていないとおかしいのである。現実には、彼らは東ないし南東から五月雨式に飛来する艦載機らしき敵機としか交戦していない。
仮に、敵機動部隊が存在するとしても、目と鼻の先で西村艦隊が戦闘を繰り広げているというのに、これを見捨てて今更北方に向かうなど、まともな指揮官なら取り得ない選択だった。
西村艦隊が戦艦六隻を含む敵艦隊を発見したのは一一二〇時。ヒブソン島の西側を通過してレイテ湾へ向かおうとした矢先の事だった。
敵戦艦部隊はホモンホン島西側を南下しており、すでに西村艦隊へ全速で近づき始めていた。
これに対し西村は直ちに針路〇九〇度――レイテ湾入り口の方角へ向かうよう指示、次いで距離三万三千メートルで「山城」と「扶桑」に対し敵戦艦へ砲撃を命じた。
元から命中を期待する砲撃ではない。西村は栗田艦隊がもうそこまでやってきている事を種々の無電から把握していたので、敢えてレイテ湾とは反対の方向へ進んで敵艦隊を誘引し、栗田艦隊と合同で一気に殲滅しようと考えたのである。
とは言え敵艦隊の戦力はざっと見える範囲でも西村艦隊の四倍以上で、組み合う気のない西村艦隊を早期に揉み潰すべく、巡洋艦、駆逐艦部隊を前進させてきた。その数、二〇隻に迫る規模であった。
重巡「足柄」と「最上」、軽巡「阿武隈」と駆逐艦三隻が阻止行動に入る。西村の背中に冷たいものが流れた。
こちらと敵の距離は約三万で、どちらも速力三〇ノット以上で走っているだろうから、真正面から向かい合っているとすれば一五分程度でその距離が零になる計算だ。砲撃戦に入るにはその半分の六~七分後くらいのはず……。
(まだか、栗田艦隊は)
内心の焦燥感を押し殺した態度で西村は双眼鏡を東の方向へ向ける。
「山城」と「扶桑」が射撃を続けるが、三万メートル以上の大遠距離ではなかなか夾叉を得られない。それは敵戦艦も同じ事であり(昼戦における日米艦艇の砲戦技量は、この時期の互いのレーダーの性能差を加味してもさほど乖離していなかった)、命中が望めないのなら目標を変えるまでの事だった。
「山城」と「扶桑」の周囲に湧き上がる水柱の数が減り、代わりに敵巡洋艦・駆逐艦部隊と交戦に入った「足柄」と「最上」の周りに、幾つもの水柱が吹き上がった。
「くそっ、まずいな……」
その様子を見ていた首席参謀の安藤大佐が口角を歪める。敵は数の優位を活かして、こちらの重巡以下を叩いてしまう腹積もりのようだ。
このままでは二隻の重巡が大打撃を被り、敵軽快艦部隊の突進を押し留める可能性がさらに激減し、敵戦艦の砲撃と敵軽快艦部隊の雷撃で「扶桑」「山城」も叩きのめされる。
「『足柄』及び『最上』に打電、敵砲撃の回避に努めよ」
西村に出来るのは、二艦に回避を優先するよう命じる事だけだった。だがそれは敵軽快艦部隊の阻止が不可能となる事を意味する。転舵しながらの砲撃など当たる物ではないからだ。
(栗田艦隊の到着まで粘るつもりだったが、このままでは良いように殴られるだけだ。ここは思い切って突っ込むべきか……?)
そうすれば、少なくとも敵戦艦に手傷を追わせるぐらいは出来る。その後、袋叩きに遭うのは分かり切った帰結だろうが、今のままはどの道全滅は必至だ。
なお、西村の脳裏に撤退という選択肢は端から存在しない。鈍足の戦艦二隻を含む彼の艦隊が敵艦隊と遭遇した時点で、尻尾を巻いて逃げても優勢な敵軽快艦部隊に追いつかれるのが自明だからである。
思えば、ここまで来れた事それ自体が僥倖だった。予想された空襲も一度だけだった。志摩艦隊と合同で敵艦隊を一度は撃破したのだ。
元々が無理な作戦だった。なのにこれほどまで戦えた幸運を考えると、そのツケを支払う時が来ただけという事なのかも知れなかった。
(やはり、突っ込もう。重巡や一水戦にだけ戦わせて、自分たちはやる気のない砲戦をしていたと戦史に悪名を残したくない)
二戦隊にも突撃を命じようと腹を括った西村が口を開きかけた時だった。
「艦首方向左二〇度に艦影。あれは――高雄型重巡です!」
見張員の絶叫に近い声が「山城」戦闘艦橋内に反響した。数拍置いて、艦橋へ駆け込んできた伝令から通信文書を手渡された通信士官が、綻ばせた表情と震わせる声を露わに入電した電文を読み上げる。
「1YB(第一遊撃部隊)旗艦より入電、読みます。『遅参ヲ謝ス。我コレヨリ戦闘加入ス』以上です!」
レイテ湾での再会を期してブルネイで別れ、シブヤン海で五派に及ぶ空襲を凌ぎ、サマール沖で敵空母部隊を蹴散らし、一三〇〇海里近い波濤を越えた日本帝国海軍最強の水上艦隊が、西村艦隊の窮地を救うために、レイテに集うあらゆる敵を粉砕するために、遂に姿を現したのだ。
一九四四年(昭和一九年)一〇月二五日午前一一時三六分、損傷艦を置き去りにしてホモンホン島とディナガット島の間に突っ込んできた日本帝国海軍第二艦隊主力は、西村艦隊の一水戦に猛射を浴びせていたオルデンドルフ少将麾下の巡洋艦・駆逐艦部隊へ距離二万九千メートルで一斉に砲撃を開始した。
突進して来たのは栗田中将の座乗する重巡「愛宕」を先頭に「高雄」「鳥海」の第四戦隊、ただ一艦となっている第五戦隊の「羽黒」、第七戦隊「鈴谷」「熊野」「利根」「筑摩」、そして戦艦「金剛」と第二水雷戦隊旗艦「能代」、駆逐艦九隻。合わせて戦艦一、重巡八、軽巡一、駆逐艦九の精鋭たちだった。戦艦と重巡が単縦陣となり、二水戦はそのやや右後方を同じく単縦陣で走っている。
これに少し遅れて「榛名」が追い掛け、さらに距離にして約九〇〇〇メートル後方に全速を出せない「武蔵」を抱える第一戦隊、同じく四戦隊に置いて行かれた「摩耶」と彼女らの護衛を務める第一〇戦隊「矢矧」ならびに駆逐艦六隻が続いている。
戦艦「金剛」はともかく、重巡としては限界いっぱいの遠大距離での砲戦開始となったが、まずは滅多打ちに遭っている一水戦と「足柄」「最上」を援護しなければならない。
案の定、弾着はどれも掠りもしない。ただ水柱をたくさん拭き上げただけに終わる。しかし、この砲撃は栗田の狙った通りの効果を発揮した。四倍以上の戦力差で西村艦隊を殲滅しようとしていたら、反対に巡洋艦戦力で倍近く水を開けられている栗田艦隊に戦いを挑まれてしまった彼らは、完全な混乱状態に陥ってしまったのである。
新たな敵有力部隊接近の報に、旗艦「メリーランド」に乗るオルデンドルフは絶望的な心持ちで佇んでいた。
もう、ハルゼーが何をどうしようと事態は変わらない。補給のためウルシー環礁へ向かっていた第三八任務部隊第一群を呼び戻して攻撃に当たらせ、ウィリス・A・リー中将の第三四任務部隊を反転させたというハルゼーの返電が一時間ほど前にあったが、ジョン・S・マケイン中将の第一群はここから四〇〇海里も離れた海域にいるのだから、何の役にも立たない。リー中将の戦艦部隊など、もっと役に立たない。彼の新鋭戦艦たちが全速で航行したところで、レイテ湾に到着するのは明日の朝だ。
「メリーランド」の戦闘指揮所に刻々と入ってくる戦況情報は、オルデンドルフの指揮する艦隊が確実に破滅へと向かっていっている事を教えている。二隻のフソウタイプへ射撃を行っていた「メリーランド」と「ウェストヴァージニア」に対して、新たに接近して来る敵巡洋艦及びコンゴウタイプへ目標を変更するよう命じ、「ミシシッピ」「テネシー」「カリフォルニア」「ペンシルベニア」も順次射撃目標を急速接近する巡洋艦へ変える命令を出した。その間にも、数は凌駕しているはずの駆逐艦たちが、自分より二回りも格上な巡洋艦たちに撃たれまくっていると悲鳴のような無線を飛ばし合っている。
四分後。どこかにいるはずだと覚悟していた日本の戦艦群がホモンホン島南南東八八〇〇ヤードの海域に現れたと、レーダー員から報告があった。連中の戦艦たちは巡洋艦群の真後ろを進んでいたらしい。先頭を進む「メリーランド」からは方位一一五度、直線距離で約四万ヤード(約三万六千メートル)離れていて、まっすぐ西へ進んでいる。どの艦も主砲の射程距離外だった。
オルデンドルフは胃が締め上げられるような痛みを覚えた。連中の戦艦群が現れた以上、こちらの戦艦たちを敵巡洋艦群に差し向けている場合ではなくなる。彼は隷下六隻の戦艦に取舵を命じた。
「メリーランド」艦長が取舵一杯を下令し、航海科員が復唱する。後続の戦艦たちにも信号で転舵命令が伝達される。
数十秒後、「メリーランド」の艦首がぐうっと左へ回り始め、基準排水量三万二五〇〇トンの艦体が右舷へ傾く。「メリーランド」を追い掛ける五隻の戦艦も回頭点で転舵を始めた事を見張員が報じた。
そしてオルデンドルフ隷下の戦艦たちが全艦針路を変更したのと同時に、見張員が、
「敵戦艦、発砲!」
と報告する。
どうやら敵はこちらの巡洋艦・駆逐艦を早期に潰して、こちらを丸裸にしてしまうつもりらしい。
(我々も敵戦艦への射程距離内に入るまでは敵の巡洋艦を叩き続けるべきか……?)
「司令官、ここは接近して敵戦艦を叩きましょう」
オルデンドルフが思考を巡らしているのを察した参謀長が、彼に意見具申をする。
「大物を食ってしまえば、敵の侵攻意志を挫けるかも知れません。奴らの巡洋艦を叩いても戦艦が残っていれば、連中はどこまでも突っ込んで来るに違いありません」
もう我々には他に手がないのです、司令官。と付け加えた参謀長は、自身の職責を果たすことで、感情の発露を抑えようとしている彼の努力が伝わってくる表情をしていた。オルデンドルフはゆっくりと頷いた。
「OK、貴官の案を取ろう。刺し違えても奴らの戦艦を押し留め――」
オルデンドルフが言い終わらないうちに、「メリーランド」の右舷約八〇〇ヤード付近に見たことのない巨大さの水柱が吹き上がった。
「メリーランド」に乗り組む軍人たちは、そのナイアガラの瀑布のような光景を唖然とした表情で見つめていた。その理由は、敵戦艦がより接近している味方巡洋艦群ではなく、約四万ヤード離れている自分たちを撃てる主砲を持っていたという事実もさることながら、水柱が、どう見ても敵戦艦の主砲は一六インチを超えていると考えざるを得ない高さまで到達したからだ。
「なんということだ……」
オルデンドルフは自分の立つ戦闘指揮所の床が崩れ、地獄まで堕ちてしまうような感覚に囚われながら呻いた。
数秒後、彼は現実を取り戻し、全速で敵戦艦に接近するよう命じた。まずはこちらの主砲射程距離内に踏み込まなければならない。我々がアウトレンジで潰される前に……!
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