1話 食べ物の恨みは命に関わる重大事件だと言っても過言ではない
五千年前、魔王が地上に現れた。
全能の魔王は十二体の個性豊かな魔物を生み、意のままに自然界を支配していった。自然を取り上げられた人間は、もとの世界を取り戻すべく魔王軍に戦いを挑むも、圧倒的な魔王軍の力に後退を余儀なくされる。
大敗してなお魔王討伐に立ち上がった者は、勇敢な者――勇者と呼ばれ称えられたのだった。
五千年という時代の流れで人間は文明と魔法を進化させ、ついに魔王軍と対等に戦える強力な力を手に入れた。
魔王と勇者の壮絶な戦いが、始まる。
◆
――魔王歴、五千五十年。
魔王は、広げていた新聞紙を丁寧に折り畳んで書斎の机に置くと、頬杖をついて嘆いた。
「もぉ~、勇者の数が七千人を超えちゃったってぇ~。やだ~」
折り畳まれた新聞の1面には、七千人以上の勇者が魔王討伐のために旅をしている、と大きく報じられていた。
「……なんですか? 魔王様ともあろうおかたが朝からそんな情けない声を出して」
Ⅲの数字を持つ魔物のサード・リキッドが紅茶のセットを持って書斎に入ってきた。
スラッとした長身に吸い込まれそうなほど黒いロングヘアーからは、まったくと言っていいほど圧がない。雨水が大地に滲み込むように、渇いた身体にスポーツドリンクが浸透するように、その場に馴染んでいる。
今日は、赤みのある白い肌をして、ズボンタイプの黒いスーツを着ていた。
「だってぇ~、酷いんだよ。勇者が七千人を越えたんだって。わたしたちなんて十三体しかいないのに、向こうはパーティーのメンバーを入れたら一万人以上いるんだよ! たかが五千年で増えすぎだよ! 不公平じゃん! ズルいじゃん!」
「そんなにむくれても勇者の数は減りませんよ。魔王様の威厳はぐんぐんと音をたてて減っていますけど。なけなしの威厳がなくなってしまいますよ」
「サード。魔王のわたしから威厳がなくなるわけがないじゃない。こんなに可愛くて、全能の魔王から威厳がなくなるなんて、それこそ世界の終わりよぉ~」
魔王は姿見の前で一回転して、早朝に二時間かけて巻いたツインテールを撫でた。綺麗でキュートに仕上がった、と我ながら見惚れてしまう。
寝る前に天然吸血コウモリの血でパックした肌もぷっくりと張りがあり、伝説の防具である、装備した者は世界一のもち肌になり全ての傷を拒絶できる「女神のほっぺ」にも勝るだろう。
真夏の空のように爽やかな水色の髪に透けるように白い肌、不死羊の毛で編んだ銀色のニットワンピースがとても似合っている、と自画自賛しては悦に入るのだった。
「あ、今世界が終りましたね。魔王様、お勤めお疲れさまでしたー。……はい、紅茶が入りましたよ」
リンゴの甘い香りが部屋に広がり、嗅いだだけで唾液がリンゴ果汁になったような錯覚を受ける。
液体を司るリキッドが淹れるアップルティーは、全身の筋肉が弛緩し軟体動物になったしまうほど、美味である。
「はぁ~、サードの淹れる紅茶は沁みるわ~」
「年寄りくさいですよ、魔王様」
「こんなに可愛い少女に向かって、年寄りくさいって酷くない?」
「五千五十一歳の少女とは、魔王よりも珍しい生物ですね。性別もないのに、図々しいですよ」
「うるさいな~。まだ五千五十歳です~。……うん、今日のアップルティーはシナモンが入っていて、いいアクセントになっているわね」
「ありがとうございます」
「でも、リンゴなんていつ食べたの? 昨日は、ずっとこの屋敷にいたじゃない」
リキッドは食したものを体内で循環再構築して様々な飲料を造ることができる。逆にいえば、リンゴと紅茶を食していなければアップルティーを出すことはできない。
「……」
「え? 無視? 魔王であるわたしを?」
「…………」
「え? なんで真顔で無視するの? やだ、怖いんだけど。千歳を越えての遅れてきた反抗期?」
「………………」
「ねぇ~、その顔やめようよ~。怖いから~。ごめんね。なんかわからないけど、ごめんごめん。わたしが悪かったから、ほら笑って!」
「……昨日、オリーブが一時帰宅したんです」
Ⅴの数字を持つ魔物フィフス・オリーブは、植物を司る。
秋桜のように愛らしく、大木のようにぶれない精神を持っており、日に焼けた身体に季節の花々で作った服を纏った姿は、動く花畑のようである。
「え? フィフスが帰ってたの? うそ~、会いたかった~。なんで報せてくれなかったのよぉ~」
「魔王様は、マニキュアが乾くまで何があっても動けないから、勇者が攻めてきても、絶対に呼ぶな、と仰っていましたので」
ぷうぅー、と魔王はむくれた。確かにそう言った記憶があり、腹は立つが、言い返せなかった。
「それで、フィフスは何の用で帰ってきたわけ。いまは、北の大地のガーデニングで忙しいんでしょ」
「ある日、一体の魔物は仕事に疲れ、息抜きにティータイムを楽しんでおりました」
「……急になんの話?」
「その魔物は、自分で育てたハーブでハーブティーを淹れ、これまた自分で育てた小麦や果実を使ってパイを焼き、乾燥した風の吹く北の大地で草木の息吹きを嗅ぎながら、草原の高台に木のテーブルと椅子を生やして、それはそれは心安らぐティータイムを楽しんでおりました」
「え? フィフスの日常?」
「魔物は、自分で焼いた熱々サクサクとろとろのパイを食べたところ、あまりの美味しさに感動し、これは是非、ご主人様にも召し上がっていただきたい、と若葉の船で北風に乗り、パイを届けました」
「フィフスがパイを届けてくれたの! フィフスの作るパイ、わたし大好き! ねぇ、持ってきてよ。一緒にいただきましょ」
「……」
「……その沈黙は、なに? その真顔はもういいわよ」
「魔王様は、すでにオリーブのアップルパイを召し上がりました。シナモンの効いた大変美味しいアップルパイでした」
魔王は深刻なダメージを受けた。いままでのどの勇者も負わせたことのない、深く、深く、深刻なダメージを。
「……もう、ないの? サードが全部食べちゃったの?」
「いえ、違います」
リキッドが首を横に振ると、魔王のダメージがやわらいだ。
「シャルムが戻ってきたところだったので、一緒にいただきました」
魔王は、立ち上がれないほどのダメージを受けた。時間をかけて巻いた髪を振り乱し、カーペットの上で四肢を振り回して暴れた。
「わたしも食べたかったぁー! フィフスのアップルパイが食べたーい!!」
魔王の断末魔を聞きつけて、Ⅹの数字を持つ魔物のテンス・シャルムが駆け込んできた。後ろで束ねた長い白髪と胸まである髭が揺れ、首から下を覆い隠す大きなローブが波打っている。
「どうされましたか、魔王様?」
「火に油が飛んできた」
と、リキッドがため息をつく。
シャルムを視界に捕らえた魔王は、受けたダメージを怒りに変換して、シャルムに飛びかかった。
「油に引火した」
と、リキッドは書斎の隅に避難した。
魔王は、シャルムのローブを掴むと玉のような涙を流して揺すった。ガクガクとシャルムの頭が振れる。
「貴様、よくも、よくもおぉぉぉ! のこのことわたしの前に現れたことを後悔させてやるうぅぅぅ!」
魔王の腕の速度が上がっていく。シャルムの頭は、もはや残像しか見えなかった。
このまま放っておいたらシャルムの首が空高く飛んでいくのかな、とリキッドが傍観していると、魔王の体から漆黒の魔力が溢れ出た。
「マズイ!」と、リキッドも魔力を高める。
するりとリキッドの体が原形をなくし、液状となったリキッドは二体に覆い被さった。
リキッド自身が変化してできた魔力を遮断する障壁が、魔王から溢れる魔力もろとも包み込む。
その瞬間、目の眩む閃光が爆ぜた。
――――リキッドは、飛沫となって飛び散った身体を集めると、深々と頭を下げた。
「魔王様、申し訳ございませんでした」
嵐のあとのような散らかった書斎で、魔王はもごもごと口を動かしながら、笑顔だった。「まあ、気にしないでよ」と、焼き立てのパイを頬張る。
「魔王様、ごめんなさいね。リンゴがなかったので、カスタードパイになってしまって」
エプロンを外しながら、オリーブが申し訳なさそうに言う。
「アップルティーがあるから大丈夫だよ、フィフス。このパイもすっごく美味しいし」
リキッドは、アップルティーを淹れ直す。魔王の無垢な笑顔を見て、わざわざ駆けつけてくれたオリーブに感謝した。
魔王の怒れる魔力をもろに受けたシャルムは、瀕死の重傷だったが、死んではいなかった。死んでいなければ問題はない。魔物は、核を破壊されて死なない限り、魔王のそばで魔王が垂れ流す魔力を浴びていれば再生できるのだ。
被害を最小に抑えたリキッドも、身体を維持させる魔力しか残っていなかった。
「……あら?」
散乱した書類を拾っていたオリーブが、首を傾げた。
「ねえ魔王様、この新聞はどうされましたの?」
リキッドは、オリーブが手にした新聞を覗き込んだ。一度リキッドの身体で濡れて皺のできた新聞は、人間の作っている王都新聞社のものだった。魔王のいる屋敷からオリーブの船で向かっても3日はかかる、魔王の侵略した地から最も遠くにある王都で作られている新聞である。
魔王からの返答は、ない。パイを頬張りすぎて話せない状態だった。
「オリーブ、この新聞がどうかしたの?」
リキッドが訊ねる。リキッドの目からでは、不審な点は見られなかった。
人間の新聞があることは別に不思議なことではない。敵の情報を知るために落ちている新聞は持ち帰ってくることにしている。人間に化けて町で貰ってくることもあった。溜まった古新聞は、焼き芋作りに使っている。
「リキッド、ここを見て」
オリーブが新聞の上の方を指した。大きな活字で書かれた、七千人の勇者が魔王討伐のために旅をしている、という見出しのさらに上だった。
そこには、朝刊という文字と今日の日付が印刷されていた。
「……え? うそ? どうして今朝の新聞がここにあるの?」
リキッドはオリーブと向き合った。疑問が視線を交錯する。肥大する困惑は、手もとの新聞を不気味な存在へと変貌させていった。
二体の魔物は、同時に新聞を離し、縋るような顔を魔王に向けた。
魔王は快活だった。唇についたパイを舐め取り、楽しげに口を開く。
「どうしたもなにも、朝刊なんだから今朝届いたんだよ」
「誰が持ってきたのですか?」
オリーブが眉をひそめる。
「新聞配達の少年。その少年が、すっごい良い子でね、昨日勧誘に来たときに話してくれたんだ。お父さんが死んじゃって、お母さんは身体が弱くて働けないから、妹を学校に通わすために、自分は学校にも行かず友だちと遊ばないで働いているんだって。もう泣けちゃうよね」
そのときのことを思い出して目を輝かせ早口になる魔王を、リキッドが制した。
「魔王様、その話は本当ですか?」
「本当だよ! あの少年が嘘を言うわけないじゃない」
「いえ、そうではなくて、本当に……間違いなく、昨日に少年が勧誘に来て、今朝も配達に来たのですか?」
「そうだよ。あの少年は真面目な子だから、勧誘しといてバックレるわけないもん!」
リキッドはオリーブと顔を見合った。
「わたしでも三日はかかる距離を、人間が一日で往復するなんて、可能だと思いますか、リキッド」
「考えられない。不可能」
リキッドは顔をしかめた。
「ちょっと、ふたりとも! わたしが嘘を言っているとでも思っているの?」
魔王は腰に手を当て、仁王立ちで睨んだ。
「確認なのですが……」
リキッドは魔王を刺激しないように柔らかい声を意識した。もう一度爆発されては、魔力のない今、防ぐ術がない。
「魔王様が、王都まで新聞を取りに行ったということは、ないですよね?」
聞きながら、そんなことがないことをリキッドは自覚していた。今朝の魔王は、髪を巻くのに忙しかったからだ。
しかし、この屋敷と王都を一日で往復できるのは魔王ぐらいしかいないのだ。そんなことができる人間がいるとしたら――。
魔王は芝居がかった溜め息を吐き、新聞を指差した。
「あの少年はちゃんと配達してくれたわ。その新聞がここにあるのが何よりもの証拠よ!」
リキッドとオリーブは頷き合った。互いの認識が重なる。
――その少年は、かなりの脅威である。
「明日も来るって言っていたから、あなた達も会えばわかるわよ。彼がどんなに頑張り屋で、健気な少年かがねっ!」
魔王は嘘をついていない。
魔王の屋敷と王都を一日で往復する少年は存在する。
しかし、翌朝の新聞が届けられることはなかった。