閑話 少女と騒乱
アルフ・オルブライトが違和感に気づいたのは、ほんの偶然だった。否、もしかするとそれは、彼の血に備わった動物的な本能だったのかもしれない。
アルフが汗で滑る手を離すと、繋いでいたヴィクターは何事かという目で彼を睨み付けた。アルフとサディアス二人分の痛みを請け負っているのだから、そう気を張らなくともいいのに。
同じくヴィクターと手を繋いでいたカレンも、その大きな瞳を開く。魔力消費の肩代わりをしたお陰か、顔色はもうさほど悪くない。
「アルフ……?」
「いや、闇が……薄くなった気が……」
言われてみて初めて気づいた、否、それまで回りを見渡す余裕もなかったのか。ヴィクターたちはそこで初めて作業を止め、天井を見上げる。そこにあるのは底知れぬ闇ではなく、見慣れた照明だった。
明かりこそついていないが、それは間違いなく生徒たちにとっての希望になった。
会話を聞いていた者が一人、また一人と活力を取り戻す。恐怖はたやすく人に伝染するが、反対もまた、あるのだ。
にわかに騒ぎ出す生徒を尻目に、アルフたちはようやく手をほどく。あれからどれだけの時間が経ったのか分からないが、心配なのは一つだけだった。
「もしかしたら、ハリエットが……」
「はぁッ……心配なら、早く迎えにいってやれ。俺はもう動けん」
腰が抜けたように、行儀悪く座り込んだのはヴィクターだった。今回の件で最も負担の大きい部分を買って出たのだから、当然だ。
魔力をあるだけ吸われたはずのアルフやサディアスは、未だしっかりと地に足がついているが。
それを横目に拗ねるヴィクターもしかし、それ以上の妬み僻みはなかった。自分にしかできないことを果たした、その満足感しかない。全ては、あの少女が変えたこと。
「サディアス、お前も……」
「勿論、お供させて頂きます」
「私も、いく……」
頷いたサディアスに続いたか細い声に、一瞬、アルフは目を丸くした。それが顔色の戻った、しかしまだ足元のおぼつかない義妹の声だと知って、眉を吊り上げる。
「馬鹿、駄目に決まってる。ヴィクターと一緒にいろ」
足手まといだと、言外に告げる。
だが返ってきたのは、いつも通りのまっすぐなその視線。おまけに、普段なら言わない続きの言葉までついてくる。いつもは鋭いようでぼうっとしている義妹が、そこまで能動的になるのは珍しいことだった。
「嫌、だ。ハティちゃんが、もし、危ない状態なら……私が、私しか、治せないから」
「それは……」
正論、だった。そしてどうしてか、アルフは素直に闇が晴れたこの状況を喜べない。それはまた、彼が鋭いと言われる魔法関連についてのことなのか、野生的勘か。ともかくも安心できる要素として、彼女に会ってすぐ治療できる状態は望ましいことだった。
何よりも、そこまで友人の身を案じているカレンに、これ以上駄目だとは言えなかった。
「分かった。無理は……」
「しない」
静かに頷いたアルフに、カレンは誰の手も借りずに一歩を踏み出した。向かう先には薄くなったとは言ったものの、未だに闇の影がある。そしてその先に――――彼女が、いる。
「地下室までなら案内できます。恐らくそこに……行きましょう」
足早に、サディアスが薄暗い廊下を突き進んでいく。疲労はある、だが止まっている場合ではない。
誰しもが、焦っていたのだ。疲れたカレンの歩幅に合わせられぬほど、何かに。だからこそ散漫で――――小さなことに気づけなかったというのも、ある。
「……聖女は、どこへいくんだ?」
虚ろな目をした生徒の何人かが、ドレスを翻すカレンの背を、何かに導かれるように追っていたことも。
薄暗い廊下を、サディアスを先頭にして進む。時たまカレンが未だ色濃い闇を払い、それ以外はもっぱら走るような状態で、彼らは進んでいた。
アルフの目は焦燥に光っている。自らが一度、訪れているという地下室。そこに近づけば近づくほど、意味も分からぬ恐怖がその身を襲っていた。それはなくなった記憶のせいなのか――――。
「……ここです」
「カレン、いける?」
「うん、大丈夫」
サディアスが指し示した入口は、未だ色濃い闇の中にあった。カレンは頷くと、そこに身を投げるようにして飛び込んだ。温かな光な反射すると共に、闇はその姿を消していく。
続いてアルフとサディアスが地下室へと続く扉を潜る。
無音。そして、カレンの発する光によって、徐々に空間を取り戻していく地下の一室。
僅かな物音もないその空間には、一人の少女が倒れ伏していた。
「ハティちゃん!」
駆け寄るカレンに続いて、二人が側に寄る。
白い髪、傷だらけの体、抜け落ちた表情。埃にまみれた床に転がっていたその少女こそ、三人の探していたハリエット・ベルそれだった。
カレンの小さな手がすぐさま胸元へと伸び、淡い光を放つ。頬や体に這っていた赤い線は消えてこそいくが、少女が目覚める気配はない。心配から手を伸ばしたアルフが、一応の「無事」を確認する。
「息はある。大丈夫だ、気を失っているだけ……」
空間に響いた安堵のため息は、誰のものだったか。その場にいる三人全ての心からの気持ちだった。
「失礼する、ハリエットさん」
ボロボロの衣服にサディアスが上着を掛け、そっと抱える。相変わらず意識はないが、布越しにでも伝わる暖かさが、少女の生を実感させた。顔にかかる髪を、カレンが微笑んでそっと撫で付けてやる。
なぜこんなことになっているのか、全てのことはこの少女が目覚めてからだ。三人は言葉もなく頷き合うと、薄暗い地下室に背を向ける。
「とりあえず、保健室に……」
「……アルフ?」
ふと、サディアスに抱えられた少女を見つめ、アルフが黙り込む。瞼の降りた彼女をじっと見つめるその顔は、無意識的に眉を寄せ、嫌悪を顕にしていた。そっと、手を伸ばすものの、少女を触るには至らない――――否、至れない。
『臭う』のだ。
いつか感じたことのある、どうしようもなく血生臭い悪臭の正体。それはいつしかほんのりと香る程度にまで落ちていたが、今この場に漂うそれは、アルフの知る程度から逸脱していた。
「……いや、なんでもない。急ごう、ハリエットが心配だ」
本人すら知らぬことではあるが――――それはアルフの「本能」が嗅ぎ分ける、一種の呪術への抵抗であった。
それを知らぬ三人は、ともかくも友人の無事を喜び、すぐさま地下室を後にした。抱えた少女を保健室のベッドへと寝かせ、予測不能な事態の収拾と、彼女の目覚めを待つ。
それと同時期に――――闇深く蔓延する地下室へと飛び込み、気を失った少女を抱えて戻ってきた三人を――――『聖女』の信者は、見ていた。度重なる闇魔法によるストレスと、顕現した聖女による救済を体験した彼らが、一つの短絡的な答えに結びつけてしまうのも、仕方のないことである。
そして、生徒は一転して暴徒と化した。
多大なストレスと、奇跡とも呼べる聖女の御業。集団による心理も合いまって、彼らは一部の言葉を半ば盲目的に信じ込んでしまった。
『地下室にいた少女こそが、この惨憺たる悪夢全ての原因である』と。
「……外は、どんな様子だ?」
「出てこない方がいいな。俺の言葉はおろか、カレン嬢の声すら届かん。下手をすれば、扉を守るお前やカルヴァートも危ない」
「そんなに、か……」
薬の匂いのする、質素な一室。柔らかいベッドに寝かされた少女は相変わらず目覚める気配はなく、ただ「外」の喧騒も知らぬままであるのは幸いであるかもしれなかった。アルフは、どこか空虚な少女の寝顔を見つめながら、扉越しのヴィクターの言葉を反芻する。
救出した少女に待っていたのは、闇の放出を止めた礼ではなく、その原因という謂れのない罪による断罪の声だった。
声を上げながら入ってこようとする数人の生徒を押し止めはしたものの、数十分の間にそれは大きく膨れ上がっていた。今ではグレンヴィル家やオルブライト家、ひいては『聖女』の光すら、彼らには届かない。
「闇に当てられ過ぎたのだろうな。恐怖そのものだった闇がなくなり、その原因の追求と排除に血眼になっている」
「ハリエットはあいつらを助けたのに!」
思わず大声で叫びを上げ、アルフは扉越しに目を伏せた。親しい友人は、扉の向こうで呆れた顔をしていることだろう。
しかし、自身の言い分が間違っているとは思わない。
全身を傷だらけにして、単身で闇を止めたであろう少女に、周りはこんなにも冷たいのだ。それも恐らくは――――家柄と、属性のせい。
「模擬戦の『愛人騒ぎ』で名前が売れたのが不味かった……。結果、ここにいるのがハリエット・ベルであることも、彼女が平民であることも、属性魔法を誰にも見せたことがないことも、知られてしまったらしい」
今では、『ハリエット・ベルは闇属性の魔女』として謗りを受けている。とヴィクターの声が続いた。
アルフは後ろを振り返り少女が目覚めていないことを確認すると、唇を噛んだ。握りこんだ手のひらに、爪が食い込む。
「……ビヴァリーのやつ……。まさか、この騒ぎに参加してはいないよな?」
「少なくとも、姿は見えないな」
ヴィクターの言葉に、とりあえずはと怒りを吐き出す。少女に脅し紛いの告白をした挙げ句、手のひらを返してこの騒ぎに乗じていれば、アルフは自制できた自身がない。身分を笠に着る行為が最も許されざることだと、相変わらず彼は思っている。
「ともかく、ハリエットが目覚めるか……闇の『毒』が抜けるまで、絶対に部屋へあいつらを入れないでほしい」
「分かっている。早いところ、この騒ぎを解決しなければならないな」
扉越しでは努めて平淡な声を出しているヴィクターも、実際はアルフと同じような格好で己の無力を嘆いていた。
何にも変えがたい恩人が、魔女と呼ばれ無実の罪で罵られる屈辱。無能な生徒に対する苛立ちは、闇魔法のせいか何倍にも増幅され、心の中で残忍な妄想が立ち代わり消えていく。それを抑え込み、ヴィクターは扉に背を向けた。
グレンヴィル家次期当主。こんなときでも――――こんなときだからこそ、自分にしかできないことは山ほどある。その責務を果たす時が来たのだ。ヴィクターは金髪を靡かせ、罵声と非難の飛び交う廊下へと戻っていった。
その一瞬、誰かとすれ違う。
「……?」
しかしその後ろ姿は生徒のものではなく、騒ぐ面々にあるような血気盛んな様子は見られない。萎れる寸前の花のような、もの悲しさを感じさせる、そんな雰囲気に相違なかった。
だが、ここまで来たということは、少なくともカレンやサディアスが通したということだ。もしかすると、少女の知り合いであるのかもしれない。
見知らぬ人物の向かう先に少し戸惑うものの、ますます大きくなっていく「断罪」の声に、ヴィクターは意識を切り替える。
すれ違った茶髪の男――――ニールは静かに、閉ざされた扉をノックした。