91 決着
わたしはじりじりと進みながら、目の前の男を睨み付けていた。
戦力は相も変わらず、こちらが劣勢。闇魔法によって絶賛体調不良中のわたしには、短剣と指輪一つの力しかない。背後には頼もしいのか頼もしくないのか、いまいちはっきりしない邪神を背負っているものの、戦闘能力はない。
片や敵の方はと言えば、経験も魔力も何もかもが上を行く狂った枢機卿。魔法に加えて、呪術なんていうものも使えるというおまけ付きだ。後ろには『稀代の魔術師』と名高いお姉さんも控えている。
「ムリゲー、マジ、ムリゲー」
「うわぁ目が死んでる。時間いっぱい粘ればクリアだと思えば、ワンチャンいけるよ!」
呑気なジンくんにやっぱり殺意。
確かに相手側には時間制限があるものの、その時間いっぱいというのがわたし単騎にはめちゃくちゃキツい。今日はすでにギータとの戦いで、魔力をいくらか使ってしまっているのもマイナスだ。
だが、さっきの短剣の傷はわりと深かった。
睨め付けたエルバードの足元には、ぱたぱたと血が散っている。背中というのがいまいち、致命傷にはならない部位ではあったが……仕方がない。これが今の精一杯だ。
「いやぁ、またしても驚いた。あれで無力化できると思ったんだけどねぇ。お嬢さん、きみは後ろに目があるのかい?」
「……どうでしょうね?」
浅くない傷を負ったというのに、エルバードはどこまでも飄々とした態度を崩さない。いっそ不気味といっていい笑顔を張り付けたまま、感心したように頷いている。
それにしても、「無力化」か。やっぱり、武器を出してこないことからも、エルバードはわたしを殺すつもりはないらしい。あの『薪』としての少女の代わりを、わたしにやらせるつもりか。
でも、その油断につけこめる。
「ハリエット、あのお姉さんは未だ動く気配はないよ」
背後のジンくんが目の届かないところまで教えてくれる。
ちらりと横目で確認すれば、お姉さんは捨てられた少女を介抱しているようだった。二対一になる心配は、ない。もしかしたら掩護射撃があるかもしれないが、そのときはジンくんが教えてくれるだろう。
教えてくれるだけだけど。
「安心するといい、マデレーンに手出しはさせないよ。この子はどうにも、きみに甘くていけない。邪魔になるからね」
ああそうですか。
それを聞いて、ますます目の前の男に憎しみが募る。お姉さんは優しかった。最初からそうだ。そんな優しいお姉さんに、あんなひどい顔をさせているのだから、エルバードは恨まれるに決まっている。自分はこんなに、わけの分からんことで楽しそうにしておいて。
短剣を逆手に構えて、エルバードに狙いを定める。
強化魔法で一気に走り寄ると、待っていたとばかりに両手を広げられる。さすがに三度目になると、読まれているか――――。
「出ろ!」
闇魔法を煙幕代わりに、エルバードの目線から逃れる。おまけに消失するよう効果をつけては見たものの、これも読まれていたらしく、すぐさま風によって霧散する。
でも、エルバードの目はわたしを見つけられない。
「おや……」
闇が出たその一瞬にすかさず指輪を使って、上へと昇る。
この指輪の弱点は、戦闘用ではないこと。もともとニールが移動用に使っていたものを貰い受けたのだから当然だけど、この指輪はどれだけ魔力を込めても、一定の速度以上は出ない。エルバードの目を掻い潜るには、何かワンクッションが必要なのだ。
そしてわたしが使える闇魔法の、唯一他に勝っているところ。それはどれだけ「種が人に知られていないか」。エルバードの使う風魔法とは真逆の、一番人が『知らない』魔法。
エルバードが上に目を向けるまで、僅かに数秒。
その間に絞り出すくらいの勢いで魔力を注ぎ、ありったけ生み出した闇のつぶてを、全弾エルバードの頭上にぶち込む。
「蜂の巣だぁ――――ッ!!!!」
わたしの声を受けて、一斉に飛び込んでいく闇。エルバードはすぐさま頭上に迫る闇を目視し、ローブを翻した――――。
だが。
「ッ、これは……!」
わたしの目線を追うように、闇は男の背を素早く追いかけていく。それと同時に拡がっていく闇。
わたしは、魔力の操作に関してはわりと優秀なのだと自負している。一度打ち出された魔法に新しく命令を下すのは天才にしかできないような至難の技だが、その軌道を変える魔法を随時打ち出して闇にぶつければ、可能なことだ。
闇のつぶてはわたしの生み出す闇を吸収し、その度に軌道修正を繰り返しながらエルバードを追う。
遥か頭上にいるわたしに魔法を繰り出そうにも、避けるので精一杯なようだ。まあ、闇魔法もわりかし殺傷能力高いからな。
エルバードはつぶてがそのローブに追い付きそうになるたび、風魔法によってそれを掻き消していた。
「これで、……時間稼ぎとしては、十分ですかね……」
「いやはや、若いのにここまでやるとは、驚いたなぁ。見たところ、凡才しか持ち合わせがないのかと思っていたが――――及第点、かな」
その言葉を聞いて、舌打ちが出る。
追い詰められても焦る気配すらない。きっとわたしの状態も見抜かれているというなら、この時間稼ぎは失敗だ。
エルバードはあくまでも冷静に、丁寧すぎるくらい一つずつ、闇を潰していく。動作に無駄はない。そんな余裕をわたしが作らせるはずはないのだから当然だが、エルバードの口は無駄に淀みなく動く。思考に余裕のある証拠だった。
「この魔法は、随時魔力を消費するようなものだろう? まったくもって、今のきみには重荷にしかならない魔法だ。運よく仲間が駆けつけてくれるのと、お嬢さんの魔力が切れるのと、どちらが先か……」
「おっさん、うるさいっつの!」
大幅に軌道修正をした闇の一つが、エルバードを挟み撃ちにする。一つは確実に命中して、男のローブの下の、肉を削いだ。それと引き換えになったのは、残り少ないわたしの魔力。今もごりごりと、大量に削られていくのが分かる。
「ハリエット! 下から来る。全部見てあげるから、ここだけに集中して」
「はいよっ」
二つの違う動きをさせるのは、魔力以外にも思考負担が大きい。その間を見計らって打ち出されたエルバードの風を、辛くも避ける。
いくらわたしが止まっているからといっても、この距離で、しかもあれだけの魔法に追われながら、正確に射ってくるとは。しかも、わたしの魔法にかかるコスト、その隙までバレている。
闇魔法最大のアドバンテージが、この男にはまるで意味がない。
「いやー、懐かしい。懐かしいねぇ。『昨日』もこうやって、向かい来るきみの同胞を散らしたものさ」
そうだ、この男はいくつもの闇属性の血を流してきたのだった。手の内は知られていて当然、か……。
「右下!」
「うおっ、と」
また来た。
避けたそれが散るのを確認して、今度はお返しに闇魔法を脇腹にぶち込んでやる。僅かに血が噴き出すのが確認できた。喜ぶべきだろうけど、見たくもない光景だ。
「今度は左下!」
またか。くそ、段々と頻度が短くなってきている。
それが何を意味するか、分からないわけない。見下ろしたエルバードはいっそ優雅に、ローブから血を滴らせながらも闇を消していく。目が、合う。
今の状況は、無傷のわたしと、いくつかの出血を伴う傷を負ったエルバード。間違いなくわたしが優勢のはずだが、それが限りなく脆い薄氷の上にあるものだと、双方が知っている。
時間稼ぎでは足りない。一手でたやすく引っくり返されるのは目に見えている。
――――覚悟を、決めるしか。
何よりも、魔力量の勝負では勝ち目がないのだ。
「その気になってくれたかい? 期待通りのお嬢さんだ」
「……くそ野郎」
何もかも見透かしたように言うエルバードの前に、ゆっくりと降り立つ。闇魔法は追撃させることを止め、男の好きなようにさせる。
近くで見ると、エルバードの傷は思っていたよりも深刻なものだった。背中の傷は分厚いローブに防がれたようだが、他のは闇魔法に寄って消失したもの。抉りとられたような傷からは、鮮血が迸っていた。
「これを見ても眉一つ動かさないんだね」
「お嬢さん、じゃないですから」
気分のいいものではないけど、血は王都で慣れた。
わたしは再び短剣を構えて、利き脚を前に出す。無傷の小娘と、武器を持たない満身創痍のおっさん。さて、さっきの攻防でわたしの勝ち目はどれくらい増えたのか。
「初めから、時間稼ぎなんて嘘なんだろう? 私を仕留めるつもりだ。じわじわと嬲ってから、短剣で」
「時間稼ぎで終われるなら、それでよかったんですけどね。駄目ならもう、心中するつもりで」
何が面白いのか、エルバードは嬉しそうに笑う。わたしだってこんないかれたおっさんと心中はごめんだが、一番リスキーな方法しか残っていないんだから、仕方ない。
「じゃ、行きます」
相手の言葉はもう聞かない。
わたしが狙うのは、エルバードただ一人。体勢を低く構えて、魔力を犠牲に走る。
耳元で、うるさいくらいに風が鳴っていた。避けきれないものは頬を、髪を、服を切り刻んでいくけれど、致命的なところにまでは当たらない。
――――わたしには神様がついてる。
神様の声がする。
その言葉通りに動いて、動いて、致命傷を避けながら前進していく。いちいち目で追っていたらきりがない。わたしはいつだって、突っ込んでの短期決戦型だ。
「らぁあぁああ――――っ!!」
「ああ、楽しいなぁ!」
あと一歩、そこで完全にガス欠。これ以上魔力を出せば、きっと戦えなくなる。
落ちるスピードに、エルバードの微笑みがついてくる。かざした短剣。それを脅威とも思わない様子で、目前に迫った男の手のひら。――――そしてわたしの、左手。
エルバードの顔面目掛けて放った最後の闇魔法は、僅かにやつの目を潰した。
「くっ……?!」
身を滑らせ逆手の短剣を回して、未だ動かないエルバードの体に降り下ろす。
「もらっ――――」
「駄目だ、ハリエット!! ……近すぎる!」
響いたのは、初めて聞くほどに焦りを含んだジンくんの声。こんなときなのに、場違いにも嬉しさを感じるわたしがいた。
けれども直感的に、わたしが負けたのだと、分かる。
腹に熱い何かを感じて、感じた瞬間に足から力が抜けた。
エルバードの左手。大きく広げていたそれが、わたしの胴体を絡め取っていた。
「目潰しとはこれまた。……だが、私が風魔法をただばらまいているだけだと思っていたのは、いただけないね」
ああ……やられた。彼が火や雷属性であれば、間違いなくわたしの勝ちだったのに。風や水なら、辺りの気配を探る魔法もあるはずだ。
全身の、立っていられないほどの倦怠感。これが強化魔法の後遺症か、魔力の枯渇か、それともエルバードが何かしたのか、確かめる術はもう、ない。
腹の熱さはますます酷くなり、それは体全体に拡がっていく。不思議と痛みがないせいで、エルバードの「無力化」という言葉が頭を過った。
「さあ、仕上げだ。きみの精神を封じさせてもらおう」
「なに……」
「喋らなくともいい。今の疲弊した状態が一番、やりやすい。さあ、ゆっくりおやすみ」
顎を掴まれ、頭を上げさせられる。目前にあるエルバードの顔は、能面のようになんの感情も写してはいなかった。
……魔力が底を尽きたせいだろうか。前世の悪夢が、鮮やかなモノクロで再生されていく。やだな、変になりそう。思い出しそうだ、色々と。
普通の人間だった。限りなく普通の、誰の目にも止まらないような。でも本当のことをいうと、まるで自分だけがこの世界で生きているような、他はみんなロボットか何かなんじゃないかなんて、そんな気持ちの悪さが、わたしの胸には常にあった。
変になりそうだ。
走馬灯のように、記憶が逆流する。『■■■さん――――興味ないでしょ? この話』そんなことないですよ。「大人はいつ遊んでるの」「将来の夢は?」そういえばゆーくんは、唯一普通に話せる人だったな。ああ、小学生の頃、インフルエンザになった。その時にわたしは、『わたし』の弊害に気づいてしまった。いろんなことが――――頭を回って――――。
撫でられるように、額を触られる。
たった、それだけ。それだけだった。