90 答え合わせ
神父だと思っていたおっさん――――そして、幼い頃に一度、道案内をしてくれたことのあるその人が、全ての元凶だった。
わたしは激しい動悸を堪えて汗を拭うが、目の前の彼は飄々とした笑顔を崩さない。こんな場所でなければ、古本屋で会ったときのように、気軽な会話でも弾ませてしまいそうだ。恐らく、どこまでも、この男には悪意がない。
「マデレーン、『それ』は――――」
エルバードに、それ、と何気なく指差されたのは見知らぬ少女。
「……もう、魔力が残っていないようです」
「そうかぁ」
悪意のないままエルバードは、お姉さんの抱えた少女に歩み寄る。そして気を失っていることを確かめると、少女を腕から奪い取り、ごみのように床に放り捨てた。鈍い音がして、それでもぴくりとも動かない痩躯。
「……ッ!?」
「動くな、マデレーン。闇属性を切り捨てても、学園を守りたいのだろう? 目を瞑り、従順な姪でいてくれ」
お姉さんの微かな悲鳴、けれどもエルバードが振り向くと、お姉さんは伸ばした手を引っ込めて唇を噛む。
「さて、これで何人になるかな?」
「……最後です。もうこれ以上は、闇属性の子はいませんわ」
「おや? しまった、無駄遣いしすぎたか……」
その会話で理解した。
学園の闇は、目の前の男が生み出していたものではないということ。お姉さんでもない。このごみのように捨てられた、名前も知らない少女がそれなのだ。
それはどこか、ゲームのハリエットに重なる。
少女だけじゃない、きっと、礼拝堂でのそれも合わせれば、もっとたくさん。
「……王都で、捕まえた人たちですね」
目の前の男は『枢機卿』。 それがどんな役職なのかは知らないが、教会の偉い人だというくらいは分かる。数年前、わたしとニールが王都から逃げるように帰ってきた理由は、信者が魔視を連れて、王都を探っていたから。
ピースが合わされば、答えは見つかる。
闇属性を見つけて何がしたかったのか。
エルバードは足元の少女には目もくれず、大袈裟に拍手をした。
「正解だよ。元々は学園に匿われているきみを見つけようとしていたんだが、どうやら飼い犬に手を噛まれたみたいでね、ここにはいないという。それじゃあと、いざ王都へ行ってみれば、そこでも逃げられた。参ったよ、お陰で彼女には久しぶりに折檻する羽目になった」
お姉さんは、わたしたちを逃がそうとしてくれていたのか。エルバードの言葉に思わずお姉さんの方を見たが、彼女は俯いたままだった。
考えてみれば――――昔、わたしがいびられたあの『信者』だった教師。あれはエルバードが忍ばせた目だったのでは。だってそれ以外、お姉さんの学園に信者がいた意味がわからない。
それでお姉さんはわたしたちを王都へと逃がし、追手が来るのを予見して逃走経路を用意していた。ニールは用意周到なお姉さんを疑っていたけれど、つまりお姉さんはエルバードの言う「折檻」を受けてまで、わたしたちを助けてくれていたのだ。
「二度も逃げられれば、神の意思でもあるのかと思ってね。計画を変えたが……いやはやでも、きみが今ここに来てくれてよかった。お陰で『薪』には困らないよ」
「わたしは燃えませんよ」
「いいや、燃えるさ。人間なんてあっという間に火だるまになるんだ。お嬢さんは見たことがあるかい? 髪に火がつくともう、炎が全身に襲い掛かるんだ。その時のあの臭いと、燃え盛る人が狂ったように転がり回る様子は……ああ昨日のことのように思い出せるよ!!」
興奮したような口調と共に、拍手が大きく響き渡る。目の前にそんな情景が思い浮かんでいるのか、エルバードは幸せそうな笑みをしていた。
ゾッとするね。
「まあ、比喩というやつでね。お嬢さんを燃やすつもりはない。さっきの『あれ』の続きをしてくれれば、それで――――」
「わ、わたしは貴方を止めに来たんです! 闇を――――これ以上は、仲間を苦しめさせるわけにはいきません」
まさかここで、お姉さんと黒幕の二人に会うとは思っていなかったが……。冷や汗と体の震えをなんとか隠して、エルバードを睨み付ける。お姉さんは敵に回るのか分からないものの、少なくとも味方と考えるのは甘い。
となれば、どう考えても戦力不足だ。
わたしは必死に口を動かす。それしかできることがない。時間が惜しいと言うのに、わたしができるのは無意味な引き延ばしだけ。
「とりあえず、答え合わせをさせてくれませんか? 色々と聞きたいことも、個人的にはあるので」
果たしてエルバードは、感じた通り談話が好きなようで、わたしの話をすぐさま蹴ることはなかった。にこやかな顔でわたしの話を待っている彼に、じりじりと近づきながら考える。
「まず、貴方とニールのことです」
「ああ、あの青年のこと。よく覚えているとも。何が聞きたいんだい?」
「……貴方は、ニールに何をした?」
それは、一番に黒幕の口から聞きたかったことだった。すでに失われたはずの呪術を使いこなす男。それから語られることで、新たに分かることもある。
つくづく、エルバードが話好きでよかった。わたしの首はまだ繋がったまま、彼の優しい声に導かれる。
「彼はきみに言わなかったのかい? 彼の時と私の時を、繋げて封じただけさ。お陰でおじさんはこの通り、もうちょっと若い姿であればなお、よかったんだけどねぇ」
「自らを呪ったと?」
「呪術は『封じる力』だ。何も悪いものでもないさ」
飄々と彼は嘯く。同じ条件で時が止まっても、ニールとエルバードにはこんなにも差がある。同じ血の海を『昨日』見たはずなのに、こんなにも。
有り体に言えば、エルバードは狂っている。……身に覚えのあるかたちで。
沈黙が落ちることのないよう、わたしは続けて言葉を返す。
「じゃあ、アルフは」
「アルフ?」
「赤い髪の、わたしと同じくらいの歳の子です。今から何年か前に、とある記憶だけを失った。地下室の異変に気づいた直後……」
「ああ! 知っているとも!」
彼は、「知っている」と言った。小さなニュアンスの違いでも、それは大きく響く。
昨日のことは覚えていても、過去に起こったことは記憶にしかならない。ニールの言った通りの、呪術にかかったままの状態だ。
わたしはじりじりとまた、少しだけエルバードに近づく。
「彼は処分するには目立ちすぎる。丁度、この地下室を強く思い描かせた瞬間に、記憶を封じさせてもらった。まあ少し、雑念が混ざっていても仕方ないね」
……アルフは、危機を感じたその時に、わたしを思い浮かべてくれたのだろうか。だからこそ、わたしの記憶と地下室のそれだけが、あいつの頭から抜けている。
……馬鹿だなぁ、くそ。
わたしは大股でエルバードに近づいて、そのにやけ面を見上げてやる。
手にはいつもの短剣、指輪もある。頭に思い浮かべるのは、待っている人、わたしの好きな人たち。
「では、最後です。貴方は何を――――何をしたいんですか?」
見上げたエルバードの顔が、これ以上ないほどに嬉しげに笑う。
口を開いたのを見計らって、わたしが短剣を振り上げるのと――――エルバードが手のひらをかざすのとは同時だった。
「それを! 分かる人間と出会いたいものだねぇ!」
一瞬の、波。
至近距離で放たれたそれは、わたしの体を軽々と吹き飛ばすほどの、大きな風だった。
また風属性かよ!
「っ、!」
反射的に流した魔力はどこをどう流れたのか。意識しないまま、わたしの腕にはめられた黄金の輪が、いくつもの風となってそれを打ち消した。
それでも反動で転がり落ちて、埃っぽい床に背を打ち付ける。
「が……っ!」
「魔石を利用した魔術具か。そんなものもあったね。魔石に闇魔法を入れて流すと、魔物はどうなるか。暴れて、馬は逃げてしまうんだけど……魔物は怒りで我を忘れて、恐怖対象を排除しようとしてくるんだ。お嬢さんは知っていたかい?」
わたしに刃を向けられてもなお、エルバードの喋りは止まらず、笑い顔もそのままだ。
言っていることはあれか、森であったあの事件……馬が逃げるっているのは、礼拝堂でか? 埃混じりの唾を吐き出して、頭を振る。そんなこと、今はどうでもいい。答え合わせの時間は終わっているのだから。
震える足を叱咤して立ち上がる。腕輪は――――あと何回残ってる? 魔物を倒すのに数回使って、ギータに一回、ここで一回だ。もう使えないかもしれないな。
「……知ってますよ。何年も前にそんなこともありましたから。古傷でも見ますか?」
「それはそれは。お嬢さんが無闇に肌を晒すものではないよ」
なんて紳士的なことを言いながら、無遠慮に伸びてくる腕を避ける。
地下室は無意味にだだっ広い空間のようだが、それでもこの男を相手に一方的な戦闘は望めない。
ただ、わたしがこうして時間を稼いでいる間、哀れな少女が再び闇を形作ることはない。闇の放出が止まっている間に、カレンちゃんが浄化して二強が駆け付けてくれればいいが。
「それは、夢見すぎ……かなっ!」
一瞬の身体強化で、エルバードの足元に飛び込む。僅かに太ももに刃を立てた状態で、容赦のない蹴りを食らいそうになり、指輪で回避する。
駄目だ、大した傷にはならない。元々短剣はそういう目的のために、もらったものじゃないのだ。
「震えているよ、大丈夫かい?」
「うる……さい、な……っ」
「息も上がっている。汗も酷い。どうやら闇魔法の効果は、まだ残っているようだね」
さっきから、嫌に気怠いのはそのせいだったか。
不利なのがさらに不利になっただけなので、特に思うところはない。今のわたしは夢見すぎでもなんでもいいから、時間を稼ぐことを第一に考えなくてはならないのだ。
短剣を構え直したわたしに、エルバードは少し同情したような顔を作る。
「魔法は使わないんだね。お嬢さんの『仲間』を苦しませるものだから?」
「……ここで使えば、貴方の思うつぼでしょうが」
「そんなことはないよ。闇魔法を広げるためにはね、魔石を体に付けてもらわなければならないから。か弱いお嬢さん一人の魔力で、学園は満たせないんだよ」
「ああ、そう……」
どうでもいい。心底どうでもいい。
もう考えるより先に、目の前の男をどうすれば倒せるのか、それしか見えない。
風属性との戦い方は、ギータとユリエルとで一応経験しているものの、圧倒的に経験が違う。わたしじゃなくて、ギータたちとエルバードの。魔力消費の激しいはずの文字通り大きな魔法を、ぼんと打ち出してしまえるのだから、多分魔力量も多いはずだ。
何よりその魔法は容赦の欠片もなく、どことなくニールに似ているのが腹が立つ。
「この――――くそぉッ!」
ありったけ魔力を組み込んだ強化魔法で速度を上げ、エルバードに走る。彼は穏やかな顔のまま、わたしの姿を目で追っている。これでも振りほどけないのか。
なら、仕方ない。
ケチらず魔力を放出して、闇を辺りに撒き散らす。わたしとエルバードの周辺にのみ現れた闇に、ようやく彼の顔色が変わった。目を見開く。
「素晴らしい!」
「……そんな反応を、期待してたんじゃないんだけど!」
背後からの一撃。
いくら刃渡りが小さかろうと、強化魔法でそこまで強化すれば、煉瓦でさえも突き刺せる。昔、オズに教わったことだ。
ぶすりと肉を割る独特の手応えを感じて、わたしは笑ってしまった。
「ハリエット! 右から反撃だ!」
「ぐっ……!?」
「おや、避けられた?」
聞こえた声に反射的に体を縮こまらせ、なんとか難を逃れた。完全に不意打ちだったためか、避けたわたしに、今度こそエルバードは困惑を露にした。
声はわたしにしか聞こえない。
いつもいつも神経を逆撫でしてくるガキだと思っていたが、肝心なところではいつも助けてくれていた。
「遅いよ、ジンくん」
「えー、助けてあげたんだから、一言目は感謝にしてよね」
もう聞き飽きたくらいの、不思議な声の主。
この世ならざる邪神は、闇の中で白く浮遊しながら、チェシャ猫のように笑っていた。