89 フラグ
……しまった、どうやらわたしにも、既に幻聴の類いが始まっていたらしい。そんなに深刻な状況にまで追い込まれているとは、思わなかった。
上目遣いにこちらを見てくるニールに、わたしはにっこりと笑みを返した。
「なんて?」
「ふざけんなクソガキが!」
そう、そこまで顔を真っ赤にして怒らなくても……いや、まさか。まさか、照れているのだとか、そんなわけあるまい。
だってさっきのは、わたしの都合のいい幻聴だし? ああ、つまり幻覚まで出始めたということ? ニールのことを心配している場合じゃなかった。とうとうやばいか。
「ああ……クソッ、だから……! 言いたくなかったんだ!」
ニールは悪かった顔色を朱色へと一転させて、ボサボサの髪をさらに掻き乱す。具合の悪そうな顔のまま、しかし間違いなく照れるという器用な反応だ。
その反応に、まさか、なんて期待してしまうわたしの顔も、多分赤い。
「な、なんで?」
「なんで……だと?」
「い、いや。あれ? えーと……」
だって、わたしだよ? それを、ニールが?
無意味な言葉しか投げ掛けられないわたしに、眉を寄せる。ニールは一呼吸入れて気を落ち着けると、膝を抱えたままぼそりと言った。
「……分かってんだよ、俺が頭おかしいってことはよォ。何十年も生きてきて、乳臭ェガキの頃から知ってるテメェを、……なんて、どうかしちまってる。距離を置いてみても治まんねー、嫌んなるね」
言いながら納得したのか、ニールは自嘲に唇を歪めた。
えーと、ニールは変わらない姿で何年も生きている。つまるところ実年齢は、見た目より遥かに上だということだ。中身の時も留められていたから、性格がおじいちゃんになることはないけど、ということだったっけ。
そしてわたしと出会って、その、好きに? なったって?
「つまりロリコ……」
「はぁ?」
「なんでもないです」
ドスの効いた声で聞き返されて、慌てて口を閉じる。
確かに、ニールからすればわたしは年端もいかない小娘にあたる。しかも幼少からの仲というおまけ付きで、過ごした年月は親よりも長く親らしい。もし本当に、ニールがわたしを好きだと言うのなら、確かに気になるところかもしれない。
でも、わたしは『わたし』だ。
ある意味でニールと同じような状態のわたしであれば、なんの問題もないような気がする。
……ああいや、別にニールがわたしを好きだなんてそんな、あ、あり得ない話を信じたわけじゃないけど。だって、ニールは『過去が昨日』のままなのだ。体も中身も成長しない。そういう呪いだったはず。
「ほんとに、わたしのこと好きなの?」
だからかつい、そんな問い詰めるような質問をしてしまったのかもしれない。
ニールは頬を膝にくっつけて、目を閉じていた。
「信じられねェってか? ハッ、別にいいけどよォ。俺だって信じらんねー。こんなちんちくりんなクソガキが、誰かのものになると思うと、耐えられないなんて馬鹿なことが俺にあるなんて」
「お、おう」
「テメェが誰彼構わずたぶらすから悪ィんだよ。坊ちゃんに、大男に、白髪の妙な野郎……ふざけんな、そのせいで俺がこんだけ馬鹿みたいな気持ちを抱くことになったんだぜ?」
「う、うん……」
自棄になったのかなんなのか、ニールの口からはっきり出たそんな言葉に、ますます顔が熱くなる。
でも、嬉しい。
それが確かなら、ニールは一部だけでも呪術の『解除』に成功していることになる。
そうだ、ニールはわたしの見てきた中でも、確かに変わった。ゲームのままでもなく、孤独なままでもなく、人に手を差し伸べられるような人間に。呪術に『留められた』ままのニールじゃない。
もともと、呪術は何かを封じる力。闇魔法のように、消し去るものじゃない。なくならない限り、人にはそれを取り戻せる力がある。アルフがわたしの歌で何かを思い出せたように、意思の力は時に何もかもを上回ることが、あるのだ。
だとしたら、わたしはこの上ないほど嬉しい。
ニールがわたしを好きだと言ったことよりも、ニールに掛けられた凄惨な呪術を上回れるだけの想いを、わたしに抱いてくれたということが。
自惚れていいなら、ニールは呪術を打ち破るほどに、わたしとの時間に感じるものがあったのだ。
それはわたしが『わたし』でなければできなかったこと。わたしの生まれた意味。
今この場にいないジンくんにわたしが生まれた意味を聞けば、きっと今日この日のためだと答えてくれる、そう思えるほどの歓喜だった。
「ニール」
「……んだよ。分かってんだよ、こんな、気持ちは……気色悪ィ戯言だって……」
「ニール、」
膝に顔を埋めた彼の肩に、触れる。
なだめるように数回さすると、ニールはのろのろと顔を上げ、不安げな紫の瞳を晒した。視界の端にはきっと今も、死した仲間たちの屍とやらがいるのだろうか。それに怯えているのだろうか。
可哀想なその頬を撫でて、顔を寄せる。
「……じゃ、ニールはここで待ってて」
立ち上がって、なるべく振り向かないよう扉へ向かう。今、わたしはどんな顔をしているのか、自分のことなのにさっぱり分からない。
「……は」
背後で間抜けな声がする。
けれどもその声の主の頬は冷たく、脂汗に濡れていた。未だその視に闇が迫っていることに変わりはないのだ。わたしはこの学園を、ニールを救いたい。
張られたままの結界を確認して、扉に手を掛ける。ここを出ればまた、あの煮詰めたような暗闇の中を進んでいかねばならない。
「お、おい……ハリエット……」
背後で情けない声がする。
みっともなく震えて、掠れて、なぜか機嫌を窺うような少し甘く作った声。
わたしはこの場にふさわしくない笑い声を上げそうになって、とっさに咳払いをした。
「こ、告白、ありがとうニールくん! でもあれだ、今は先を急がなくてはならない。だ、だからわたしの気持ちは、帰ったら伝えるね」
あれ、これなんかまずい感じのフラグじゃね?
焦りすぎて妙なことを口走ってしまったものの、振り向かずにやり過ごすことはできた。これ以上ニールの追及があれば逃れられる自信がないので、手早く扉を開ける。
「待て、クソ、お前だけで行かせるか……」
「いいよ。――――辛いことを思い出す必要なんか、ないんだよ。逃げたって誰も責めたりしない。それでいいんだよ」
立ち上がるのさえ難しいニールの前で、わたしはいつかの言葉を投げ掛けた。覚えているのかは分からないけど、彼がわたしにくれたものの一つだ。
息を飲む気配がする。それでいい。わたしにとってニールは、好きとか嫌いとか、かっこいいとかそういうのだけじゃない。永遠とも言えるような時間を、辛い気持ちで、ずっと辛い気持ちで過ごしてきた彼を、守りたい。
……なんか、我ながら健気すぎて恥ずかしくなってきた。さっきの感覚を思い出してしまって、一気に顔から火が出そうな気分になる。
「それに、ニールと顔合わせるの、ちょっと恥ずかしいし――――まあ、わたしの気持ちはもう、分かっちゃったと思うけどさ」
一瞬、振り向いた先のニールは、自分の口元を覆って呆然としていた。改めて自分がしたことの恥ずかしさを再認識して、慌てて闇の中へ逃げ込む。
ああ、やっちゃった。わたしは何をしているんだろう。
薄くて冷たくて、ちょっとかさついたその感触に、指を重ねる。目の前は何も見えなくて、そうするとさっき覗き込んだ紫の虹彩を思い出す。
「うわぁ……うわぁ」
手を当てた頬っぺたが熱い。こんなことしている場合じゃないって言うのに、もう……あれだ。いっそ爆発したい。
わたしは頬に当てていた手で、ばちんと勢いよく気合を入れた。さっきまでのむず痒い雰囲気を霧散させて、目を開く。何も見えない、けれど大丈夫だ。
闇魔法を止める。そして、またカレンちゃんに、ニールに、この学園で会おう。
「……よし、行くぞ」
片手を壁に寄せ、一歩を踏み出した。幸せな未来のために。
足元のおぼつかなさからゆっくりとなってしまったが、ようやく地下への入口を見つけることができた。
床下収納っぽいそれは、大きく口を開けて侵入者を待っている。いや、闇を吐き出し続けているんだろう。やっぱり、ここで間違いはなさそうだ。
わたしは手探りで入口に足を突っ込むと、そのまま床に着地した。どうやら、ここから階段になっているらしい。踏み外さないよう慎重に、慎重に降りていく。
響く靴の音が、心音と重なって大きく聞こえる。いつの間にか潜めていた呼吸は、荒々しく耳障りなほどになっていた。
「はあ……はあ……くそ……」
おかしいな。なんだって、階段くらいでこうも息が上がるのか。子供の頃ならまだしも、最近は体力もそこそこついてきたというのに。
思いながら一歩踏み出せば、予想に反してそこに段差はなかった。どうやらここが階段の終わり、地下室の始まりらしい。
上下する肩を抑えて、息を殺す。
塗り潰された視界の中に、誰かが立っているのが見えた。
わたしより少し小さいくらいの、女の子?
「あ……」
わたしが寄るよりも先に、その人影がふらりと倒れる。まるで糸が切れた人形のように、唐突に。
半ば無意識的に足を早めたわたしに、次に襲いかかったのは大きな一陣の風だった。
「う――――!?」
顔を腕で覆い、細めた視野に見えたのは、風によって晴れる視界。それは闇が吹き飛ばされたというよりは、打ち消されたような光景だった。
瞬きの間に、視界が晴れる。
地下室は広々と、しかしなお薄暗く、四隅の壁は確認できないほどだった。その中心に立っていたのは、先程の少女ではなく――――その少女を腕に抱いた、お姉さんの姿。
「マデレーン様……?」
「来てしまったのね……ハリエットさん」
お姉さんはこちらに目をやらず、抱き締めた見知らぬ少女の髪を撫でていた。その顔はいつにもまして悲しげで、今にも自ら死を選びそうなように見えた。いくらか痩けた頬を髪で隠して、お姉さんはようやくこっちへ向く。
まさか、犯人はお姉さんと、その少女? ニールの言うことは全て、間違いだったのか?
首を振る。戦慄く唇で、それでもはっきり告げる。
「違う、犯人はお姉さんなわけ――――」
その時、お姉さんの背後からこつこつと、誰かの足音が聞こえてきた。
一瞬、わたしは安堵する。お姉さんが犯人ではない。この場で気を失っている少女でもなく、主犯は他にいるはずなのだ。
それと反比例して、お姉さんの顔が絶望に強張った。
こつこつ、こつ。お姉さんのすぐ後ろで止まった足音の代わりに、その人の存在を知らせる声がする。
「やあ、遅かったじゃないか」
それは場違いに朗らかな――――落ち着いた――――優しい――――聞き覚えのある、声だった。
深みのあるその声は、わたしの脳髄をガツンと殴って揺さぶった。『またね、お嬢さん』、その声が何度も、何度も、脳内を駆け回る。古い記憶、まだ記憶を傘に斜に構えた、憎たらしい子供だった頃まで。
なぜ、今、こんなたわいのない記憶を思い出したのか。考える前に、口は勝手に言葉を吐き出す。なんてことはない、細やかで誰の記憶にも残らない、僅かな邂逅を。
「……エル、バード、さん」
「ははは! 覚えていてくれたのかい! 嬉しいなぁ!」
一層明るく、腕を広げた彼は――――目尻に皺を作って、優しく微笑んだ。
愕然とするわたしと、顔を伏せたお姉さんを置き去りに、彼は重たいローブをはためかせ躍り出る。人の良さそうな、嫌な感じのまるでしない、その辺のおっさんのような雰囲気で。
飲まれる。
「まさか覚えていてくれるとは思っていなかったよ」
「い、今思い出しましたから……」
「へえ。どうして今なんだろう。人はつくづく、不思議だよね。予想を超えることばかり起こしてくれる」
にこやかに話しかけてくる彼に合わせて、愛想笑いでも作ってしまいそうになる。けれども、違う。決定的に違う。彼にはこの状況に対する、なんの危機感もない。
身構えるわたしにも構わず、彼は優雅に一礼をすると、お姉さんの横に並んだ。
くすんだ黄緑の髪、同じ色の瞳。重たげな黒いローブを身につけて、人生経験を表すように刻まれた顔の皺。
どうして、気づかなかったんだろう。
「紹介しよう! 彼女はマデレーン・ウォルノス。そして私が、枢機卿エルバード・ウォルノスだよ。よろしくね、お嬢さん」
ウォルノス、はお姉さんの姓だ。本で読んだことがあったのに、礼拝堂で会った時には結び付かなかった。それだけじゃない、彼とはずっと昔に会ったことがあったのに。
教会まで案内してくれたおっさん。そしてその場で、「またね」と告げた意味。その時から、全く変わらない姿形。
ニールの言う男は、エルバード・ウォルノスその人で間違いはなかった。