87 繋ぐ
わたしはニールに向き直って、その青白い顔を見つめる。
もし彼が、それでも、学園内にいることが嫌だというのなら。闇属性の迫害をも厭わないと言うのなら――――わたしはまた、ニールと一緒に旅に出てもいいと思った。違う国に行くのもいい、もう二度と家族にも友人にも会えないとしても、そういう生き方もある。
ニールは少しの間、本人にとっては長い間だろうが、黙りを続けていた。
「……分かったことがある」
しばらくしてニールから出た言葉は、唐突に始まった。
もう不機嫌さを見せなくなった彼は代わりに、耐えがたい恐怖に襲われているようでもあった。くしゃりと前髪を握って、その不安げな顔を隠そうとしている。にやりと口元だけ笑っているそれが、痛々しい。
「こいつを引き起こした犯人は、闇属性を貶めることが目的じゃねェ。目的は、この俺だ。この騒動も端から、ここにいる俺に向かって突き付けられたナイフだったんだよ」
犯人とニールは顔見知りだ。だから、闇属性が決して逃げられないよう、闇属性を再び虐げるような真似をした?
ニール一人に、ここまで大きなことを起こすのか? そんなことが本当にあり得るの? ニールの被害妄想ではないのか。だけど、ニールはそれを疑ってもいないようだった。
「……やってやるさ……俺にできねェと思っていやがるなら、マジでお笑い草だぜ……」
そう呟きながら、座った目で見つめる先はどこか遠く。明らかに顔色の悪い彼を、わたしはどうすることもできない。
思わず、空いていたニールの左手を握り締めた。冷たい手は震えていて、けれども振り払われることもない。その手を引いたまま、わたしたちは思い足取りで校舎へと向かう。
「行こう、ニール」
「……ああ、アイツの思い通りにゃさせねェ」
ふらふらと頼りない足取りで、わたしに引きずられるようにしてついてくるニール。相変わらず、顔色は悪い。
辿り着いた校舎には傍目にも分かるほど、大きな結界が張られてあった。それを難なく抜けて、校舎の昇降口付近へと辿り着く。
ごった返した人達は、不安げな表情を隠しもしない。地べたに座り込んで泣いている人間や、恐怖のあまり怒鳴り散らしている生徒。集団ヒステリーじみた光景だった。
そんな中、見知った顔を見つけようと進んでいくと、そこに一つ大きな人集りが見えた。
「カレンちゃん!」
小柄な少女の姿は見えないものの、わたしには確信があった。その通りに、近づくと見知った赤髪が人の波を掻き分けてくる。
「ハリエット」
「アルフ! カレンちゃんは……」
人混みの中でもアルフの目立ちようは相当なものらしく、誰にぶつかられることもなく中心へと進んでいく。それでもその足は止まることがなく、顔には隠された苛立ちが浮かんでいた。
周りを見渡す。ニールはさすがにここまで入る気はないらしく、白い壁にもたれ掛かっている。側にいる人たちは、涙を堪え震えている者がほとんどだ。
座り込んで悲壮も顕にしている生徒たち。その目はずっと、人集りの中心に向けられている。
やっと人集りの中心にやってきたわたしは、その真ん中で座り込んでいる一人の少女に目をやった。華奢な背中は、いつもより何倍も小さく見える。
「カレン、連れてきたよ」
「あ……ハティちゃん……!」
わたしに気づいたカレンちゃんは、その真っ白い顔をゆっくりと上げた。今朝よりも体調が芳しくないことは明白だった。
カレンちゃんは握っていた見知らぬ男子生徒の手を離し、よろよろと起き上がると、差し出されたアルフの手に掴まった。もはや自分一人で立てもしないのだと思うと、血の気が引いていく。
カレンちゃんは、わたしが考えるよりもよっぽど不味い状態にあるのではないか。
「よかった……逃げて、こられたんだ、ハティちゃん……」
その言葉はきっと、わたしが闇属性であるせい。万が一にもわたしがこの事件の原因であると断定されてしまう可能性を、彼女は心配してくれていた。
けれどわたしは、そんなことよりも衰弱したカレンちゃんの様子が気になる。今朝は大方回復に向かっていたはずなのに。
「うん、でも……カレンちゃん、体が……どうしたの?」
「……光魔法で、闇の浄化を……」
そう言った彼女は、大きな黄色い瞳を天井に向けた。玄関に繋がる広い廊下は、天井もかなり高い。そこを同じように見つめれば、しっかりと蠢く闇の姿を捉えることができた。
この校舎には、きちんと結界が張られていたはずだ。それなのに、校舎には既に闇が蔓延っている。今はまだ薄いように思うが、それはカレンちゃんが消しているからなのか、結界の効果なのか分からない。
じっと見つめていると、その闇はますます濃度を増していくようにも思えた。
「ずっと、ここで光魔法を?」
「もう、ずっとそうしている。このまま闇が続けば、彼女の魔力がもたない」
答えたのはカレンちゃんではなくて、低い男の声だった。人混みをその目線だけで掻き分け、伸びた背筋で寄ってきたのは、サディアス。アルフの隣に着いた彼は、鋭い目を痛ましそうにカレンちゃんに向けた。
それは不味いことにほかならなかった。一時的な魔力の枯渇は人の体を虚弱にするが、それが続けば命の保証もない。この世界では、魔力は人の体に流れる血液と同じなのだから。
しかも最悪なことに、サディアスの証言が本当であるなら、彼女の行動はあまり意味がない。
「ずっと……ってことは、駄目だね。結界の意味がないってことだ」
「どういうこと?」
真剣な目をするアルフに、囁くため身を寄せる。こんな人の多い場所で、無闇に不安を煽るような真似はしたくなかった。ここに群がる生徒のためじゃない、カレンちゃんの負担になるから。
「この闇は、校舎の中から沸き出している。そこまで量があるわけじゃないけど、ジリ貧なのはこっち。カレンちゃんが倒れたら……」
きっとこの生徒たちは絶望感に駈られ、仕舞いには自らの命を断ちかねない。そこまでの威力が闇魔法にあるのかは疑問だが、わたしには何故か分かる気がした。
アルフたちも周りの惨状を見て理解したのだろう、一瞬言葉を失う。
「そんな……」
アルフの顔色が悪くなる。カレンちゃんの体の負担を思えば、そんなことはさせたくないはずだ。何せ、シスコンだし。
だが、どうする。わたしは目を閉じて考える。目の前には消耗したカレンちゃんが一人、そして魔力を大量に持つアルフとサディアス。
一番の解決策は、闇魔法の出所を突き止めてそれを止めること。だがその間にも闇は生産され続けるのだから、ここでカレンちゃんを引っ込めるわけにもいかない。
なら、目の前の二人を魔力タンクにして、カレンちゃんに浄化を続けてもらう。
「……だけど……いや、駄目だ……二人にはできない……」
「ハリエット、さん?」
「ちょっと、考えさせて」
思わず、思考の切れ端が口から溢れる。目を開ければ、三人の友人が、わたしの顔を黙って見つめていた。そういえば、わたしは彼らの恩人でもあったのだった。あれはただのエゴイズムだったのに、彼らはわたしに信頼を寄せている。
その期待が、今ばかりは重い。
二人の魔力をカレンちゃんに使わせる。理論としてはごく単純だが、実際問題そう上手くいくわけではない。
他人の魔力を体に流すというのは、少なからず負担のかかるものなのだ。昔、サディアスに魔力の使い方を覚えさせるため、二人で魔力を循環させたことがあった。あの時もわたしは、サディアスの魔力の流れに痛みを覚えていたのだ。
アルフもサディアスも、魔力の多さ、流れ共に限りなく強大だ。わたしとカレンちゃんは同じようなもので、つまり二人の魔力に耐えられる器ではない。
いや、まだやりようはある。簡単に言えば「加減」できればいい。流す量を調節して、荒れ狂う海を凪いだものに変える。それをずっと。
わたしが二人にはできないとしたのは、それがとてつもなく難しいことだと理解しているから。
二人の魔力はカレンちゃんには大きすぎる。それに加えて、魔力の多い人間は、それだけ細やかな作業が苦手だ。昔、まだ小さかったサディアスが、自身の魔力の量を確かめられていなかったように。
瓶の中の水を一定に流すのは簡単であっても、それが途方もなく大きい湖であれば、難しい。
「……わたしがやるしか……」
わたしなら、できる。断言する。わたしが間に入って、彼らの魔力をコントロールするのだ。痛みは伴うだろうが、カレンちゃんの体に負担なく魔力を送り込むことなら、絶対に可能だ。
……でも、この場所を浄化しているだけでは駄目だ。本命は、「闇魔法を止めること」。それには、濃くなる闇の中でも問題なく動ける人間が必要になってくる。
つまり、わたしとニール。耐性のある闇属性にしか、それはできないこと。それに、悪いが今のニール一人では心配で行かせられない。
どうすればいい。
どうすればいい。
どうすればいい。
三人の、色とりどりの目がまっすぐわたしを見つめている。絶対に、誰も見捨てることなんてできない。
からからに乾いた喉に、無理矢理唾液を押し込む。冷や汗がこめかみを伝って、嗚咽と恨み言に溢れる空間に耳鳴りがしてきた。
解決策は、未だ思い付かない。ただ、大事な友人を死なせないためには、わたしがここで彼らの「繋ぎ」になるしかないのだ。事態が好転することを、祈って? そんな曖昧な、希望にすがって、いいの?
「……アルフさんと、サディアスくんの、魔力をカレンちゃんに送り込みます。これで、カレンちゃんの体も楽になるはずです」
「なら――――それは、俺が引き受けよう」
やや高い、けれども落ち着いた男の、自信に溢れた声が聞こえる。かつかつとまた、圧倒的な力で人混みを割ってやって来たのは、緩やかな笑みを浮かべた――――。
「ヴィクター、様……」
彼は今この場で、誰よりも状況を理解して、きっと誰よりも希望に溢れている。実際はわたしの属性も知れない彼が、そこまで考えることは不可能なはずだ。けれどもこのタイミングで現れたヴィクターに、わたしは涙すら流してしまいそうだった。
まさに救いだ。カレンちゃんを死なせず、そしてわたしが闇魔法の根源を突き止めに行ける。最適解が、ヴィクターの存在によって可能になった。
頭がやっと周り出す。これでカレンちゃんは救われるし、周りの闇を浄化することもたやすい。発生源がこの校舎であるなら、隙を見てここから出ることも可能になるだろう。
「ヴィクター……できるのか?」
「俺を誰だと思っているんだ? アルフ、黙って集中すればそれでいい」
そう、ヴィクターにならできる。
アルフやサディアスには難しいことも、凡人の才でありながら、ここまで登りつめた彼なら。今、この場にいるヴィクターでなければ、わたしが変えた彼でなければ、この場で詰んでいた。
「ヴィクター……あの、ありがとう、ございます……」
「そんな泣きそうな顔をするな。何も心配は要らない。そうだろう? 俺を変えたきみがいるんだ、大丈夫」
苦笑したその顔は、出会った頃よりも随分と精悍になったような気がする。
今度の信頼はよりいっそう重く、けれどもわたしは、それがとてつもなく嬉しかった。
きっとわたしの今までの行為は、本当に頑張ってきた人から見ればお粗末で利己的なものだっただろう。でも、それを変えてしまった本人が肯定してくれている。
「カレン嬢に猶予はない。すぐに始めるぞ。――――皆も、心配はない!」
よくよく見れば、ヴィクターの顔色もいいとは言えない。闇魔法に慣れていない人は皆そうだ。それでも、彼の言葉が震えることはなかった。
ヴィクターを真ん中にして、アルフとカレンちゃんと手を繋ぐ。アルフから遠慮なしに流れる魔力の海は、きっとヴィクターの体を痛みに投げ入れているところなのだろう。眉を寄せ、汗を垂らしながらも、その意思の強い瞳がわたしを射抜く。
まるで「頑張れ」とも、「早く行け」ともとれる眼光。
本当に、彼は分かっているのかもしれない。だって、本当にヴィクターは頭がいい。それは才能でなく、必死に磨かれた凡夫のもの。
わたしはぐったりしたカレンちゃんの空いている手を握って、光の差し込んだ琥珀の瞳を覗き込む。
「カレンちゃん、待ってて。きっと大丈夫、わたしが止めてくるから」
「うん……大丈夫。信じてる、ハティちゃん……あなたのこと、ずっと……」
まだ青白い顔で、それでもカレンちゃんは薄く笑っていた。
抜け出した人集りの向こうで、柔らかな光が辺りを照らす。生徒たちの頬を濡らしていた涙が光り、それはとても綺麗だった。
「ニール、行こう。場所に心当たりはあるんだ」
「……ああ」
「絶対に、早く止めないと」
わたしの友人たちは、心の奥では闇を怖がっている。それは魔法の効果なのだから、仕方のないこと。それでもわたしを拒絶しないのは、わたしたちが友達だから。
早く、止めないと。
今はそれしか考えられない。