86 わたしにできること
わたしにできることはそう多くない。魔力の細やかな運用はお姉さんのお墨付きだけれども、この場でそんな繊細な作業は意味をなさないのだ。
やることは一つ。圧倒的制圧。それしかない。
なんとしてでもあの腐れ坊っちゃんを殴り、もう二度と抵抗できないほどに痛め付けなくてはならないのだ。
わたしの体力気力を加味するに、短期決戦が最も勝率が高い。とはいえそれも成功するか怪しいものだが……やるしかあるまい。
「逃げるだけでは私には勝てんぞ! はははは!」
高笑いが遠くから聞こえた。闘技場めいっぱい使って逃げの手を打つわたしに、ばらばらになった風の音が迫っている。これだけ距離を取れば魔法も命中精度を下げるようで、また威力もさほど感じないほどになっているため、比較的安全ではあるが。ギータは未だ己の有利を確信し、わたしに風の刃を突きつけ続けている。
近づけばまたあの風に嬲られることになる。
「でも、おっしゃる通りですね」
「……なんだ?」
「逃げるだけでは確実に、わたしはあなたに勝てないということです」
びゅうびゅうと唸る風の音で、わたしの声がギータに届いたかは怪しい。だけれども――――怖い、けど、痛いんだろうなあ、けど、自分の言葉で覚悟は決まった。
わたしはギータを見つめ、自らの足に力を込めた。強化魔法を使うのは久しぶりだが、あとに来る筋肉痛が怖いなどとも言ってられない。地面を駆けるこの脚に強化魔法を使い、鈍足の速度をなんとか押し上げる。
「ッ! この!」
近づく度に風の痛みは増していく。できるだけ避けて、腕を交差させて盾にはしているものの、その風は確実にわたしの体を切り裂いていく。ついにぷしゅりと血が吹き出すのが見えて、目眩がした。
けれど、今。ギータとわたしの距離はあと一メートルもない。
わたしは指輪に魔力を吸わせ、そこから頭上へ飛び上がった。
「何!? 上か……っ」
暴力的なほどの風の壁が一瞬なくなり、ギータがわたしを追って目線を上げる――――前に。食らわせるならここしかない。
「てい!」
わたしの手首に嵌まった、無骨な鈍い金色の腕輪。そこから放たれるのは、魔物を葬り去れるほどの、ユリエルの風魔法だ。
それもこの距離。ギータが顔を上げた瞬間、それはごうごうと唸る音を伴って彼に襲いかかった。場外で悲鳴とどよめきが上がる。
「う――――わああぁぁああ!?」
けれど、無論殺すつもりはない。
あまりの恐怖に叫び出したギータを、着地した地面から飛び込んで押し倒す。そこに結界を張れば、風は目に見えない壁に防がれ霧散していった。
わたしの下にいるギータは呆然とした顔でわたしを見つめていた。彼の上にぼたぼたと、わたしの血液が垂れていく。
「これで、勝ちですよね?」
ギータの細い首筋に短剣を突きつければ、彼の返事より先に会場が沸いた。遠くから、「よくやった!」とアルフのらしくない歓声が聞こえて、笑いそうになる。
正式にギータの負けが宣言されて、わたしはようやく張り詰めた糸をほどいた。
「ふいー……」
なんとか愛人は免れたものの、その代償は大きかった。なんせ服も体も切り傷だらけで、しかも貴族相手に勝ち残ってしまったのだ。正直、ギータが馬鹿なことを言わなければ、最初の魔法で勝負を降りていたものを。
疲れもあって、ついついギータを横目で睨んでしまったが、意外にも彼は顔を伏せたまま身動ぎもしない。
「……あの、大丈夫?」
「……何故だ……」
「はい?」
「私は努力してきた。あの日から、あいつのように……あいつを越えられるようにと……」
俯いたまま、肩を震わせるギータにぎくりとする。
もしかして泣いてる? わたしは貴族の坊っちゃんを泣かせてしまったのか?
周りから見えないだろうかと、無意味に目線を動かしてしまう。とりあえず泣き止むまで、話を伸ばすしかない。
「あ、あいつって……」
「カルヴァートだ!」
そういえば、ギータはサディアスに対して、良く目を向けていた気がする。もしかして好きなのか、なんて血迷った考えを抱いたりしたけど。
「どうして、サディアスくんなんです?」
「……ッ、貴様が! あいつのことを好いているんだろう!」
「えー……」
そうなんだ、知らなかったなあ。
えーとつまり、わたしがサディアスを好きだと思って、対抗してたわけ? ……わたしのこと、愛人にしようとしていたのは、どうやら本当のことらしい。
だがその思惑は、はからずも本人によって阻止されてしまったわけだ。どうにも気恥ずかしい思いが蘇ってきて、頭に血が昇る。ギータが顔を伏せていて助かった。
「あの……サディアスくんとは友人関係ですよ?」
「もういい……貴様にも負けるようでは、あいつには勝てない」
話聞いてねえな、こいつ。
どうしてわたしのまわりの人間は、異様にサディアスとくっ付けたがるんだろうか。確かに貴族ではない知り合いはニールとサディアスくんくらいだけど、それにしてもお節介というか、早とちりが過ぎる。
話を聞かない坊っちゃんに若干やれやれしつつ、その肩にそっと手をかける。そろそろ涙も止まっただろう。
「えーと、いいですか? 聞いてください。わたし、サディアスくんとは友人です。間違いないです」
「……なら、ビヴァリー家次期当主の私の愛人に」
涙も一転、震えのない言葉にはずっしりとした重さがあった。
なんだろう、意外としぶといな。貴族らしからぬ雑草根性である。
「ん、んー、それは――――」
どう断ろうか答えあぐねていると、きゃあ、と短くか細い悲鳴が聞こえた。それはわたしの耳を裂いて、今まで気づかなかった場外のざわめきを脳に届ける。
いったい、なんの騒ぎ? まさかわたしがギータを泣かせたことが、そんなに波紋を呼んでいるわけではあるまい。
思わず立ち上がり、闘技場の上を見上げたわたしに――――とんと、軽く頭に何かが触れた。
「ハリエット」
囁かれた声に、体が固まる。――――え? いつの間に、こんな近くに。というか、教師とはいえ入ってきていいの?
「ニール?」
相変わらずの神出鬼没っぷりを見せた彼は、不機嫌さを全面に押し出した表情で佇んでいた。
本来なら彼は、こんな大勢の人の目が集まる場所には、寄り付かないはず。やむを得ない場合にしても、いつものように分厚い猫を被っているはずなのだ。
「どうしたの、そんな怖い顔で? ていうか、何でこんなとこらに、いつの間に……」
「説明してる暇はねェ。さっきから、この辺りに闇魔法が漂ってる。俺達がいれば確実に、不味いことになるぜ」
「は?」
闇、魔法だと?
慌ててニールの顔から闘技場の上へ目線を移せば、さっきまでやんやと盛り上がっていた生徒たちが立ち上がって、闘技場の席の外を見下ろしている。強張ったその表情は、既にあの礼拝堂で見たことがあった。
いつの間に、とかなんで、とか。絶え間なく脳髄を回る思考の海で、けれどもこんな日が来ることを確かに予感していた。それはゲームがどうとかじゃなく、この身に起こったこと全てから。
「と、とにかく避難……いやこの人数は厳しいか……なら隔離して結界張れば少しは持つ、その間にカレンちゃんになんとか……」
……体調不良が続くカレンちゃんに、頼ってもいいのだろうか?
ふとそんな考えが浮かび、数日前のカレンちゃんの青白い顔を思い出す。教会で皆にすがられていたカレンちゃんの姿を。でも、学園に光属性はカレンちゃんしかいないのだ。
今来ている偉い人に頼めば、いや、もうその人たちが何らかの対策をしているかもしれない。あの教会で起こったことが、再び起こることはないはずだ。ここには魔法に関する人たちが集まっているのだから。
「ギータ、とりあえず立って! 皆は……どこに向かってるの? ニール」
「あ? 校舎か寮かその辺だろ。結界でも張りゃ多少は……おいまさか、一緒に行く気かよォ?」
「それ以外に何かあるの?」
「おい……なんの話だ」
わたしがぐいぐい引っ張ることでようやく顔を上げたギータは、観客席の騒ぎに目をぱちぱちと瞬いた。その手を引っ張って無理矢理にでも立たせ、出口に向かわせる。
「なあ、この貴族のお坊っちゃんは放っておけよォ。今の状況、テメェにとっても不味いことくらい分かるだろ?」
その隣についてくるニールは、苛立ちと不機嫌を隠しもせずにそう言った。
だけど、今のわたしに避難する以外の選択肢はない。ここに残っていても平気だろうが、誰かが探しに来る可能性だってある。それに何よりも、カレンちゃんのことが気がかりだ。
「この無礼な男はなんだ! 私はビヴァリー家の……」
「すみませんちょっと待っててください。――――知らせてくれてありがと。ニールは馬車で学園外にいくの?」
「そのつもり……つーかァ! テメェはなんなの? なんだよそのイイグサ、俺がただ冷やかしにここまで来たと思ってんの?」
「何の話だよ」
ニールはわたしを冷たく睨むと、一度目を逸らし、褪せた茶髪を両手でがしがしと掻き回して俯いた。両手で頭を抱えた格好のまま、わたしの目と、ついでにギータの疑心に満ちた目を受けながら、ぼそりと呟く。
「俺は……二人で、逃げようって、言いに来たつもりなんだよ……」
顔を隠すように重なった腕の隙間から、覗く頬が、赤い。
「はあっ!?」
思わずわたしまで顔が赤くなる。これは仕方ない、だってニールが、そんな意図はないとはいえ、わたしにそんな言葉をかけてくれるなんて。
いや、ニールはよっぽど、あの四年間の王都生活が気に入ったに違いなかった。わたしだって、ニールとの生活は楽しいことばかりで、四年暮らしても不満の一つもなかった……はずなのだから。
ニールの見ていないうちに熱くなった頬を冷ましつつ、けれども、その甘言が決して受け入れられないものであるとも気づく。
「……駄目だよ、ニール。そんなこと言っても、駄目。皆のところにいかないと」
「はァ!? ふざけんなよ、ガキが。義理があるってのは分かってる、テメェにとっちゃ大事なオトモダチなんだってことはよォ? ……だが、所詮は他人だ。俺達とは違う人間で、割に合わねェほど恵まれてる。俺らみてーな塵芥に助けてほしいって、むこうさんも思っちゃいねェだろうよッ!」
ニールは一転して激昂する。その言葉の裏にあるのは、ニールが今まで感じてきた不平等への憤りなのだろう。
あの学舎にいるのは、貴族で闇をよしとしない人々。ニールにとって、何よりも価値のない人たちだ。きっとニールにとっては、同じ飯を囲んだカレンちゃんたちでさえ、自らの平穏と天秤にかけられるものではない。
だから、彼らが「わたしにとって大切である」ということを訴えかけても、ニールは納得してくれない。貴族でもなく、ニールと同じ闇属性のわたしだけが、ニールの中では「同族」として分類されているのだ。その「同族」と「他人」は、ニールの中で比べるものではないのだから。
だとすれば。
「ここで逃げても、わたしたちは救われないよ」
こう、出るしかない。
来るべき時が来たのだと、脳内で誰かが告げている。今は姿の見えない神様か、何か。
「この騒動、よく考えてみて。どうして今日、この模擬戦の日に行われたのか。何のために。そして、誰が」
「それは――――」
ニールの言葉が詰まる。分かっている、ニールにはこんなことをする人物が誰なのか、とっくの昔に見当がついているのだ。それに立ち向かえるとは思えないから、今もまた逃げようとしている。
その犯人はひとまずいい。重要なのは、このタイミング。
「ニールは知ってる? この間、教会で起きた事件……」
「ああ……誰かが教会に闇をばらまいたって? 余計なことしやがって」
ああ、今のニールはそういう感想を抱くのだ。昔なら、出会ったばかりなら、出会うまえなら。きっとそれをした人物に、にたりとした笑顔で拍手喝采を送っていたはずなのに。
それと同時に、あの場にニールの影を見たことも思い出す。けれどもこの言いぐさでは、彼が実行犯である可能性はやはり低い。湿った安心を抱きつつ、話を続ける。
「あれは多くの人の前で起こった。人々は大混乱、恐怖のどん底に叩き落とされた。そこに颯爽と現れたのが、光属性のカレンちゃん。彼女は一躍、救済の聖女に」
いつの間にか、隣にいたギータでさえも耳を傾けている。彼に自分のことを打ち明けるのは少々躊躇することではあったが、この状況ではそうも言えない。
わたしはこの混乱の中、決してしくじることのないよう、真実を舌に乗せる。
考えることだけが唯一、わたしにできること。
「同じことが言えるの。どうしてあの日、教会に闇が現れたのか。裏を返せば、誰が送り込むにしても、教会の『あの日』が良かったわけだ。今日もそう、学園の『この日』。特別な日」
「人が集まる、今日……」
「そうだよ、教会でのカレンちゃんの活躍があっという間に広まったのも、あの場に普段なら来ないような、高貴な人が集まっていたから。今日もそう。いや、カレンちゃんの歌目当てに、例年よりも多く来ているかもしれない」
あの教会での事件は、ただのデモンストレーションだ。本番はきっと、こっち。
闇属性を再び貶め吊し上げ、聖女をまた降臨させる。
それにはきっと、闇属性を「受け入れている」新しい体制、そして貴族の集まるこの学園が、一番都合がいいのだ。今日の事件が膨らめば、もう学園は闇属性の生徒を受け入れることはない。また闇属性は差別され、社会においていかれることになる。
「この混乱の中でわたしたちが逃げれば、もう二度とこの地に足を踏み入れることはできなくなるよ。わたしたちの手で解決して初めて、この計画は『阻止』される」
わたしの話を黙って聞いていた、二人の顔色は同じようなものだった。思っていることはそれぞれ違うだろうが、先に口を開いたのは、ギータだった。
「……さっきから、何の話をしているのか、分からないが……貴様、闇属性……なのか?」
わたしはギータの目を見つめて、大きく頷いた。ひゅっと息を呑む音が聞こえる。
きっと罵倒され、避けられ、彼なりに捧げてくれた愛には到底答えられない結果になってしまっただろう。貴族の偉い方に告げたのだから、これからの学園生活も一変する。けれども、わたしは生まれて初めて愛の告白をくれたこの彼に、嘘をつくことができなかった。
「わたしは闇属性です。だから、貴方の愛人にはなれません」
ギータは一歩後ずさり、口を開閉させながら、わたしの言葉をゆっくり反芻しているようだった。
いつかのように、愛想笑いで頭を下げる。貴族の礼なんか知らないから、深く下げて、わたしなりに真摯にお断りをする。
――――頭を上げたときには、ギータの背中は随分と遠いところにあった。