85 告白?
夢を見た。
わたしは黒髪を切り揃えた女性になっていて、すっかり人の機微など忘れ去ったかのように自分本意に生きていた。それでも、一般的に人が『こうする』ということは経験として分かっていたので、あからさまに避けられるようなことはなかった。ただ、やはり分かる人には分かるのだ。この異常さが。
『■■■さん――――興味ないでしょ? この話』そう言ったのは誰だったのか、どんな人物だったのかさえ、もはや記憶にない。もともと、最初から覚えることもしなかったのか。
『話だけじゃなくて、私のことも。そうやって笑っているけどさ、誰のことも興味なんてないんでしょ?』
その言葉は残酷で、けれども的確に的を射ていた。自分を取り巻く人間すべてに興味がない。周りに置いていかれないように、まともなふりをしているだけ。
勘のいいその人は、そのことに気づいてしまったらしい。
けれどわたしは認めない。顔も名前も覚えていないような人間ごときの話は、例え真実であっても、わたしに影響を及ぼすに値しないのだ。
「そんなこと、ないですよ」
笑った顔は相手にどういう意味でとられたのか。そんなことすら思い至らないで。孤立していくことにすら、どうとも思わす、思えず。
確かにわたしは、あの世界では生きずらかったのだ。
嫌な夢を見た。
「……はあっ、……うわ、汗すご……」
びっしょりと濡れた額に髪が引っ付いて気持ち悪い。首を振って髪を引き剥がすと、ベッドの上でぼんやりと宙を見上げた。
今日は模擬戦当日。緊張しているからかなんなのか、久しぶりに悪夢を見たような気がする。内容は覚えていないが、どうにも朝から嫌な気分だ。
ジンくんの姿はない。汗に湿った寝間着を脱ぎ捨てて、いつものワンピースに袖を通した。それから少し考えて、それも止める。下着姿のまま、しっとりした腕を組んで考えることしばらく。
今日は模擬戦なのである。
カレンちゃんの具合は良くなったものの、まだ無茶はできる状況ではない。その辺りはユリエルやアルフがついているので大丈夫だとは思う。
問題はわたしの方だ。
結局どたばたしていて、模擬戦についてはカレンちゃんにもアルフにも相談できていなかった。彼らも妨害に忙しかっただろうし、参加者一覧表は確認できていないに違いない。邪神には何度か相手になってもらったが、やはり魔法が使えないのが痛い。
白いシャツを手に取る。髪を一纏めにひっつめて、それから紺のズボンを腰まで上げた。紛れ込んでいたヒューの一着は、ウエストはともかく悲しいほどに足の長さが足りない。おかしいな、サディアスほど長身ではないはずなのに、何回裾を折れば済むのだろう。
なんとか引きずらないようになったズボンのベルトに、短剣を差し込む。首にはペンダント。手首には腕輪。左手の薬指には、相変わらずぴったり嵌まった銀色の指輪。
これだけがわたしの武器だ。
「男装の麗人ハリーちゃん、再び。いや三度」
「それギャグで言ってる?」
「どういう意味だよ」
突然にょきっと現れたジンくんにも、もはや驚くこともない。着替えの終わったタイミングを見計らって現れたであろう少年は、わたしの気合いの入った姿をじろじろと眺めて嘆息した。
「妙な格好だって、目立つと思うけど?」
「女子が出てる方が目立つでしょ。遠目からならどうよ。ほら? ね?」
「男に見えるとは思えない」
「なんと?」
おかしいな? いや、まあわたしも成長したわけだし。男女の区別がつきにくい幼児だった頃とは違うのか。
けどスカートより動きやすくていいと思う。一人で頷いて格好を正すと、もうジンくんも何も言わなかった。
「それよりも、できるだけ安全に負ける方法を考えないと」
一番いいのは、いつかのアルフの試合のように武器を壊されることだが――――わたしの腰にあるのは愛用の短剣。随分と汚れてきた気もするが、ニールに買ってもらった品だ。
後生大事にしまっておくほどではない、でも、だからといってわざと壊されるのもちょっと……ねえ?
「勝ってしまえばいいんじゃないの?」
「うーん、馬鹿なの?」
男女の体格差、普段の鍛え方、魔法の有無。どこをどうとったらわたしに勝ち目があると思えるのか。じとっと睨むと、心底どうでもよさそうな顔で無視された。
おっと。ジンくんとのんべんだらりと話している場合ではなかったのだった。
「さあ、ジンくん。早く行くよ」
わたしはもう一度装備を確認して、部屋を後にした。今朝見た夢はなんだったか、思い出せないまま。
朝食を終えて寮の外に出てみれば、まあなんということでしょう。例年よりも偉い人様たちの数が多いような気がする。やっぱりこれは、カレンちゃんの歌目当てというやつか?
人目につかないようそそくさと歩き出せば、その辺を歩いていた教師に呆気なく捕まった。全然面識のない人なのに、問答無用にわたしを闘技場まで引きずっていく。
逃げようとは思っていなかったけどさ、徹底されてるなあ。
そのままずるずるたどり着いたのは、闘技場の内部へと続く扉。閂の抜かれたそこに放り込まれて、思わずよろける。
「おっとと」
薄暗く湿った内部には、来たときと反対側から光がさんさんと差し込んでいた。ざわざわと人の気配がする。ここから出ていって、わたしの相手と戦うわけだ。
わたしをここまで引きずってきた教師の一人は、そのまま無言でぐいぐいと背中を押してきた。ざわめきは一層大きく反響して、眩しい光がわたしの顔を熱く火照らせる。
一歩、踏み出した先は広い土の地面。
わたしが姿を現したのと同じくして、人の歓声はやや困惑に乱れた。弱そうだとか思っているんだろ。まあ、いい。相手が誰であろうとさっさと退散して――――。
「げっ」
「貴様か! はははは!」
降り注ぐ太陽に照らされて、上機嫌に高笑いをしているのは、翠髪のギータ。今日もまたいつもより数段装飾品に飾られた彼は、わたしを見つめると目を見開いて笑った。
「まさか、最初から貴様と当たるとはな! 女神はこのギータ・ビヴァリーに味方したッ!」
「な、なんでそんなテンション……」
高いの?
ギータくんはわたしが模擬戦に出ると知るやいなや、負けるなと念押ししてきたことがある。そしてわたしと初戦で当たったと知るや否やこのテンションの高さ。もしかしてもしかすると、こういう場所でなら、気に入らない平民ちゃんを思う存分フルボッコにできるからか!?
怖い。あの宝石のついたキンキラキンの剣も、悪趣味な上に恐ろしい。ガクブルである。
「おい、貴様」
とりあえず短剣を構えてはみたものの、ギータを見つめて身震いするわたしに、彼はそのつんとすました顔を向けた。いつものように赤ら顔で怒鳴るわけでも、意地の悪い笑みで嘲るわけでもない。至って真面目な顔に、わたしも一瞬、震えが止まる。
「な、なんでしょう」
「……ハリエット。ハリエット・ベル」
「はい」
心なしか、いつもより真面目で優しげな声にこくりと頷き返す。ざわざわキャーキャーと上がっていた観客生徒の声も、不思議と静まり返る。しんとした闘技場に、見つめ合う両者……。
果たして、その異様な空間を切り裂くように金ぴかの剣を掲げたギータは、そのままよく通る声を張り上げた。
「――――この果たし合い、私が勝てば貴様を愛人にする!」
ん?
「ちょっと待てよ――――ッ!?」
場外からすごい叫びが聞こえてきた。声でわかるけどあれはアルフだな。
聞こえてきた方向に首を向けると、ぼんやりとだが赤毛と灰色っぽい髪に挟まれた茶髪が見える。カレンちゃんもいたのか。恐らく、メインイベントになるだろうアルフやサディアスの出番は、人が集まってくる昼頃になっているのだろう。まだ朝だし。
わたしたちは前座というわけだ。世知辛いねえ、ギータくん。
で、なんだって?
「今、愛人とおっしゃいました?」
「ああ! 貴様をビヴァリー家次期当主の妾としてやると言っているんだ。喜べよ!」
「それはまた……えーと……わたしに対する、嫌がらせですか?」
ギータくんとは浅からぬ因縁があるからな。もしかして、立場的にどうしようもない平民ちゃんを手篭めにするとかいう新しいフルボッコ形式。
冷や汗をかきながらも穏やかに接すると、ギータは途端に顔を赤らめて顰め面になってしまった。今までの勢いはどこへやら、もごもごと声ならぬ声を……。
「……マジか」
これマジなやつじゃん。さすがのわたしもここまでくれば分かる。
うわあ、告白されたの初めてー。一瞬、どきりとしたものの、世間一般の告白って「愛人」宣言されるものだっけか?
てかいつも怒っていたのは、あれか? 照れていたわけ? そんでもって、こんな偉い人もいる大勢の前でここまで言ったってことは、そういうこと。
ハリエット・ベルをギータ・ビヴァリーは求めている。それが本当に愛とかなんとかそういうものなのかは知らないが、周りにはそう思われるわけだ。
「……マジか……」
待って、負けたらわたし、どうなるの?
こんなの口約束以下の話で、全然強制力はないのだが。がしかし、腐っても身分差というものがあってだな。いやまて、そもそもわたしが闇属性だってギータは知らないし……かといってここでばらすわけにもいくまい。
ああ、好奇の目線が突き刺さるのが分かる。今まで目立たずぬくぬくと暮らしてきたわたしに、「ハリエット・ベルって誰?」というひそひそ声が降り注ぐ。
げんなりとしたわたしが目線を目の前に戻せば、赤ら顔から立ち直ったギータがこちらを見つめていた。
「……女に手酷いことはしない。かかってくるがいい、ハリエット」
ちゃっかり名前を呼んでいるし。
しんと静まり返っていた場外は、先程の妙な雰囲気を掻き消すように喧騒を取り戻した。さっきからアルフの声がやたら聞こえるが、内容は「負けるな」だの「勝て」だの無茶な……けどまあ応援してくれているらしい。
その期待に応えるためにも、あと愛人だかなんだかヤバそうな未來回避のためにも、負けるわけには――――いや、勝てるかな……。
「い、いきます!」
微妙にぺっぴり腰のまま、わたしは構えた短剣を逆手にギータに走り寄った。キンキラキンの剣を構えるギータは、婦女子に対する配慮なのか動こうともしない。受け止めるつもりか、力比べでは勝てる見込みもない。だったら。
「よいしょ!」
「……ッ!」
短剣を顔面に躊躇なく降り下ろす。思わずと言った風に剣を上げたギータに、指輪を使ってくるりとその場で縦回転。しゃがみこんで着地したわたしの目の前には、がら空きの胴体がある。
「な?!」
流石に刺すのはまずいか。
逆手のまま渾身の力をもって、柄で鳩尾を抉る。上に構えた剣が降り下ろされるのを、とっさに指輪で飛んで回避。数歩開けて構え直したわたしに対して、ギータは腹を押さえてよろめいた。
「き、貴様……私を、愚弄、する気か」
顔を上げたギータの顔は、今度こそ怒りで真っ赤に染まっていた。
「なんのことやら……」
「その短剣は飾りか!」
えーと、殴ったのが逆にまずかったと。確かに模擬戦は外部から治療士が雇われている。大抵の怪我ならなんとかなるらしいが、それでも人を刺す勇気はわたしにはない。
そのわりに、顔面を躊躇なく狙ったりしたのはご愛敬である。
「加減など、できないようにしてやる……」
苦しそうにそう言うと、突然ギータの周りに風が吹き始める。
まずい、風属性なのか。火や雷よりはましだったが、風属性というのは一番人口が多く、また魔法の融通も利きやすい。周りで言えば、ユリエルやお姉さんが風属性だ。一番発達した魔法ともいえる。
それに加えて、さっきから大活躍中の、わたしの指輪とも相性が悪い。
先程とは逆に、わたしは利き脚を前にしたまま、短剣の握りを確かめる。そこにギータが、おびただしい量の魔法を放ってきた。ユリエルとの授業で経験済みだが、あのかまいたちのような鋭い風の群れ。
「ぐうっ!」
とっさに指輪を使って逃げようとするが、ギータは遠距離からぽんぽん風を打ち出してくる。それが肩にかすって、シャツを切り裂いた。びゅうびゅうとうるさい風の音に紛れて、女子生徒の悲鳴が聞こえてくる。
「はははは! どうした、魔法は使わないのか!」
お前本当にわたしを愛人にしたいのか? 高笑いする坊っちゃんを前に、思わず舌打ちをする。あいて、またどこかが切れた。
一つ一つの傷は大したことがない。だがぴりぴりとした痛みはうざったいし、確実に追い詰められているのも事実。攻撃を回避するために、魔力を消費しているわけだし。
「この……腐れ坊っちゃんが」
わたしは柄にもなく熱くなっていた。腹をくくるしかない。