80 起こってしまうこと
わたし達の歌が始まる頃には、礼拝堂の会衆席はかなりの人で埋まっていた。中には『信者』の証であるあの石をつけている人間もいたり、町に住んでいる子供達も行儀よく席に腰掛けていたり、わたしが考えているよりも倍は多い数に血の気が引いていく。
そうだよ、この世界では宗教は身近なものなんだ。わたしも前世も、無宗教だったからこういうことには疎かった。それに今、ここにはカレンちゃんがいる。周りの人が知っているのかは定かではないが、知っているなら歌を聴きたいという人もさらに増えるはず。あー、盲点だった。
「ハティちゃん、大丈夫? 震えてる、けど……」
「え……? いやいや、へーき」
今日のわたしは、聖歌を歌うごく一般的な学園の生徒なのだ。よもや歌声だけで闇属性とはバレないだろうし、こ、こんな大勢が一緒になって闇属性を袋叩きにするとか、ないよね? ないはず。万が一あってもほら、あの神父様が止めてくれるはず。……いかん、くらくらしてきた。
「まあ、ハリエットさん。顔が真っ青だわ」
「そ、そう、ですか?」
「うわ……ほんと、今にも倒れそうじゃない。大丈夫?」
そんなに心配されるほどひどい感じになっているのだろうか。
わたしとしてはちょっと緊張しているだけで――――あとはあれだ、なんか……悪寒がする。えっ、なんかすんごい嫌な予感というか、慣れ親しんだ嫌悪感が背筋から登ってくるような……。
この発表、どうしてか成功しない気がしてきた。じんわりと脳みそが水浸しになるような感覚と同時に、電子の集まりがフラッシュバックする。
――――教会――――ヒロイン――――黒い霧――――そして。
「ハティちゃん、もう始まるよ」
「……っ!」
目の前がちかちかと点滅している。殴られたように痛む側頭部を押さえて、よろけた体をなんとか支えた。
目の前には人がいるのだ。おかしなところは見せられない。未だわたしを心なしか心配そうに見つめるカレンちゃんに、わたしは笑みを向けた。真っ直ぐ前を向くと、沢山の人がただじっと歌の始まりを待っていた。
思い出したことがある。
川の流れのように口から吐き出される音は、紛れもなくわたしの歌う声そのものだった。練習の成果なのか意識せずとも歌声が溢れ出す。
それを良いことに、意識は泥のような闇に沈んでいく。思い出したことというのは、さっきの殴られたような刺激と点滅の際のことだ。わたしは教会に来たことはなかったが、ゲームではむしろ登場しないことがない。だというのに内装すらまるで思い出すことがなかったのは、わたしがそれを拒んでいたからか。
バッドエンドだ。
誰のルートかももう忘れたが、ヒロインが教会で重傷を負うエンディングがある。いや、実際重傷なのかは分からない。ただ教会で黒い霧に包まれて、暗転して終わってしまう。ニールによることなのは間違いないだろう。
でもそれはゲームの話。今のこの世界にエンディングもクソもないし、ルート分岐もカレンちゃんによる攻略もない。
問題なのはそれを、なぜ今になって思い出してしまったのか。人の熱気で教会は生暖かく、わたしのこめかみに冷や汗が滑り落ちていった。気にする余裕もなく、ただ歌をひたすらに歌い続ける。昔の歌。国の歌。英雄の歌。
ニールが敵でなくとも問題は起き続けている。ならば、ここにも何か起こり得るのではないか。そんな疑念に取り憑かれてしまうと、もう楽観的な思考には戻れなかった。
とん、と軽く腰に何かがぶつかった感覚がして、思考に蓋をする。慌てて意識を取り戻せば、隣にいるカレンちゃんが横目でこちらを見つめていた。わたしも彼女もしっかり歌を響かせつつも、カレンちゃんの目線に気づいていなかったわたしは顔をひきつらせた。
ジュリアにバレたら殺される。
そ知らぬふりで前を向き直すと、見えるところににこやかな笑顔の主がいた。あのおっさんは、まるで我が子の発表会でも観ているような顔だな。
歌声が響く礼拝堂を見渡せば、他にも心なしか微笑ましげな顔で歌を聞く人達がいる。だが――――お姉さんがいない?
あの印象的な黄緑色の巻き毛と、その溢れんばかりのプロポーションが見当たらない。あの人のことだから、わたし達、生徒の発表を見ないわけがないと思うのだが。もしかするとどこか別の場所で? さりげなく辺りを見渡すものの、見慣れたあの姿が目に入ることはなかった。
わたしが探したりないだけだろうか? それとも、本当にいない? だとしたら、どうして。
カレンちゃんに相談したい気持ちになるものの、今は歌の途中だ。丁度最初に覚えた、とある演目の恋の歌がソプラノで奏でられている。愛を歌うこの曲は、特に富裕層に馴染みがあるのか、見た感じ裕福そうな女性に受けているように思う。
ここが終われば、最後は聖歌だ。
本来ならこの歌はこう……あれだ、気持ちを込めて……いや、誰にとかじゃないけどね? 恋の歌だから、まあそういう気持ちで歌わなきゃならんわけだが、今のわたしはそれどころじゃない。
次で最後。
なのに、わたしにはまるで良い未来が浮かんでこない。わたしは別に未来がわかるだのなんだのそんなではないけれども、思い出した最低なエンディングが頭から離れないのだ。
そしてそれはきっと――――現実になる。
最初に悲鳴を上げたのは、恐らくは前方の席に座っていた人だった。
「キャア――――! 嫌ぁ、何これ!」
その声に共鳴するように、先程まで大人しく座っていた人達がばたばたと立ち上がる。わたし達の歌がピタリと止まると同時に、立ち上がった複数の目線はそこに釘付けになっていた。
「く、黒い、霧……」
教会内部に突如として霧散したのは、黒々とした靄のような何か。何か、なんて遠まわしなことを言わずとも、わたしにとっては何年間と向き合ってきたそれである。同時に、教会に来る彼らにとっては最も忌まわしいとされるもの。
「闇だ! 闇が、襲ってくる……!」
「いやぁ! どうして、なんでここに!?」
人々がパニックに陥る間にも、教会に現れた黒い霧は濃度を増していく。丁度わたしたちと会衆席の間に沸いたそれは、あっという間に全てを包むよう広がっていった。
「――――カ、カレンさん!」
良く通る声に振り向けば、がたがたと体を震わせながら、ジュリアはカレンちゃんの服の袖を握り締めていた。
「ジュリアさん、落ち着いて……大丈夫」
「で、でも! こ、こんなに、闇魔法が……」
「た、助けて、カ、カレンちゃん……お願い……」
マーシアが泣きながらすがり付くのは、彼女よりも背の低い、ただの女の子だ。カレンちゃんはいつもの無表情で、けれども目を伏せて彼女達の手を握った。
わたしは黒く染まった教会に目を凝らす。
「どうして?! なんで開かないのよぉ!?」
「退け! 邪魔なんだよ! ……クソ! 開けよ!」
快く来訪者を歓迎していたはずの教会の扉は、人が何人まとわりついても固く閉ざされたまま。段々と色濃くなる霧に、混乱は更に勢いを増していく。中には泣き出している人もいる。
これが現実。闇魔法であるというだけで、歌をにこやかに聴いていたはずの彼らは、泣くほどの恐怖と嫌悪に駆られるらしい。
……いやそれとも、この霧は人々の恐怖を煽るのか。わたしにはすっかり耐性がついているが、普通の人なら闇魔法なんて滅多にお目にかかれるもんじゃない。
「ハティちゃん……」
「大丈夫? カレンちゃん」
「うん、でも、これは……」
カレンちゃんが両手にジュリアとマーシアを連れたまま、わたしの方へやって来た。カレンちゃんにもまだ害はないらしいが、残る二人の状態は深刻だ。他に何人かいたメンバーも、泣きながら祭壇の側で必死に祈りを捧げている。
うん、ひどいな、これは。ゲームよりなお凄惨で、知り合いが苦しんでいると言うリアリティがある。
「とりあえず、カレンちゃん達は祭壇の近くに固まろう。出口はどうも開かないようだし、そもそもあの霧を抜けて行くのは、皆には無理そうだし」
「ハティちゃんは……平気?」
「ああうん。カレンちゃんは……」
「私は、属性が……」
そうか、カレンちゃんは光属性だから。わたしのように耐性をつけるより先に、元々効きにくいのかもしれない。
わたし達は祭壇で祈りを捧げている聖歌隊数名に混じり、霧から逃れるように身を寄せ合った。一応結界を張ってはみたものの、効果があるのかは分からない。皆パニックだし。
相変わらず出口付近からは、怒声と嗚咽が響いている。
「この霧、どこから現れたんだろう」
一応、結界は機能しているっぽい。一段と濃くなった霧との境目を撫でてみる。物体に対しての干渉――――つまり闇魔法特有の『消失』は発生しないようだ。
「人の、中に、闇属性が……混じって、いたのかも……」
「うーん……あの中に? だとしたら何のために」
濃くなった霧の向こうは、うっすらとしか見えなくなっていた。響く声だけが、寸断されたわたし達に他の人間の存在を知らせている。あの中に犯人がいたとしてもおかしくはないが、理由は?
「……それは、教会に、恨みが……あるとか……今日は、偉い人も、来ているから……とか」
「……そういえば、お姉さん見なかったな。マデレーン様」
「私も、見てない。マデレーン様に、何か?」
どうだろう。カレンちゃんが言うには、あの中には教会、ないしはマデレーン様のような偉い人に恨み辛みがある人間、が犯人の可能性がある。
だがこの魔法は――――精神に働きかけるもので、誰かを殺すものではない。この場で魔法を使ったというなら、今は一緒に閉じ込められているはずだ。出られるようになれば、お姉さんが見つけられないはずがない。恐怖を味わわせるだけで復讐になるというなら、それは生温すぎる。
「マデレーン様がいたなら、こんな状況は解決されて然るべきなんじゃないの? あの人、普段は頼りないけど……ここまでパニックにはならないと思う」
昔、教会の近くで信者に殴られた時。あの事態を『稀代の魔術師』として収拾してくれたのはお姉さんだ。普段はドジだけど、きっちりするときはできる人。
それにお姉さんは有名人なんだから、彼女がいれば人はもっと落ち着いていたはず。ジュリアに縋られたカレンちゃんのように、人々はお姉さんの腕を掴んで離さなかったはずだ。
「じゃあ……マデレーン様は……いない?」
カレンちゃんは無表情にも影を落としてそう言う。彼女には、わたしの家に来たときに色々と打ち明けた。地下室でお姉さんに襲われたことも。
「お姉さんがいないっていうのは、おかしいよね。今日はわたし達の付き添いで来たはずなのに。だと、したら……」
「……でも、マデレーン様は、風属性……」
「そうだよ。アルフの記憶だってなくせるはずない。やっぱりもう一人、誰かいるんだ」
その人物がお姉さんを操り、アルフの記憶を奪い、ニールを恐怖させ、そしてこの事態を……。
「……いや、でも……アルフの記憶は……」
アルフの記憶は『封じられている』。奥底に仕舞われている。決して、『消失』したわけではない。闇魔法によってではなくて、それは呪術によって。そう結論を出したはずだ。
じゃあどうして、今ここに闇魔法が蔓延っている? もしかして本当にお姉さんは関係なくて、たまたま席を外していただけなのか?
「もう、嫌……」
「ジュリアさん?」
か細い声が隣から聞こえてきて、わたしは結界の中で固まるジュリア達の方を向いた。血の気の失せた顔で、震えながら涙を垂らす様子は普通じゃない。気丈なジュリアがここまで泣くのは、多分そうないことなのだろう。
「大丈夫、ジュリアさん……」
カレンちゃんが、その震えた肩に手を置いた。けれども、ジュリアは青い唇を噛んで首を振る。
「……ちっとも、大丈夫じゃないわ……怖い、怖いの、わたくし。寒くて、凍えそうなの。ああどうして、息がしにくい……苦しいわ、助けて、お母様……」
「嫌だ……嫌、嫌、嫌、やだ、もう嫌だぁ……」
「助けてよぉ……」
完全なパニックに、わたしは思わず後ずさった。彼女達はついさっきまで、揚々と朗らかに愛だの恋だのと歌っていたはずである。それなのに、今はどろどろと汚泥のような涙を垂らしながら、恐怖にうち震えている。
そしてその手は全て、カレンちゃんに伸ばされるのだ。
カレンちゃんが光属性であるというのは、学園内では有名な話。だからこそオルブライト家の養子でも見劣りせず、またアルフとの仲も僻まれることがない。まあそれは、カレンちゃんの人柄なのかも知れないけど。
だがそのカレンちゃんは、光属性であるだけの少女である。体格は小柄で、わたしやジュリアよりも小さい。無口で、無愛想に思えるかもしれないが、中身は優しくて、闇属性でさえ受け入れてくれた。
――――今回だってそうだ。伸ばされる手全てに、カレンちゃんは嫌な顔一つしなかった。
カレンちゃんは、その小さな口を開く。薄く色づいた唇が、散々聴いた、それでも綺麗な歌を放つ。
「我が罪の随に、世を去るとも……」
それは、正しく聖歌だった。