74 鬼ごっこの先
それから数週間。
わたしは相も変わらずジュリアにしごかれ、カレンちゃんにこっそり聖歌を教わり、発表をなんとか形にしようともがいていた。実際進歩のほどはというと、微妙なところではあるが。
いや……あれはジュリアの飽くなき向上心の評であって、わたしからすれば、これでも充分上手くなったと思う。歌詞もなんとか覚えたし、あとは細かいところを修整していくだけだ。
全体的な声量や質はまだまだ改善中。空いた時間の練習には、カレンちゃんやマーシア。そして彼女らもいないときには、ジンくんに聴いてもらったりもしている。大概は、あまり頼りにならないけど。
しかしながらそういったことに一日の大半をつぎ込んでいるとなれば、当初の目的まで手が回らないわけで。
あの日から数週間も経ったというのに、わたしは未だに隣町へ到っていなかった。
「ねえー、今日も練習? 大丈夫なの? 僕はどうでもいいけど、きみが案内を頼んだんだよ」
ついに、あの人の都合なんかどうでもいいようなジンくんでさえ、わたしのスケジュールに口を出し始めた。心配している様子では全くないが、それでもジンくんが明言するほど、わたしは身動きがとれていない。
それもそのはずだ。
一日のスケジュールは、朝起きて練習、飯食って練習、授業のあとに練習、昼食、練習、練習、練習。自分でもビビるほどに練習しかしていない。
「心配しているんじゃなくて、呆れてるんだからね。分かってる?」
ジトっとした目付きで釘を刺された。まあ、その練習のうちいくつかは自主練なのだから、ジンくんが呆れるのも分かる。
ジュリアの厳しい練習に加えて、町に出たがっていた当の本人が一人で歌いまくっているんだから、ジンくんにはさぞ奇妙に映るのだろう。
わたしだって暇ができれば明日にでも、隣町で色々と調べたいという気持ちはある。だがこの発表だって、蔑ろにしていいものでもない。
「いやー、思えば誰かの前に立って発表するなんて、生まれて初めてなんだよ。失敗したらと思うと、なんか怖くて」
生まれる前にはいくらかあったが、それはプレゼンとか企画とかそういった堅苦しいことがほとんどで、まさか人前で歌うなんて考えたこともなかった。
そういう意味では、人に歌を聞かせるなんてほとんどなかったことだ。わたしが柄にもなく緊張してしまうのも、頷けることだろう。
なのに、ジンくんは相変わらずのジト目でわたしを冷たく見つめた。小さな唇を、上向いて尖らせる。
「そんな繊細な人間でもないくせしてぇ。どうせ、あの女の子たちにイイトコ見せたいんだ」
「いいとこって……そりゃまあ、練習付き合ってくれてるんだから、上手くなっとかないと駄目でしょ」
なんだかジンくんは不機嫌だ。いつもわたしをからかうので忙しい彼にしては、珍しい。
物珍しさにしげしげと観察していると、薄い手のひらがわたしの頬っぺたに張り付いた。
「なに見てんのさ。お金取るよ」
「うっわ、可愛くない。なんか機嫌悪そうだなって思っただけだよ」
機嫌の悪いジンくんは面倒だ。彼の中身は外見に反して成熟しているはずだが、こういうときばかりは子供そのものにさえ見える。
真っ白い頬を膨らませたジンくんは、わたしを睨みながらベッドでばたばたと足を押し付けた。
「すっごい暇なんだけど。女の子同士できゃっきゃと頭空っぽみたいにはしゃいじゃってさー、何? なんの毒もない女同士の馴れ合いなんて、僕が楽しめる要素が一つもないじゃん」
なんという極悪だよ。
わたしに友達がいることを素直に喜んでほしかった。
「町行こうよー、なんか面白いことしよーよー」
とかぶちぶちと文句を垂れながら、ジンくんはばたんばたんとベッドで暴れだす。埃が舞うから止めてほしい。
というか、退屈で不機嫌になるとか、本当に子供か。思わずわたしの方が冷たい目になってしまう。
「あいにくと、ジンくんのために生きてるわけじゃないんで……」
「言うねえきみ! じゃあ何のために生きてるの? 楽しいことを味わい尽くすためじゃないの?」
「それもどうかと思うけど……」
なんせ、人生楽しいことばかりじゃない。
それは前の記憶からもはっきり伝わってくる。前世のわたしと言えば、仕事以外では暇をもてあまし娯楽をかじり、無意味に時間を浪費して生きてきた。
挙げ句には病気で突然死。全くもって笑えない。そんな前世を垣間見るわたしに、人生について尋ねるのはよくない。
ジンくんはばたばたと手足を振り回しながら、ぶすくれた顔で口を閉ざした。
「む……」
まあ、ジンくんにも世話にはなってるんだよなあ。
わたしの数奇な運命はこの邪神によってもたらされたわけだが、それはいいとも悪いとも判断がつかない。前世の記憶、この世界の「シナリオ」たるゲームの内容。それらは毒にも薬にもなるが、わたしにとって欠かせない一部ではあるのだ。
それを与えたのは、紛れもなくジンくん。
ほかにも、あの日森の中で助けてくれたり、わたしにある種の忠告をしたり。彼はわたしの全面的な味方ではないが、間違いなく敵ではない。
「じゃあ、何がしたい? 町に行くのは、やっぱりちょっと待ってもらわないといけないけど」
「えっ……いいの?! いいの?! じゃあねえ、えーと!」
――――そして、わたしたちは校舎の廊下を疾走していた。
疎らではあるが廊下を歩く生徒たちの中を、全力で駆け抜ける。突如現れたものすごい形相で走る女子生徒に、皆は一様に驚いた顔をしてわたしを振り返ってくる。廊下は走っちゃいけません、なんて言葉が聞こえてきそうだ。
だが相手にできるほど暇ではない。震える膝を叱咤しながら、なおも真っ直ぐに廊下を駆けていく。息は苦しいし髪は乱れるし変な目で見られるし、良いことは一つもないが、それでも走り続けなければならないのだ。
後方から軽やかな足音が続く。
「きゃははは! 待ってよ!」
子供のような無邪気な笑い声を上げながら追ってくるのは、我らが邪神ことジンくん。
彼が提案したのは、鬼ごっこだった。
子供ってどうして鬼ごっこが好きなんだろう。ふと前世でも散々走り回ったことを思い出して、苦い気持ちになる。社会人とはいえ慢性的な運動不足だったわたしは、近所の悪ガキに付き合って散々な目にあったのだった。
鬼ごっこのルール。鬼から逃げ、タッチされたら鬼になってしまうというもの。そして今回ジンくんが提案したルールは、基本時間十分に加えて、わたしが捕まる度に遊ぶ時間を十分延長していくというものだ。
そんなことになったら死んでしまう。
なおかつ、ジンくんはこの校舎で走り回るということがどういう影響を与えるのか、微塵も考えていない。見知らぬ子供が高等部の校舎で駆け回る姿は、目立つことこの上ないのだ。
わたしにできることは、一刻も早くこの鬼ごっこを終わらせること。そのためならなんだってしてやる。
「……はあ、はあ、とはいえ、相手がジンくんだしなあ」
わたしを追うのは邪神。本気を出せば一秒もかからず捕捉されそうだ。
はしゃぐジンくんをどうにか撒いて、ここからどうするか考える。
現在位置は校舎の一階。時間は昼。生徒は基本的に授業を受けているので、廊下の人通りは少ないが教室へは入れない。
つまり隠れる場所が少ないってことだ。あのSAN値直葬モンスターの体力は未知数だが、わたしより低いってことはないだろう。万事休す。
「いや待てよ……空き教室……」
そう、全ての教室が授業に使われているわけではない。生徒数が少ないわりに豪華なこの校舎には、使われていない教室がいくつかあるはずだ……!
わたしは一階の階段付近から、生徒の声が聞こえない部屋を探しに駆け出した。さすがに開けて確かめるわけにはいかないので、ちゃんと確かめるには時間が掛かるがしたかない。
それに、できるだけ退路が確保されている方がいい。もう一方の階段付近、その辺りに空き教室があれば――――……!
「まずっ……!」
軽やかに爆走しているような足音。聞くだけである種の禍々しさを感じるそれは、間違いなくジンくんのもの。
まずい。階段付近というのが仇になったか。
このまま見つかれば――――いや、見つからなくとも逃げ道は廊下一本。直線では追い付かれる可能性が非常に高くなる。だからといって、ほかに逃げる道はないし、今から走ったところで見つからないわけがない。
まずい。まずい。こうしている間にも、足音はすぐに近くまで迫っている。
クソッ、頼む、開いててくれ!
確認する間もなく一番近いドアノブに手をかけ――――滑り込んだ。
「はっ、はっ、あっぶな……ッ!!」
鍵を閉めて、そのまま地面に尻餅をつく。
走ったわけでもないのに息が乱れて、心拍数の上昇がとんでもない。こんなのが十分、二十分と増えていくなんて、マジで嫌すぎる。
息を整えているうちに、爆走する足音が過ぎていった。抑えていた息を吐き出す。
「ふはー……」
「……何してるの?」
「うおっ」
後ろから掛けられた声に、肩を震わせる。ジンくんじゃないとは分かっていても、隠れている時にびっくりさせられるのは駄目だよね。
そっと振り向くと、狭い空き教室の椅子に座って、読書を嗜む見覚えある赤髪。
「あ、アルフ……さん」
長い足を組んだアルフは、呆れた顔で本を閉じた。
なんでこんなところに? 今頃は、授業を受けているものだと思っていたのだが。
「何かから逃げてるみたいだけど……ハリエット?」
「え、えー……これには事情が。聞きたいですか?」
「いや、別に……」
とかなんとか言いながらも、アルフの視線は本からわたしに移っている。これは話してくれる姿勢だろう。
というわけで扉付近からアルフの方へ移動しつつ、一応警戒はしておく。何せやつは邪神。ゲーム風に言うならラスボス、いやチーターなのだから。
「アルフさんは、ここで何をしているんですか?」
「俺は……読書だよ。ほら」
そう言いながら見せてくれた本の表紙は、擦り切れているが辛うじて文字が読み取れた。『聖書』って、これまたわたしとは相性の悪そうな本だ。
読書好きのわたしだが、聖書には手を伸ばしたことがない。その内容は魔法を学ぶ関係上、ちょっとだけは知ってるけど。
大雑把に言えば、光が世界を作ったとか、そういう感じだったような気がする。性善説っぽい内容だったかな。
この世界は優しくできているというのは、嘘に違いないが。
しかしアルフがそれをあらためて読んでいるのは、変な感じだ。
「こんなところで読書ですか。聖書を?」
「……ここは防音なんだよ。これを読みたくなったのは……ああほら、今度教会で聖歌を歌うんだろ? それでだよ」
「あ、カレンちゃんに聞いたんですね」
なるほど……。なんだか、アルフにまで知られてるなんて思わなかった。ちょっと恥ずかしい気もする。
この分だと、カレンちゃんと交流のあるヴィクターとサディアスにも漏れてそうだな。ユリエルは教師だから知ってるかも知れないし、ニールには発表があることだけ言ったけど……わたしが出るって知ってもどうせ来ないし。
うわ、一応皆知ってることになるのか。
「俺も行くつもりだから、頑張って」
待てよ。
それはちょっと困る。
「え?! 来るんすか!? 何で?!」
「何でって……カレンが出るんだよ。それに、教会にも行きたいし……」
ああ、そうっすね。よくよく考えれば、カレンちゃんが歌うのにこの男がついてこないわけがなかった。
だが困る。非常に困る。
アルフは記憶をなくしてから、わたしとそこそこに普通の付き合いをしているが。わたしとしては幼い頃から色々と暴走に巻き込んだ覚えのあるアルフだ。
そんな人の前で、淑やかに聖歌を歌う? マジで言ってんの?
知らない人の前ならいい。特別上手いわけでもなし、下手でなければどうせ美人揃いの中で陥没するだけだ。
だが知り合い、それも一番昔からの付き合いであるアルフ。わたしが偉ぶってきたサディアスと違って、彼には色々と情けないところも見られてきた。
アルフにその記憶はないが、わたしにその記憶がある。それが問題なのだ。
歌ってる最中にアルフの顔でも見つけてしまえば、わたしは過去の自身の行いがフラッシュバックして頭から湯気が出る。そんな状態で歌など歌えない。
例えるなら、イケイケのバンドヴォーカルを小学校の頃の同級生に見られる感じ?
「恥ずかしいから来てほしくないんですけど!!」
思わず、そんな言葉が口から飛び出してしまった。
百パーセントわたしの本心だけど。
きょとんと目を丸くしたアルフに、わたしは内心で頭を抱えた。