71 腹の虫
わたしの色恋騒動にもひとまずの決着がつき、ベッドでだらけていたときのことだ。同じくだらだらとした姿勢で、どこからか取り出した飴を舐めていたジンくんが、ふと思い立ったように言った。
「そういえば、結局きみはどうするの?」
「はあ?」
何が、と問いかける間もなく、ジンくんはぺろぺろと棒つきのキャンディーを舐めながら、目線だけをこちらへ向ける。
とりあえず、その美味しそうな甘味をわたしに見せないでほしい。甘いお菓子というのは、わたしにはなかなか手が届かないものなのだ。
「ボーッとして聞いてなかったね? お嬢さんが言ってたじゃないか、発表会の話」
「お嬢さんって、カレンちゃんのこと? うーん、はっぴょうかい……」
思い返してみよう。わたしはカレンちゃんに気づかされた恋心がひどくショックで、その後の話をろくすっぽ覚えていない。
確か、そうだ。カレンちゃんはわたしに話があって来たんだった。それの主な理由は森での一件だろうが、その後――――確かに、発表会の話を聞いた。
「やっぱり、人数が足りなくて……ハティちゃん、協力、してくれない?」
「……うーん」
「そんな、大きなものじゃなくて、興味のある人がちょっと、集まるだけだから」
「……うーん」
「……えっと、考えておいてね」
そう言って立ち去るカレンちゃん。数秒おいて慌てて見送りにいくわたし。
うん、全然話を聞いてなかったな! ごめん、カレンちゃん。あのときは脳髄がフルスロットルだったんだ。
なんとか断片を思い出したところで、そのことを問いかけたジンくんの方を向く。いつの間にか、飴はバリバリと噛み砕かれていた。なんという力業。
「って、いやあ、発表会ってあれでしょ? 歌のやつでしょ? む、むりむり」
蘇るのはジュリアたちの顔と声。いかにも複雑な表情で「微妙」と言われた完全素人のわたしには、発表なんて荷が重すぎる。
それにそもそも、声楽なんてのは貴族のものである。つまり当然、少数とはいえ見に来るのはお貴族様その人。ジュリアのようなえらい子の中に混じるわたし(しかも微妙)というのは、悪目立ちしないわけがない。
ぶんぶんと手と首を振るわたしに、ジンくんはけらけらと笑った。
「それはさすがに、お嬢さんたちも考えてるでしょ。それを差し引いても、人数が足りないことが問題なんじゃない? ほら、ハリエットって声だけは可愛いし」
「おい……だけ、ってなんだ」
「おっと失礼」
本当に失礼だ。わたしの場合、見た目だって充分可愛いぞ!
と、完全な自画自賛だが、本当にそこだけは客観視できてしまうんだよなぁ。ま、外見はね? 中身がどうかと言われると、それはまた別問題になってくるのだが。
それにこの学園は美人の集団ばかりなので、そう考えるとわたしも「そこそこ」「普通に」である。謙遜でなく。
「それはともかく、素人が混ざるのは出来映え的に無理だって。浮くし、不協和音だし、人数補充より問題だって」
「それは提案してきたお嬢さんに言ってくれないとぉ。僕はただ、ハリエットがどうするのか聞いただけだし」
ジンくんの言うことも尤もだ。こうやって彼と話し合っているより、本人に聞いた方が早い。
最悪、心苦しいがその場で断ってしまうという手もあるし……。カレンちゃんの頼みは極力叶えてあげたいのだが、いかんせん微妙な歌声を他人に披露するのだと思うと、心臓が縮む。
基本的に、わたしは繊細なのだ。そこを疑うなかれ。
「じゃあ、カレンちゃんに話に行こうかな。今は……授業中か」
外はまだ明るい。昼を回ったこの時間帯では、午後からの授業に出ているところだろう。
ベッドから起き上がって髪を手櫛で直すと、ちょうどお腹から小さな音が漏れだした。そういえば、まともにご飯も食べていなかったっけ。
凹んだお腹をさすりながら、立ち上がってチェストを漁る。帰省したときに買い込んだ服が丸々仕舞ってあるので、そのうちの一つを選んだ。
「またそれ」
「うるさい。いいじゃん、動きやすいし」
「まぁ……ったく変わらないなあ!」
わたしの手にあるワンピースを覗き込んで、ジンくんはやれやれと大袈裟に首を振った。そのまま、しゅるんと空気に溶けるように消えていく。
いくら少年の姿とはいえ、着替えの時やお風呂の時にジンくんが現れたことはない。言わなくても不思議と現れないのは、逆にずっと見ているからなのかとも考えたが、正直神様的なアレにプライバシーを語っても無意味だろう。
ジンくんいわく、わたしたちは極小のものらしいし。
この行動は、どちらかというとわたしを気遣ってのことだ。
まあ、たまに小学低学年特有の分かりやすーい無邪気な悪戯をされますが。テンションがまるきり子供なので、邪推すらできない。
ともかく、わたしは着ていた服を脱ぎ、手に持ったワンピースを頭から被った。お姉さんの用意してくれていた服は少々露出が激しかったが、これは完全にわたしの好みを追求している。
飾りのない、シンプルな詰襟のワンピース。色はまあ無難に水色だろうか。
露出が少ないって素晴らしい。
「……よし、じゃあとりあえず昼食、そんでどっかで暇を潰すか……」
服を着替え終わったとたんに、壁からひょっこりとジンくんが顔を覗かせる。
この絶妙なタイミング……やっぱり見てるんじゃないだろうな。だとして、どうすることもできないが。
世の中の悪霊にとり憑かれた人は、どうやって覗きを回避しているんだろう。
「校舎の食堂に行くんでしょ? 今日はねえ、芋のスープだよ」
「はいはい、今日もでしょ」
あと、地味に昼のメニューのネタバレをしてくるのも止めてほしい。八割スープだけどさ。
当然のようについてこようとするジンくんを睨み付けながら、部屋の鍵を閉める。ジンくんは無論、壁を通り抜けてどや顔で付いてくるわけだけど。
視界の端でひらひらふわふわしている白色を鬱陶しく思いつつ、目指す先は校舎の食堂だ。別に、空いているだろうし女子寮の方でもいいのだが、そのあと時間を潰すことを考えると校舎の方が良いだろう。図書館あるしさ。
日の差し込む廊下を進んでいくが、当然人の姿はない。この時間はみんな授業に出ているのだろう。もとより、女子生徒というのは数が少ないし。
その分、わたしが人の目に触れないのだからいいことだ。
「ん、ハリエット。あれ……」
「どうした?」
ちょうど入り口まで来たところで、ジンくんが隣に降りてきた。わたしより背の低い彼の指差す先を見つめると、誰かが立っている。
誰なのかはすぐに分かった。
「あれ、ニール!? ちょ、なんで?!」
「よお」
黒ずくめの服に身を包んでいる人物を、彼以外に見たことがない。
慌てて駆け寄ると、ニールはまるで何もなかったように右手を挙げた。わたしの顔を見ても、いつも通りのぶすくれた表情だ。
ユリエルの話や、森での一件、果てはわたしの家に来たときのことや昔のことまでもがわたしの脳内を回る。ニールが犯人を知っている。ニールが隠したいこと。ニールの秘密。わたしが彼を好きなこと。
気がつけば勢い余って、ついタックルをかましてしまっていた。
「うっ……」
片腕を構えて、肘を鳩尾に突っ込むところまで考えたフォームだ。自分ながらに恐ろしい。
しかしながらニールも分かっていたように、わたしの片肘を手のひらで受け止めていた。殺しきれなかった衝撃は、しっかり伝わったようだが。
「て、テメェ……会って早々これかよ……」
「わーごめん! つい! びっくりしすぎて!」
「テメェはびっくりしたら肘打ち食らわすわけェ……?」
ニールの恨みがましい目がわたしを貫く。その綺麗な紫色が存外に近くて、わたしは慌ててニールから離れた。ジンくんのブーイングが聞こえたような気がするが、無視する。
ていうか、好きな人に暴力を振るうってどうよ? 世の中には暴力ヒロインなるものが存在するというが、それは照れ隠しの延長線上――――つまりツンデレの一環らしい。
わたしのこれはただ単に普通の暴力なんですけど。
あらためて自分の恋愛偏差値の低さに戦慄しながら、わたしはニールを怖々と見上げた。これで嫌われたりするのか。
「ったく、何しでかすか分かったもんじゃねーなァ」
「ご、ごめんね……」
ぶつぶつと文句を呟くニールに、わたしは項垂れるほかない。
いつもなら単純に、そんなニールに「貧弱だなあ」と笑って終わりだったのに、今のわたしは変だ。ニールの一挙一動がどうにも気になる。
そんな変化はニールにも伝わってしまったのか、彼は眉を寄せて首を傾けた。そんな彼に何かを問われると、困る。今のわたしに上手く誤魔化せる気はしなかった。
「あー、で、それで! ニールはどうしてここに? 女子寮の前じゃん、ここ」
話を変えるべくそう言うと、ニールは若干嫌な顔をして周りを見渡した。女子寮の前にいるというのは、例え教師でもいささか居心地が悪いようだ。
ちょっと可愛い。
「変態だとかいうんじゃねーぞ。この時間、いるのはお前くらいなもんだろ」
「……つまり、わたしに用が? わざわざ来てまで?」
「まあなァ。ちょうどよく出てきて助かったぜ」
てっきり、「テメェのためにわざわざ来てやったんだから労えよ、おら存分に」とか言うのかと思ったのに。ニールは微かに自嘲して、ポケットに突っ込んでいた手でチョーカーを弄った。
こういうときのニールというのは、何か言いたいが言いづらいという心境だ。つまるところ、あまりいい話題ではないらしい。
暗い顔をしているニールというのは、あんまり見たくないな。
「何かあるならいつも通り窓から来ればよかったのに。そしたら、きっと窓から女子寮に忍び込む変態として――――んぶぅ」
「だ、ま、れ、クソガキ」
だから励まそうと、ちょっと軽口を叩いただけだったのに。
ニールの脳天締めがわたしの可憐な顔面を襲う。ぎゃりぎゃりと指が顔にめり込んで、今にも変形してしまいそうになっている。気がする!
ギブアップの意味を込めてニールの腕をタップするが、変態と言われたのがそんなに嫌だったのか、なかなか緩めてくれない。まだ、ニール自身の握力がそんなに強くないことが救いか。
これがサディアスだったら、きっとわたしの頭蓋骨は砕け散っているだろう。
しばらくして気がすんだのか、ぺっと捨てられるようにしてわたしの頭は解放された。すぐさま頬を抑えるが、多分変形はしていない。
「……うおお、顔がいてー……」
「……はぁ」
押さえつけていた手が痛かったのか、わたしの顔面を覆っていた手を見つめながら、ニールがため息をついた。
この扱いはあんまりだ。全くもって、仮にも片想いしている相手にされる所業ではない。
まあ、いつものような雰囲気になれたなら、これはこれで構わないけど。
わたしは乱れた髪を直しながら、ニールの肩をどんと叩いた。ともかく、彼の話を聞いてやろうじゃないか。ニールが背負い込むよりはずっといい。
「話が逸れちゃったけどさ。用件って何?」
「……ああ、そうだな……」
ニールが何やら考え始めた。すぐにほいほいと話せる内容ではないらしい。そういうところも含めて、わたしの予想は当たっていた。
このままここで棒立ちというのも、誰かに見られると目立つ。ましてやニールの姿は学園内でもなかなか見掛けないので、見ようによっては不振人物が女子寮の前をうろついていることになってしまうだろう。それだけならいいが、わたしという生徒がいる時点で、未遂ではなく実行犯だと思われでもしたら、目も当てられない。
そんなニールを助けるべく、わたしは彼の腕をちょいと引っ張った。
「よかったらさ、食堂でも行かない? 人が多い場所は駄目?」
「あ? いや、別に……?」
ニールの戸惑いの声と同時に、わたしのお腹からクークーと、何かがか細く鳴く声がした。まるで餌を待つ子犬のような。
だが、あくまでも食堂へ向かうのはニールの話のためである。わたしの腹の虫が鳴り止まないからではない。断じて。
しばらくの沈黙ののち、ニールが黙って背を向ける。足を向けている先は、校舎の方だった。
……好きな人にお腹の音を聞かれるというのは、セーフだろうか? ジンくんの「アウト」という叫び声が聞こえたような気がするが、無視する。
ひ、昼飯食べてなかったから、仕方ないよね?