68 先生は優しい
ゴールを認識してしまうととたんに気が抜けてしまうもので、学園を見上げてから、わたしの足はなお一層重くなっていた。のろのろとした亀の歩みだったが、ジンくんはわりと機嫌がいいらしく、それに文句を言うこともない。黙って手を引いてくれている。
そしてわたしたちは、ついに森を抜けた。
「ふおお……着いたあ……」
「ハティちゃん!」
森を抜けた先に待っていたのは、予想外の人物だった。
というかまあ、呼ばれた感じからしてカレンちゃんでした。
駆け寄ってきたカレンちゃんは、わたしの肩を捕まえてがくがくと揺さぶる。
「どこに言ってたの、すごく心配したよ、誰も知らないって言うし、魔物は騒いでたし……」
「お、おう、おう、ストップ……」
普段の無表情な様子からは、考えられないほどの剣幕だった。
わたしは必死にカレンちゃんの手を掴んで、なんとか落ち着ける。髪はぼさぼさだし、脚はがくがくだし頭はこんがらがっている。対してカレンちゃんには、目立ったことはないようだった。
「ああっ、良かった! 見つかったんだね!」
「先生!」
髪をぼさぼさにしたユリエルが、わたしを見てずり落ちた片眼鏡を直した。身に纏う白衣はぼろぼろで、ところどころ枝が引っ掛かったままになっている。
ユリエルは大きく安堵の表情を浮かべると、にっこりとしてカレンちゃんの肩を叩いた。
「ほら、ハリエットちゃんは大丈夫だったでしょう? お友達にも知らせてあげなさい」
「はい……! ハティちゃん、あとで、聞きたいことあるから」
「う、うん」
カレンちゃんは真剣な顔でそう言うと、学園の門の方へぱたぱたと駆け出して行ってしまった。残されたのは、わたしとユリエルと――――あれ、ジンくんいないし。
繋いでいたはずの手は空を握りしめていた。いつの間に。
呆然と手をぐっぱーしていると、目の前のユリエルが突如膝を折った。
「ちょ?!」
ユリエルは両膝を地面につけ、同じく地面に着いている髪も白衣の裾も気にも留めていない。
ただ、その深緑の瞳はこっちを真っ直ぐ射抜いていた。
ユリエルはわたしにあの石の入った袋を渡した張本人だが、こちらを見上げるユリエルに悪意は感じなかった。が、何やら深い懺悔の気持ちをもって、わたしを見つめているような気がする。
「先生? どうされたんですか」
「……ハリエットちゃん。私はきみに謝らなければいけない。私は……所詮はまだ若造だとか、見た目が良いからだとか、学会の老いぼれにはどれほど無能かと馬鹿にされてきた。だがね、自身が本当にそうだとは思ったことがなかったんだよ」
ユリエルは勢い込んで話し出す。
いつも電波で軟派なことばかり言っているが、これでも中身はそうとう優秀である。そんな風に馬鹿にされているとは、思いもしなかった。
いや、馬鹿にされているのではなく、それは僻みというものか? ユリエルは確かに見た目も良いし、ちょっとやりすぎだが社交性もある、そして学園を飛び級合格ののち、教師にまでなっているのだ。老いた身からすれば、まだ若く成長性のあるユリエルは、さぞや羨ましいことだろう。
ユリエルの一端しか知らないわたしだってそう思うのだから、本人が自分を「無能」だと思わないのは普通のことだ。
「だけどね、私は今ほど自分を無能だと感じたことはない。すまないね、本当に」
目を伏せたユリエルは、ぽつりとそう言って項垂れた。
わたしは困惑して、意味もなく視線をさ迷わせる。
だってまず、ユリエルは何に対して謝っている? それが分からないので、目の前の彼にもなんとも言えない。
あの石のことだろうか、とは思うが。てっきりユリエルは、あれを知らぬままわたしに渡したのだと思っていたのに。
わたしは彼と目が合うようにしゃがみこんで、その顔を見上げる。
「どういうことです? 先生。あの石のことですか? それとも何か、あるんですか」
「……あの石はね、特殊な魔石でね。魔力を纏うことができる。それを応用して、あれには魔法を組み込ませてもらった」
無意識的に、胸元に手がいく。そういえばニールに買ってもらったペンダントは、魔力を貯められるものだった。あの石は、これと同様のものを使っていたのか。
そして、ユリエルはそれを知っていた。いや、むしろ……。
「作ったのは、私。大変だった。でも、充実感はあったよ。私は自分の作る魔術具が、何かの役に立つことが一番嬉しいんだ」
「でも、あれは……あれは、確かに役に立ったでしょうが。いったい、誰の役に立ったのだと思いますか?」
わたしではない。ニールでも、ジンくんでもない。カレンちゃんはわたしを心配していたし、あの分ではサディアスやアルフたちにも迷惑をかけたに違いない。
誰の役に立ったのかと言えば、そんなもの。
わたしは今更ながらに、ユリエルに対してずいぶんと容赦のない問いかけをしてしまったと思った。案の定、ユリエルは視線を地面に落とす。
「……マデレーン様だね。あれを渡すように言ったのは、間違いようもなく彼女だった。なら、あの人の役に立ったのだと思うしかない」
やっぱり、そうか。
その名前が挙がったことに、もはや驚きはなかった。わたしはその先の人物が知りたいのだ。
マデレーン様と繋がる、アルフの記憶を沈め、ニールに関わる非道な人物が誰か。
そんな冷静なわたしとは違って、ユリエルは大層にショックを受けているようだった。あの石が決して良いことに使われなかっただけでなく、尊敬しうるべきお姉さんが画策したということに、呆然としているのだろう。
迷ったけれど、そっとユリエルの肩に手を乗せる。
「お姉さんは犯人じゃないと、わたしは思っています」
「……そうだね」
「気休めじゃありません。お姉さんのほかに、誰かいるはずなんです。絶対に」
ぎっと音がなるくらいに、肩を持つ手に力を込める。これは絶対の話だ。
「わたし、それを調べているんです。今回のことだって、先生のことともお姉さんのこととも、思っていませんから。マデレーン様は、犯人じゃありません」
ユリエルは弾かれたように顔をあげた。長いまつげには涙が絡んでいたが、表情に悲壮の色はない。
「本当に? 証拠が?」
「必ずです。むしろ、あのお姉さんがこんなことする意味があると思いますか? わたし、お姉さんとは仲が良いと思うんです」
ユリエルは唇を戦慄かせ言葉にならない様子だったが、大きく何度も頷いた。やはり端から見ても、わたしとお姉さんは親しかったのか。
当たり前だ。何より、わたしはあの人のことを嫌いだと思ったことがない。
わたしの言葉に思うところがあったのか、ユリエルはずれた片眼鏡を外すと、勢いよく立ち上がった。肩に掛かっていた手はいつの間にか握り込まれて、強引に引っ張り立たされる。
「そうか、そうか、そうだね。そうだよね。いけないな、私としたことが。うっかり骸の囁きに微睡んでいたよ。あれが笛を吹くことは分かっていたのにね。ありがとう、白猫ちゃん」
おう、いつものユリエルだ。その発言の意味は理解できないが、うんうんと頷いておこう。
急速に元気を取り戻したユリエルは、あらためてわたしに向かって謝罪の言葉を吐いた。さっきとは違って表情は晴れやかだが、やはりどこか疲れも見える。
「ごめんね、ハリエットちゃん。あれを作って、きみに手渡した者として謝罪するよ」
「いいえ。それより探してくださったようで、ありがとうございました。枝がついてますよ」
きっとユリエルは、わたしがいなくなったあとに森を探してくれていたのだろう。先生としては当然のことなのだろうが、こうして苦労のあとが見えると感謝したくなるものだ。
髪や白衣についた小枝を払うと、ユリエルは今度こそいつものようににっこりと笑った。
「ありがとう。きみは本当に、天使のようだね。指の先まで美しい」
ゲロ甘のクソみたいな台詞を吐かれた。それはお礼にはならない。
おまけに、握り込まれたままだった手の指先に、薄い唇が当てられた。
「ひぃっ!」
ぞぞぞっと背筋を駆け抜けた冷たい感覚に、急いで手を引き抜く。触れるか触れないか程度で、唇の感覚はほぼなかったが、大袈裟なリップ音が耳にこびりついている。
貴族の間では、こんなのは序の口であることは知っている。これは挨拶レベルの行いで、手と手を取り合って体を密着させダンスに興じたり、ハグしたり、甘い言葉を囁きあったりするらしいじゃないか。
だけどそれはわたしには関係のないことである。断じて。ええ全く。
見るぶんにも読むぶんにも構わないが、実際それをわたしが体験するのは駄目だ。なんでかって、よく分からないがぞぞぞっとなるのだ。
「あっはっは、手厳しいなぁ」
「や、止めてくださいよ。こういうのは」
「ほんの感謝のつもりだったんだけどなあ。あ、私の方が得をしてしまったみたいだね?」
「もういい、もういいですから」
わたしの反応がそんなに面白かったのか、ユリエルは心底楽しそうに微笑んだ。
こんなことを、きっと世の中の女の子みんなにやっているに違いない。この先生近々刺されるぞ、マジで。
恨みを込めてじっとりと睨み付けながら、口付けられた指先は服の裾で拭っておく。そういえば、わたしの服もかなりぼろぼろになってしまった。
「着替えないと……いや、そうだ、何かこのあとしなければならないことはありますか? なければ、部屋に戻りたいのですが」
「ううん。今回のことは私の責任だからね。きみはゆっくり休むといい。……と、その前に、悪いけどちょっといいかい?」
ユリエルは真面目な顔になって、わたしをぐっと抱き寄せた。さっきの今で何ということを! と慌てたが、ユリエルは真面目な顔で周りに結界を張る。
どうやらふざけているんではないらしい。
二人がぎりぎり入るくらいの結界を確認すると、ユリエルは体を離して、わたしの頭から白衣を被せた。
「ごめんね、いきなり。まだ話したいことがあってね」
「いえ……こんなに警戒することですか?」
「うーん……念のためだね。きみも、まだ犯人は分からないんだろう?」
さっきの話から、ユリエルはマデレーン様のほかにいる犯人について、よほどの人物だと考え付いたのだろう。わたしに白衣を掛けたのは、あの石がわたしに持たされたものだからか。
ユリエルはしきりに学園の方を確認しながら、わたしに顔を寄せた。
「さっき、黒い男から声が届いた。私の魔術具でね、声が届くものがある。何人かの職員は緊急時のために、これを持っているんだ」
ユリエルが髪を掻き分けて指したのは、耳飾りだった。その見覚えのある形に、すぐにニールのピアスを思い出した。
王都にいたころ、あれでお姉さんと連絡をとっていたのを見たことがある。ユリエルも持っていたのか。
「あの、それ……というか、黒い男って……」
「名前は知らないんだ。マデレーン様の知り合いで、古い魔法をよく知っている」
うーん、もしかしてニール。
ニールは魔術具の開発もしていると言っていたし、ユリエルと知り合いの可能性もあるなとは思っていたが。まさかニールの言う「クソキモい男」がユリエルであるなどとは、信じたくなかった。
「でね、あの石に留めた魔法は、私のものではないんだよ。もう一つ、彼と作った腕輪の方は私の魔法を入れたが、石は調整しただけだ。どんな魔法だったか、分かる?」
つまり、それが犯人にたどり着くヒントになると言いたいわけか。
わたしは必死にあの時のことを思い出す。あれは気づいたジンくんがすぐに割ってしまったし、あのあとの展開で頭がいっぱいいっぱいだったせいで、うまく覚えていない。
「確か……認識を阻害するような暗示と、あととにかく魔物が寄ってきましたね」
「それはこっちまで分かったよ。魔物が一斉に同じ方へ駆けていくんだもの」
「それで異常が分かったんですね。あとは、操るものだとしか」
ジンくんが言っていたことをそのまま伝えると、ユリエルは難しい顔をした。
いつの間にか、外していたはずの片眼鏡もつけ直している。ある方が安心するのだろうか。
「精神に働きかけるものとすると……いやでも、黒い男の仕業ではないだろう。あれはきみの危機を知らせてくれたわけだし」
「えっ……そ、そうなんですか?」
何やらぶつぶつ言っているユリエルに、つい反応してしまう。
黒い男というのが、十中八九ニールであるからか。ニールが動く先に犯人がいるはずなのだから、こう反応してしまうのも当然と言えば当然だ。
ユリエルは気にすることもなく、こくりと頷いた。
「うん。あの石の効果、それによる状況、それに巻き込まれたきみのこと。いつもとは違って底冷えするような声だった。だからこそ、私はあれの言う通り、マデレーン様が命じたことに疑問を持たなかった」
わたしたちが別れたあとに、ニールはそんなことをしていたのか。
だからこそ、ユリエルは生徒たちを避難させ、わたしの無事に安堵し、お姉さんの所業に深く絶望したのだろう。あの石をわたしに持たせた時点では、あの石の効果も、それによって起こることも、無論あれがあの袋に入っていることすら知らなかった。
もし、ユリエルにそれを知らせたのがニールだとしたら。
「その黒い男というのは、先生に勘違いしたままでいてほしかったんでしょうね」
何も、わたしを心配してユリエルに連絡したのではなかった。
黒い男は、アルフたちへの説明の時のように、わざと犯人を遠ざけている。情報操作のためのことだ。それが何のためかは、憶測でしか言えないが。
……なぜか少し、寂しいような気がする。
ニールに秘密があることは初対面から知っていたし、それを聞かないことにしたのはわたしだ。なのになんで、こんなに気分が良くないのか。
ニールのことを思い出すと、こうやって少し苦しくなる。前まではそうじゃなかったのに、いったいいつからだろう。
わたしの顔を覗き込むと、ユリエルはなぜか頭を撫でてきた。