65 森の中
「え、えええ……」
わたしの口から溢れた困惑の声は、風に揺らされる木々のざわめきに掻き消されてしまった。
こういうことは慣れているはずだが、それでもやっぱり心細い。特に、今はあいつがいるわけではないのだ。
わたしは何とか落ち着こうと深呼吸をして、隣に佇んでいる男子生徒を見上げた。心細さからか、手が勝手に彼の服を掴む。
見上げた男は、やはり綺麗な顔で、わたしを静かに見下ろしている。
「え、何、トイレ?」
……本当に、どうしてこんなことになってしまったのか。
わたしは心の涙を堪えながら、現実から逃げようともがいた。隣で無神経なことを言い出すこいつは、もはやどうでもいい。
ああ、本当にどうしてこうなった。
ジンくんの背丈がにょきにょきして大騒ぎした日からしばらくして。ついに野外実習の時が来た。
カレンちゃんにも参加の確認をしたが、貴族であるにも関わらず、やはり彼女も参加するらしい。カレンちゃんが家柄にものを言わせるわけないので、当然と言えば当然だ。
そしてカレンちゃんが参加するとあって、勿論あのシスコンも参加だ。カレンちゃんの攻撃能力がないに等しいので、あのチートと足して二で割ってちょうどいいかもしれない。
「ユリエル、ヴィクター、サディアス、アルフ、カレンちゃん……全員だなぁ」
朝、外に並んだ生徒たちの中から、ゲームのイベント通りの五人を発見する。わたしとカレンちゃんの他は、四人を含め見事に男ばかりだ。
ユリエルは引率の先生的な立場だが、他の三人はカレンちゃんと行動を共にする確率が高い。
万が一があるとしても、あの三人の誰かが側にいるなら大丈夫かもしれない。というか、三人全員が固まっているとオーバーキル気味ですらある。
あれ、わたし要らんくね? ……いや、今回の目的はストレス発散だから。
「はーい、じゃあみんな。男ばっかりでむさ苦しいけど、頑張ろうね。これおまけ」
とかなんとか軽いことを言いながら、ユリエルは集まった生徒たちに荷物を配布していく。お金持ちの生徒は自分の私物を自慢げに腰に差していたりするので、これは本当におまけなんだろう。
近づいてきたユリエルは、わたしに気づくと頬を緩ませた。少し前から隈もなくなっているし、調子はいいようだった。
ユリエルは持っていた袋を探って、赤い紐のついたものをわざわざ選びとった。
「はい。子猫ちゃんにはこれ」
「どうも」
片眼鏡の向こうでユリエルがウインクをする。
不思議と、彼の発言にももうだいぶと慣れていた。これは脳がとろけてきている証拠かもしれない。やっぱり鍛えねば。
ユリエルのウインクは別だが、指輪とペンダント、使い古しの短剣しかないわたしにとっては、ありがたいおまけだった。
「じゃあ、今から森に入るから、最低二人以上で固まってね」
うわ、出た。グループ作ってください的なやつ。
わたしは自分の顔がひきつるのが分かった。フラッシュバックさながらに、体育教師が偉そうに叫ぶその言葉が蘇る。
広い体育館に佇む、一人のわたし。
頭を振ってそれをなかったことにして、わたしは配布された短剣をベルトに固定した。他に入っている道具や食料は、同じくベルトにぶら下げる。
それから顔を上げて周りを見渡せば、わたしの周りを離れるようにして生徒が固まりつつあった。
やべえ。これではまさかの二の舞だ。
「え、えっと、カレンちゃ……」
「おはよう、いい朝だね」
ん?
カレンちゃんの方へ伸ばした手が、誰かにがっしりと捕まれる。それと同時に、馴れ馴れしいが、聞き覚えのあるようなないような、不思議な声がかけられた。
見上げると、にっこり微笑んだ見慣れない男の姿。
「さ、行こうか」
「……は?」
手をやんわり引っ張ってくる白髪の男に、わたしは口をただただ開閉させるだけだった。
見慣れない、だけどどこかで見たような、具体的にいうとちょっと前にいきなり少年から青年になってわたしに恐怖をもたらした邪神。
白い祭服をシャツに、渦巻く瞳を茶色に変えたジンくんの姿に、わたしはものも言えなかった。
「ちょ……ちょっと」
「どうしたの、ハリエット。僕だよ、いつものようにジンくんって呼びなよ」
いつかと同じ台詞を吐きながら、ジンくん(青年バージョン)はぐいぐいとわたしの腕を引いて、何故か進む生徒たちの最後尾まできてしまった。カレンちゃんたちはユリエルの後ろ、つまり一番前なので、かなり離れてしまっている。
ぱっと離された手に噛みつくように、ジンくんを睨み付ける。
「ちょっと、なんかもう色々聞きたいことが多すぎるんだけど」
「どうぞ? 何でも聞いてよ。スリーサイズ以外なら答えるよ」
ジンくんはわたしの困惑なぞお構いなしに、木漏れ日に照らされる白銀の髪を払った。
森に佇むジンくんはめちゃくちゃ絵になるが、そんなポージング決めてる場合ではない。他の生徒に遅れないように歩を進めながら、わたしはこっそりと囁きかけた。
「まず、なんでここにいる」
「きみが独りぼっちで可哀相……っていうのは冗談として。なんか、怪しいんだよね。さすがにきみ一人は危ないかと思って」
「あぶない……?」
「まあ、僕の気のせいならいいんだけどねえ」
ジンくんの気のせいって、そんなわけない気しかしない。神様的なやつのくせに、気のせいってまさか。
つまり逆に言えば、十中八九怪しいってことか。わたしはとっさに前方に目をやって、彼女の姿がうまく見えないことに苛立った。
「じゃ、なおさら前に行かなきゃ。あの三人がいれば余裕だとは思うけど……」
駆け出そうとしたわたしの腕を、またジンくんが掴む。その力はやはり外見に引っ張られるのか、少年の時より強い。
ジンくんは笑いながらも、言い聞かせるように首を振った。
「むしろ、危ないのはきみの予感がするんだ。あと、さっきから翠の髪の子が怖いから行きたくない」
「翠の髪ぃ? って……」
姿は育っても、子供のようにいやいやするジンくんに、わたしは肩の力が抜けた。
なだめつつジンくんの目線を辿れば、そこに憎々しげにこちらを睨み付ける男子生徒を発見。確かに翠の髪で、着ている服は実戦向きとは思えないほどの装飾にまみれている。
「ああ、ギータ……」
こいつも育ったなあ、というのがわたしの感想だ。何故かもう何年も睨み続けられているので、その目付きに関しての恐怖はない。
ギータは背が伸びて、今では取り巻きより少し出るくらいにはスタイルがいい。あの初対面でのぽっちゃりが見る影もなかった。
わたしは微笑んで、ジンくんに目を戻す。
「大丈夫でしょ。あんまり何かされた記憶ないよ」
「いやぁ……僕、馬に蹴られたくないし」
「いや、徒歩じゃん」
「うーん……」
姿が変わっても、ジンくんとわたしの会話は全くもっていつも通りである。
なんというか、ジンくんは大人って感じがしない。わたしより長く生きているんだろうけど、不思議とわたしの中では少年のままだ。
近所の悪ガキ、ゆーくんに似てるからかもしれない。
わたしたちは普段部屋にいるときのように、全く緊張感のない会話に花を咲かせていた。
そこでふと、わたしは勘違いに気づいた。
「ね……待って、ジンくん。道、そっちじゃないよ」
「え?」
森の道は整備されているわけではなく、分かりにくい。だから先頭のユリエルに従って、前の生徒についていかなくてはならない。
どうやら、わたしたちは話しているうちに、少し道を逸れてしまったらしかった。みんなの足音は、少し向こうから聞こえてくる。
「こっちこっち。早くしないとはぐれちゃう」
さっきとは反対に、今度はわたしがジンくんの手首をとって歩き出した。こういうところを歩くのは、王都のうちに慣れてしまった。
さくさくと草を踏みしめて歩いていけば、しばらくしたところでジンくんが足を止めるように、わたしの腕を引っ張った。早く行かないと迷子になってしまうのに。
振り返ると、ジンくんはわたしを凝視していた。気持ち悪さに思わず手を離そうとするも、いつのまにかがっちり掴まれている。
「……それだ。その腰のやつ。外して」
「え? ちょ、ちょっと!」
ジンくんは強引に、わたしの腰にある赤い紐の袋を奪い取った。一気に逆さまにして、そのまま中身を地面にぶちまける。
固形の食料やらナイフやらが飛び出していく中で、最後にコロンと何か塊が飛び出した。ジンくんは分かっていたように、その塊を手で受ける。
「え、なにそれ?」
「んー……とにかく色々まずいかな」
ジンくんは手のひらにある毒々しい色の石を見せてくると、それをぱきりと簡単に砕いてしまった。
その欠片まで足で踏み潰すと、きょろきょろと辺りを確認し出す。わたしはその行為にやっと、さっきまでの行動がおかしいことに気づいた。
「こ、ここどこ? あれ、わたしなんで……」
ジンくんの腕をぐいぐい引いて自信満々に歩いてきたわけだが、周りには生徒の一人もいない。
当たり前だ、さっきまでは普通に歩いていた。道からわざわざ逸れたのはわたしだからだ。
なんで勘違いだと思ってしまったのか、まるで分からなかった。
周りは木々に囲まれていて、日差しでさえ途切れ途切れだ。ざわざわと揺れる音に紛れて、何かの鳴き声がする。
「え、えええ……」
迷子なう。
ジンくんが言うには、あの石がまずかったのではないかということだった。
確かに、何となくぼんやりしていたというか、視野が狭くなっていた気はする。それも唐突に。いきなり。
「でも、それだけじゃすまないよね。一応砕いたけど、多分もう……」
不吉な呟きに、わたしの背中には一筋の汗が伝った。
それと同時に、がさがさと不自然に草木を揺らす音。
「うわっ」
「やっぱり来たか! 逃げるよ、ハリエット!」
イエッサー!
近づいてくる音に目を向ける間もなく、ジンくんに引っ張られる。わたしたちの足音とは明らかに違う音が、追いかけてきているのを感じた。
走りながらこっそりと後ろを振り返ってみると、爛々といっぱいついている目を光らせた魔物の姿。
「しかも一体じゃすまないし!」
「こら、振り返ってないで走ってよ!」
がさがさと揺れる音は、四方八方から聞こえてくる。あの石に導かれて来たのだとしたら、わたしたちがあの場所から離れるしかない。
とはいえ、魔物は何も、おんなじ場所から集まってくるわけじゃない。ジンくんはそれに遭遇しないように、うまく回って学園側に進んでいるようだった。
このまま行けば、魔物に遭遇することなく学園まで戻れそうだ。
「はぁ、はっ、はあっ……ちょ、ちょっと待って……」
ただ、わたしの体力がもたない。
ジンくんはわたしを振り返ると、愕然とした顔で叫んだ。
「はあ!? 貧弱すぎる! 止まれないよ!」
「うるっ……さ、はぁ、し、死ぬ……」
王都での生活は、もう二年くらい前になっている。帰ってきてからは、勉強に勉強に読書三昧で、ろくに外に出歩いてもいなかった。
だから、これも仕方ないことなんだ。
ぎりぎりと痛む喉と脇腹を誤魔化しながら、そんな言い訳を考える。説明する気力はないけど。
ああ、そういえば昔、こうやってアルフに引っ張られたりしたっけな……。あの熱い手のひらが思い出されると同時に、なんだか目の前が暗く……。
「ねえ、意識ある? 一応言うけど僕、戦えないよ。それでも止まる?」
「うそでしょ。マジか」
「マジで。人頼みってよくないよ。逃げるのは手伝えるけど」
ジンくんの発言に目が覚めた。
この少年(青年)が戦えないとすると、今まさに迫っている魔物の集団に、わたしが立ち向かわなければならなくなる。
正直無理。きついし、何よりここは学園近くの森の中。魔法を使ったら、誰かにバレる危険がある。となると短剣一本で仕留めなければならないが、いくら経験があってもこの数では無理に決まってる。
「……ひ、引っ張って、ください……」
「うーん。このままだと、どっちみち駄目かもしれないけど。ついてきてね」
「……」
走っても地獄、止まっても地獄。
わたしは震える膝に力を込めて、懸命に地面を蹴った。冷たい汗が頬から耳に流れていく。
わたしの荒い呼吸音と、魔物からとおぼしき変な声、草の擦れる音だけが延々と響き渡る。ごほごほと漏れた咳のせいで、余計に喉がひりつく。
目に入る風のせいで、涙がこめかみを伝っていった。
「あー……駄目だな、これ」
ぴたりとジンくんの足が止まる。
盛大な咳と共にしゃがみこむわたしの耳に、何かの唸り声が響いた。