62 一番かわいい子
重たい。
なのに、ユリエルはにこにこといい笑顔で、この教室の重たい雰囲気をものともしていない。さすが天然というやつか。
というより、重たいのは教室の雰囲気ではなくて、わたしの気持ちだからだろうか。気持ちというか気分というか、頭が重い。
カレンちゃんたちとの奇妙なお茶会の次の日、わたしはいつものようにユリエルとの授業に出席していた。
いつも通り、支度をして朝食をとり、少ない時間割りのために校舎へと向かう。ただ、小脇に抱えた本はいつもより数段、重い。
これがジュリアの想い……カレンちゃんの言葉を借りるなら、本気か。
「意外だね、ハリエットちゃんってそういうのも読むんだ」
「いえ……知り合いから借り受けたもので……」
教室に入るなりユリエルに手元の本を覗き込まれ、いい笑顔でそう言われた。わたしはただ愛想笑いを張り付けるのみだ。
わたしが授業にまで持ってきてしまっている本の数々は、魔法に関するものではなく、大衆向けの恋愛小説だった。
はたしてジュリアの私物なのか借りたのかは分からないが、ともかく部屋のも合わせると、ものすごい量である。
あのお茶会とき、うっかり本気になってしまったジュリアは、わたしに恋のいろはを教えるためありとあらゆる恋愛ものを貸し出してきたのだ。
「まずは知りなさい! そして見なさい! そうしたらその肌で、瞳が潤むくらいの愛を感じなさい」
とかなんとか言いながら、あのあとわたしの前にどさりと高く積み上げられた本たち。
様子を見ていたカレンちゃんとマーシアも、さすがに青い顔をしていた。これを見て瞳を輝かせられるほど、夢に生きてはいないらしい。
わたしはもう、黙って受けとるしかなかった。
確かに、読書は好きだ。恋愛ものも好きだ。
だからといって、自分の趣味も何も考慮されていない内容のものを、強制されて延々読むというのは、ちょっと問題があると思う。
しかしながら、貸されると読みたくもなるもので。結局、昨日は夜中までひたすらめくるめくロマンスの世界に浸っていたのだった。
ジンくんはこういうときに限って、どこかしらへ行ってしまっている。消えたという方が正しいか。時たまあることなので、気にはしない。
「それにしてもすごい量。よく読む気になるものだね」
ユリエルはわたしの手元から一冊本を抜いて、中身をパラパラと捲った。正直、ユリエルがいつも用意してくれる小難しい本の方が、よっぽど読む気がわかないものだと思うが。
それに、ユリエルはこの本に載っているような、歯の浮く台詞をさらっと言ってしまえるじゃないか。そう、女の子が「恋」してしまうような、そんな……。
「す、少し……勉強しようと」
「勉強?」
「ええ、その。人の感情というか、心の動きというかえーと……やはり肉体面ではなく精神面での理解が不可欠というか……し、心理的なものを、あ、そう、魔法関係にもいかせないかとですね!」
「うん、分かった。恋に悩める乙女は可愛いね」
まさか、このわたしが恋に関して考えているというのが妙に気恥ずかしくて、誤魔化そうとしたのだけれど。ユリエルは清々しいほどの笑みでわたしの羞恥を暴き出した。
思わず頬が熱くなるのを感じる。
こういうときにジンくんがいなかったのは、本当に幸いだ。今の瞬間を見られでもしていたら、わたしは悶死する。
「……からかわないでくださいよ」
「そういうつもりはないんだけどな。ごめんね」
頬を手で隠して睨み付ければ、ユリエルは慈愛に満ちた笑みでわたしを見下ろしていた。どうにもそれがむず痒く、いたたまれなくなる。
わたしは抱えていた本をさっさと机の端に退けて、どすんと勢いよく席についた。ユリエルの笑い声が聞こえてきたが、無視する。
「ごめんごめん、お姫様。さあ、今日もしっかり励もうか」
「……はいはい、先生」
片眼鏡の位置を直して、ユリエルは素直に授業に入った。未だにさっきの恥ずかしさは残っているが、わたしも何でもないようなふりをして授業を受ける。
いかんいかん、集中しなければ。ただでさえ、今はちょっと寝不足だ。
ユリエルが歩くたびに揺れる白衣を追いかけながら、わたしは必死に話を理解しようとしていた。
「――――この間言ったことだけど、魔力による肉体強化のことでね。あれは単純に魔力で補強しているに過ぎないんだけれど……そうそう、魔力量が多いと総じて老いにくく、これは肉体そのものが魔力によって――――」
目の前で、ユリエルがその細い腕に魔法をかける。見た目に変化はないが、今確かにその腕は強化されているはずだ。
……そういえば、ジュリアに貸してもらっている本の中で、教師と生徒のものもあったなあ。
あれは学園ものではなく、令嬢についた家庭教師との禁断のラブストーリだったけど。
終盤、愛の逃避行じみた展開になり、教師は生徒を横に抱き上げ、颯爽と館を走り抜ける。生徒は教師の腕の中で、感涙しながら愛を誓う。
実にロマンのある話だが、実際のところ教鞭をとっているだけの先生が、お姫様だっこで走るのはすごく無理があるんじゃないだろうか。ユリエルを見る限り、明らかに頭脳特化だ。ここまでとはいかなくとも、お姫様だっこで全力ダッシュは想像以上に辛いだろう。
ということはあれ、やっぱり強化魔法で腕を……。
「……ハリエットちゃん、帰っておいで」
「――――はっ」
ぱっと顔をあげれば、ユリエルが苦笑しながらわたしを覗き込んでいた。慌てて彼の捲る本を見れば、ページは三つほど進んでいる。
しまった。
「す、すみません。ちょっと、考え事を」
「もう。そんなに無防備だと、妖精に連れ去られてしまうよ」
「すみませんすみません」
いつもは軽く流せる気障な言葉も、今は冷や汗ものだ。ジュリアの恋愛小説が頭をよぎる。
くそ、こういうところで自分の記憶力を発揮されても困る。
額にかいた冷や汗を拭って、わたしはきちんと姿勢を正した。今度こそ、思考の脱線は避けたい。
そう思って至って真面目な視線を投げれば、ユリエルは何かを思いついたように目を瞬いた。
「そうだ、そういえばハリエットちゃん」
「はい」
「アレ、凄いよ」
アレ……とわたしが反芻すると同時に、ユリエルは白衣のポッケから金色の欠片を取り出してきた。その欠片に、相槌の声が出る。
ユリエルの持つ金色の欠片は、昔王都でよくわからない商人に貰ったものだった。
大切な人にあげるといいとかなんとかいう眉唾もので、ヒューにでもあげようかと思っていたのをすっかり忘れていたのだ。それで、どうせなら少し調べてもらおうかと、学園に戻ってからユリエルに預けていた。
「何か分かりましたか?」
「もう……もうね、凄いんだよ。分かるかなぁ……私の世界が今、無数の煌めきにを纏っていること」
分かりません。
ユリエルは艶かしいくらいにうっとりとした顔で、手のひらに収まる小さな欠片を見つめている。そういえば、さっきまで気もそぞろで気が付けなかったが、ユリエルの目の下にはうっすらと隈があった。
ということは、寝る間も惜しんで調べてくれたということ。そうするに値するものだったということか。
催促するように視線を向ければ、ユリエルは極上の笑みでわたしを自信満々に見返した。
「これが、私にもさっぱり理解できないものだったんだよ」
……おい。
今、椅子から転げ落ちそうになった。というかもう気持ち的には転げ落ちてる。
ユリエルは目を細めてわたしを見つめながら、愛を囁くヒーローの如く声を続ける。
「ああ不思議だね……今の魔術具とは根本から違うんだ。三日三晩再三調べても、これが守護の類いのものであるということしかわからない。このオレが、世界を知らぬ赤子のような有り様だ……」
なんか地まで出てるぞ電波ちゃん。暗黒微笑でふふふと笑いだしたユリエルに、少し危機感を覚える。
いつもと変わらないように思っていたが、こいつ相当無理してるんじゃなかろうか。三日三晩といいつつ、この分では何徹かましてるか分からない。
わたしは意識が妖精に連れ去られたユリエルから、こっそりと欠片を奪い取った。
「あの、ありがとうございました。悪いものでないなら、大丈夫です」
天才ユリエルにも分からなかったとはいえ、守護の何かであるらしいのは分かった。それなら、本当にあの怪しい商人が言ったように、大切な人に渡すべきものなのかもしれない。
あの商人はこの国の成り立ちがどうとかいっていたし、そういう古いものという線もある。オーパーツ的な何かということで、いいんじゃないだろうか。
「……ああっ、ちょっと待って! まだ調べたりないいーっ!」
「いえ、結構です、結構です。寝てください」
我に返ったユリエルをあしらいながら、欠片をポケットに仕舞い込む。天然軟派教師でも、さすがに服をまさぐったりはしない。
ユリエルは歯噛みしながら、未練がましくこちらを睨んできている。ぐしゃぐしゃと掻きむしられた黒紫の髪が、四方八方に跳ねていく。
筋金入りの研究者だなあ。
その様子が面白くてついつい笑ってしまうと、ユリエルがあからさまに頬を膨らませた。いつもの電波軟派のユリエルとは、大違いだ。
「……ハリエットちゃんだって、恋に悩んでるくせに」
「うぐっ」
痛いところを突かれて、変な声が漏れる。ユリエルの発言は明らかにからかいを含んでいて、またもや頭がかっと熱くなった。
不機嫌になりながら笑うという器用なことをしているユリエルに、わたしは眉を寄せた。
わたしにやり返す目的で、わざとその類いの話をするとは、許せん。恋だの愛だのは、今の私の中ではもっともデリケートな話題なのだ。
端的にいうなら、ぼっちが過ぎて耐性がない。真面目に考えるとなると、恥ずかしくなる。なるほど、これが思春期か?
……い、いや、恥ずかしいと思うから恥ずかしいんだ。
「じゃ、じゃあそう言うなら、先生に聞きますね。生徒の真剣な悩みです」
わたしは至って真面目に、恥ずかしさなど微塵もないように、一つの質問としてユリエルを見た。彼も彼で、先生という言葉にいくらか目が覚めたのか、普段とかわりない微笑を浮かべて頷く。
「いいよ。何かな」
「率直に聞きます。好きってなんですか?」
至って、真面目に、わたしは聞いた。この、こっぱずかしく青春丸出しな質問を。
前世ですら、こんな辱しめは受けたことがない。
「えーと、それって、好きな人ってこと?」
「はい。恋愛的な意味で」
やけくそ気味に頷く。
わたしはハリエット・ベルなのだから、もう前世のように人を人と思えないような繋がりの薄い人間ではない。性格こそ記憶に引っ張られているが、この心と魂はわたしのものだ。
だからこそ、恋も愛も、理解できるはず。画面の向こうの出来事だった心を震わせる恋愛も、この身で体感できるはず。
何が恋で、何が愛で、何が好きなのか。
さあ、わたしの悩みが晴れる答えを聞かせてくれ!
「私は、一番かわいい子が好きかな」
「お、女の敵!」
頭がイッてるときに聞くんじゃなかった。
隈がある上、目が座っているユリエルに、わたしは深くため息をついた。駄目だ、全く参考にならない。
一番可愛い子、が男の場合として、わたしからすれば一番かっこいい人?
確かに、ジュリアの小説では皆イケメンである。前世のゲーム、それこそこの世界の「基板」たるものでもそうだった。
でも、そもそも、かっこいいの定義はどこにあるんだ。顔なのか、全体なのか、言動か、生き様か。顔にしたって、趣味趣向が違えば価値観も違って見えるのではないだろうか。
うーん、一番かっこいいから、好き。
……ええ?
なにかが激しく間違っている、気がする……。
結局、その後の授業もぐだぐたとした話で終わった。ユリエルとの授業は実りもあるが、こうやって一度脱線すると戻すのは不可能に近い。
わたしは散らばった本を纏めながら、残りの借りた本をどう処理するか考えていた。校舎まで持ってきたのは、空いた時間にこれを読むためだ。わたしの取っている授業は少ないため、空き時間も十二分にある。
とりあえず、読むとしたらやっぱり図書館かな。
「あ、そうだハリエットちゃん。言い忘れてたことがあったんだけど」
「ん? はい」
本を小脇に抱えたところで、同じく本を整理していたユリエルから呼び掛けられる。
振り向いて見たが、彼は本棚を整理しているままだ。こちらからは、背中しか見えない。
いつも口説く準備万端とばかりに、目を見て話すユリエルにしては珍しいことだ。目を逸らされることなんて、あまりない。
あるとしたら、何かやましいことがあったときとか、はたまた都合が悪いときとかだったなあ……。
「今度、うちの授業を取ってる子たちで、野外実習があるんだよねぇ……」
段々小さくなっていく声に、わたしの目付きも鋭くなっていく。
ユリエルは忙しなく手を動かし続けているが、その多くが本をぐちゃぐちゃに並べ替えているだけのように見えた。きっと、彼は今ものすごく汗をかいていることだろう。
「ちなみに、不参加は」
「…………」
だんまりなユリエルに、わたしは悟る。
ああ、参加すか。そすか。