59 歌
その日、恒例のユリエルとの授業を終えたわたしは、てこてこと廊下を歩いていた。
高等部に進学したため、ユリエルの授業はわざわざ彼が出向く必要なく受けられるようになっていた。
もともとユリエルは高等部の教師で、わたしの他にも色々と生徒を受け持っていたりする。魔法の理論的な部分に関しては、天才といっても過言ではないほどの働きをすでにしているらしいので。
本人は風属性だが、属性にこだわることなく教鞭を振るっている。
わたしもそれに倣って、闇属性に関しての個別授業だけでなく、無属性系の魔法の授業も取ることにした。高等部はさらに細かい学科分けがされているので、いくつか学んでみたいものも見つけることができた。
無論、魔法系の授業しかとっていないが。
そんなこんなで本を抱えて、わたしは教室から出ていったのだ。
「……ん?」
ふと立ち止まる。自分の靴の音に交じって、何かが聞こえてきたような。
聞き逃さないように耳を済ましてみれば、やはり何かの声が聞こえる。声、というより、メロディーというか、音楽というか。
女性の声が多い。高く透き通ったラの音が、わたしの耳を撫でていく。
この歌、なんだろう。
わたしはもともと音楽とはほど遠い生活だし、まともにこの国の音楽を聴けたのは、王都の吟遊詩人が奏でていたものだけ。伸びやかに高音が連なるこの曲を、わたしは知らなかった。
思わず音の聞こえる方向へ足を進めながら、考える。確か、声楽とか、そういう科目もあったっけ。
あいにくとわたしは取らないことを前提にされていた(その通りだ)が、お嬢さん方ならば習ってもおかしくはない。
耳に心地いい音が近づいてきて、わたしは心持ち頬を緩めながら近づいた。
すると歌が途切れる。
「……ふはあっ、ジュリアさん、もう無理です……!」
「なに弱音を吐いているの。そんなことでは、発表会で大恥をかくことになるわよ」
「……でも、もう喉からから……」
……あの美しい音の裏では、少女の頑張りがあるらしい。音楽室から漏れてくる声に、わたしはぺたりとその扉に張り付いた。
端から見ればすごく怪しいだろうが、ここは校舎の突き当たりである。音楽室目当ての生徒以外に見られることはないだろう。
ぴったりつけた耳に、また少女たちの声が届く。
「お分かりかしら? ではもう一度だけね」
「ええっ……それ、さっきもそう言ったじゃないですかぁ……っ」
「喉、潰れる……」
聞く限りでは、そこまでの人数はいないようだ。それであの廊下まで聞こえるほどの声を出していたのなら、喉が痛くもなるだろう。
囁くような、不器用なしゃべり方の少女の言葉に同情しつつ、でももう一度歌ってくれないかなあとも思う。
音楽に触れられることは、平民のわたしにとっては貴重な機会なのである。
結局そのやる気に負けたのか、少女らはぶつくさ言いながらも合図によって歌い始めた。さっきと同じ、高音の綺麗な音楽だ。
歌詞はどうやら、とある女性の苦悩の様子を歌っている。失恋ではなく、片想いの歌だな。
その歌に目を閉じて、しばらく聞き惚れる。よほど練習しているのだろうそれは、学生とは思えない出来映えだ。
わたしも無意識に、そのメロディーを追ってしまう。貴方が恋しいと泣く歌。刹那の時間を惜しむ歌。触れ合う指先に愛しさを感じる歌。
その歌が、少女たちによって情緒的に歌い上げられていく。
恋だの、愛だのとは無縁のわたしにも、少しだけそのいじらしさが伝わってくるようだった。
「……さて、」
もっと聴いていたかったが、わたしはしばらくしてから立ち上がった。いつまでもここで不審者のごとく扉にへばりついていたら、さすがに不味い。
名残惜しさを覚えながら、わたしは寮へと帰っていった。
「ただいまー」
「おかえり、ハリエット。今日は機嫌が良さそうでなにより」
扉を開けた瞬間に、奥の方から憎たらしい声が返ってくる。案の定わたしのベッドの上で寝そべっている少年に、わたしはどっと肩が重くなるのを感じた。
部屋の主人が帰ってきても、出迎えもしない居候にじっとりした視線を向ける。
「誰のせいで毎日機嫌が悪いと思ってるんだよ」
「ええー?」
さも億劫そうに振り向いたジンくんに、一瞬本を投げつけてやろうかと考える。いかにもな笑顔は、知らぬ人からみれば可愛らしい少年にしか見えないのだろう。
しかしこいつは意地が悪く、ともすれば人を見下している節がある。というのはまあ、彼が純粋に「人間」ではないことの表れかもしれないが。
何を考えているのかちっとも分からないところが、なんだか気味の悪いやつだ。
わたしは抱えていた本を机に下ろすと、ジンくんを手で退けてベッドに腰かけた。
どうして持ち主であるわたしが、隅にちょこんと座らなければいけないんだ、まったく。
「それでぇ? 何か良いことがあったの?」
「まあねえ。良いことってほどじゃないけど……」
わたしは、さっき聴いた声楽に勤しむ少女たちの歌声を、ジンくんに詳細に説明した。
寝そべっていたジンくんは、のそりと起き上がるとわたしの隣に腰掛け直す。
「へえ。きみにも歌で感動するような殊勝な心があったんだね」
「うるさい馬鹿」
「ちなみに、どんな歌?」
息をするように人を馬鹿にしたあと、少年は無邪気に曲の内容について聞いてきた。
と言われても、ちらっと聴いていただけなので、歌詞を覚えているわけでもない。なので、辛うじて分かるサビの部分を、鼻唄混じりに歌ってみることにする。
そういえば、歌うのも久しぶりだな。
ヒトカラくらいしか歌う機会なかったもんなあ。
ふーんふふー、と余韻で締めると、わたしはいい気分で息を吐いた。歌詞もメロディーも適当だったが、なかなかストレス発散にはいいかもしれない。
隣で聴いているであろう少年に、どうだった、と向き直る。
「……」
ジンくんは微笑んでいた。
言えよ、感想を。
「……とまあ、こんな感じの恋愛系の歌だったんだけど……」
「ああ、うん。歌劇に使われていた曲じゃないかな。主役のための歌ではないけれど、そこそこ有名なものだよ」
わたしが感想を急かす前に、ジンくんは早口でそう言い募った。
歌劇――つまり、オペラということか。わたしはそういうのを見たことも聴いたことも全然ないのだが、貴族としては当たり前の感覚なのだろうか。
ジンくんがそれについて詳しいのは、良くわからないが突っ込まないことにする。
「なるほど……」
「まさか、きみが愛を奏でる歌で感動するなんて、ますます驚いたなあ」
「……」
「あいたっ」
わざとらしく目を見開くジンくんに、軽い蹴りを食らわす。
まだ言うか、こいつは。
わたしだって、柄じゃないとは分かっているが、恋愛ものは嫌いではない。そもそうではないと、乙女ゲーだのギャルゲーだのに手を出したりはしない。
今ここでわたしに恋愛のれの字もないのは、単純に技能不足である。あとちょっと境遇が足を引っ張っているかもしんない。
「じゃ、ハリエットは好きな人はいないの?」
無邪気な顔で、ジンくんはにこにことわたしの心の内に踏み入ろうとする。
わたしはその人形のように綺麗な顔を見つめながら、もう一度こいつの脛を蹴り飛ばした。少年がぎゃーっと悲鳴をあげてのたうつが、そんなことはどうでもいい。
というか、人のプライベート侵略も大概にしてほしい。そんなやついねーし! というか、こうやってジンくんがわたしの周りをべたべたべたべたついて回っているのだから、ろくに恋もできやしない…………。
…………別に、そうしたい相手がいるわけでもないけどさ。
いないったらいない。
ベッドの上を転がり回るジンくんを無視して、わたしは椅子へと腰掛け直した。
まったく、いい気分が台無しだ。
そんなわけで、癒しを貰いにカレンちゃんのところへ行くことにした。わたしの授業は午前中で終わっていたが、多忙なカレンちゃんになると、夕暮れ時になってようやく……といったところだろう。
勿論日によっては三時のおやつを共にできるときもあるのだが、今日は多分遅くなる。そう思って、生徒がまばらに寮へと戻ってくるのを確認してから、カレンちゃんの部屋へ向かった。
――――はずなんだけど。
「……なんで、お前までついてくるんだよ」
「ええ、いいじゃん別に。そんなに邪険にしなくてもさぁ」
いくねえよ。全く。
わたしはこの陰険毒舌腹黒邪神から逃れ、楽園の女神であるカレンちゃんに救いを求めて廊下を奔走中なのだ。なのに、わたしの心労の原因であるジンくんが背後霊よろしくついてきたら、本末転倒である。
恨みを込めて浮遊する少年を睨んでみても、少し上から悠々と見下されるだけだった。
腹立たしい。ほんっとうに、こいつはどうしてか馬が合わない!
歯噛みしながらも、廊下の端までのわずかな距離を詰めていく。
「あー、ここでまた二人でラブラブ青春仲良しごっこなわけだね。見てるこっちが恥ずかしくなっちゃうや」
「……」
――――仕方ない。背後から聞こえてくるであろう悪魔の囁きは無視して、カレンちゃんの容れてくれる紅茶を味わうしかない。
つかつかとカレンちゃんの部屋の扉まで歩み寄って、そのまま拳を叩きつける。とはいっても、することはノックだ。ちょっと強めになってしまったが。
「カレンちゃん、いる?」
控えめに声をかける。
すると、いつものようにぱたぱたと軽い足音と共に扉か小さく開いて、そこから覗く大きな黄色い瞳に、わたしは笑いかけ――――ん?
「……あ」
「え」
バタンッ。と、扉は無情にも閉められる。
わたしは中途半端に手を上げた体制で、閉ざされた扉の前で硬直した。
扉の隙間から見えたのは、いつものカレンちゃんの瞳ではなく、気の強そうな飴色のつり目だった。
「あーらら、嫌われちゃった?」
ジンくんが面白そうにわたしの顔を覗き込んでくる。ほら、こうやっていちいち行動が性悪だからわたしに嫌われていくんだ。この野郎。
後ろでけらけらと笑うジンくんを、どうやって凝らしめてやるべきか考えていると、かちゃりと小さな音が聞こえた。
もう一度扉が開く。今度は、ちゃんとカレンちゃんだ。
間違っても嫌われたとかそういうんじゃないことは分かっていたが、ほっと胸を撫で下ろす。それをまた少年が笑った気がするが、無視だ無視。
「ごめんね、ハティちゃん。どうぞ、入って」
「えーと、いいの? 誰か、先客がいたみたいだけど」
言外に出直すよと聞いてみれば、カレンちゃんは扉を大きく開けて、わたしが入るのを待っている。つまり問題ないと、そういうことだ。
……扉の向こうから見える、見覚えのある女子からは、そう思われているとは思えないんだけど。
怖々と部屋に足を踏み入れれば、見覚えのある女子二人から、なんとも言いがたい視線をいただく。
「私の友達の、ジュリアさんと、マーシアちゃん」
ジュリアと呼ばれた女子生徒は、見るからに貴族然とした振る舞いで、洋服も髪型もそれ相応だ。泣き黒子の上の明るい緑色の瞳は、先程から痛いくらいにこちらへ向けられている。
そしてマーシアと呼ばれた女子生徒の方は、さっきのドアバタン事件の犯人である。飴色のつり目に、ストレートの灰がかった茶髪がきっちり纏められている。
どちらも見覚えがある。そりゃもう「どちら」にしても。
「こっちは、ハリエットちゃん。私と、アルフの友達」
カレンちゃんはマイペースにわたしの紹介を行ってくれちゃったりしているが、わたしは考えることがいっぱいだ。
ジュリアもマーシアも、一度会っている。どこでと言われれば空き教室。なぜと言われればわたしの肘鉄の罰。結局あれはヴィクターの介入でうやむやになってしまっていたが、まさかこんなところで会おうとは。
――――これが当然だとは言わない。
確かに彼女らは、『ヒロインの親友』であり『ヒロインの恋敵』たりえる人物だが、ゲームではない。カレンちゃんの人柄が、三人を近づけさせたのだろう。
そうなれば、部屋でエンカウントしてしまうのもやむ無し。この面子だとあと一人、後輩ちゃんもいそうだが、今回は来てないらしい。
と、そこでわたしの思考が止まる。現時点で考えられることはここまでだった。
故に、否が応でも部屋の状況を確認せざるを得なくなる。
こっちをずっと見つめるジュリア。目を逸らしているマーシア。唯我独尊、何を考えているのかさっぱりなカレンちゃん。
……ああほんと、この奇妙な空気。
どうしよう。