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58 色彩

 それは毎晩のように、夢に出てくる。


 悪夢だ。

 いつか、まだ(ずっと)若く幼稚で、変わらず卑怯で臆病だったとき。それは恥ずべきことには違いなかったが、俺の周りには同じように、幼稚で我が儘な人間が山ほどいたものだから、特に死にたいとは思わなかった。


 自分が誉められた人間でないことは知っている。一部では人間ですらないことも。


 しかしそれでも自分が自分を俺だと認めているのだから、大多数の価値観などどうでもいいことだった。そう思っていた。ごく一般的な倫理観を否定しているわけではなく、間違いをそれでいいと受け止めていたに過ぎない。

 周りの同じような仲間たちは、どんなことをしても笑って肩を叩いた。そして次に、俺と同じようなことを、平気な顔でやってみせた。

 死に近い者は捨ててしまう。

 満ちている者からは奪い取る。

 そうして笑顔で肩を叩きあっているうちに、次の瞬間には相手を置いて走り去る。

 俺たちはそういう風にできていた。それをよしとする者だけでできていた。

 責任という言葉も、仲間という言葉も、世間が使うような意味を孕むことは決してなかった。

 見上げると、いつでも黒い空が目の前を下りている。足元は見ない。沢山の汚いものでいっぱいだから。


 悪夢だ。

 いつか、まだ(ずっと)若く幼稚で、変わらず卑怯で臆病だったとき。俺たちは黒々とした空と、生臭い風にうんざりして、ついに手を血塗れにする覚悟をした。

 覚悟と言ったのはその時の酔った気分に倣っただけで、本当は覚悟のかの字もありはしなかったし、あの時もそうわかってはいた。変わらないのだから、俺は今でもそういう気分のままだ。

 何か大切なもののために立ち上がるということを、する気骨すらないのだ。柔らかいベッドで寝られれば心地いいが、冷たい土の上で気を失ってしまうことだって、どうとも思いはしない。

 どっちだって構わない。そういう風にできている。


 だが波は起こった。

 隣のやつが血を吐き、骨を折った。ありとあらゆる凄惨なことが降り注いだ。俺はただ逃げていた。いつものように。

 俺は若く幼稚で卑怯で臆病だった。今まで皆がそうだと思ってきたが、それは勘違いで、周りは俺よりもよっぽど大人で老練され蛮勇だったが勇敢だった。

 ただのひとつも成し遂げることが叶わなかったのは、俺だけだったのだ。


 そうして、そうして酔いがすっかり醒めた頃には、辺り一面は。

 微笑む赤に背を向けて、震える足を引きずった。

 逃げられない。視界が回る。脳髄弾ける刺激に目を瞑る。意識が揺さぶられる。引き伸ばされる。止まる。動けなくなる。昨日が今日になる。縷々たる星霜がただの塊になる。


 悪夢だ。

 起きる頃にはすべてが昨日になっていて、震える足は動かないままで、まだ(ずっと)縫い付けられたまま立ち止まっている。


 ただ約束を待つだけだ。

 それでも唯一、暖かい白と青の下に出られたことだけは、それだけは誇りとしてもいい。

 勿論、誇りという素晴らしい言葉でさえ、正しい意味にはならないのだが。

 恥で死にたくなったことだけは、成長と呼べるかもしれない。









 白と青。朝日に照らされたクリーム色は、白く輝いて生徒たちを飲み込んでいる。

 この国(ザタナルグ)唯一のアカデミー、その高等部校舎。三階建て、中央には広々としたバルコニーが張り出し、一際高く作られた塔の上には機械時計が時間を刻んでいた。

 わたしはそれを一瞥すると、過去、ここで起こった不可解な出来事に蓋をして、ただの一生徒であるかのように歩を進める。周りに合わせて、ごく普通、目立たないように。


 わたしの周りを行く生徒の数は、中等部の頃よりも幾分か少なかった。特に、もともと少なかった女子はさらに減り、目につく限りでも数人ほどしか残っていない。

 その中でも一際可愛らしい薄桃色のワンピース姿を見つけて、わたしはそれに走り寄った。


「おはよう、カレンちゃん!」


 わたしの声に振り向いた彼女は、丸く黄色い瞳を細めて、わたしに微笑む。久しぶりに会ったカレンちゃんは、また一段と、すっかり令嬢らしくなっている。

 隣で歩調を合わせれば、カレンちゃんはわたしの頭に手を当ててくすりと肩を寄せた。


「髪、跳ねてるよ。おはよう、ハティちゃん」

「お、ありがと」


 自分でもばたばたと髪を撫で付けると、カレンちゃんの向こうからため息が聞こえた。聞きなれたそれに、わたしは目線を上に持っていく。

 燃えるような赤の彼が、わたしの方を呆れたように見つめていた。


「相変わらずだなあ、ハリエット。もう少しどうにかならないの」


 アルフだ。

 わたしは見上げるようにして、すっかり記憶と違わなくなった彼を見つめた。アルフはカレンちゃんの隣、わたしとは反対の側を歩きながら、しっかりと歩調を彼女に合わせていた。

 合わせているということは、つまりカレンちゃんとアルフは一緒に登校しているというわけで。


「うるさい。女子寮から校舎までわざわざついてくるシスコンが」

「なっ――!?」


 言ってしまった。

 目を剥いて驚愕するアルフに、わたしはこれ見よがしにため息を吐いてみせた。ついでにやれやれと首も振ってやる。

 女子寮から高等部の校舎までは少し離れているものの、わざわざ一緒に行く距離でもない。だというのにこの男は、こうしてカレンちゃんと共に登校しているわけである。

 そもこの男がカレンちゃんを男子寮に近づけることはないのだから、必然的に彼は女子寮までカレンちゃんを迎えに行っているわけだ。この眉目秀麗ないいとこのお坊っちゃん(結婚適齢期)が女子寮に出向くという危険性を無視してまで、カレンちゃんと登校したいということか。

 シスコン。これをそう言わずしてなんという。口に出すつもりはなかったが、うっかり出てしまうくらいには呆れてしまった。


 アルフはわたしのつい出てしまった発言に驚いているが、隣を行くカレンちゃんはいつもの涼しい顔のままだ。やっぱり彼女も、アルフがシスコンであるとは常々思っているに違いない。

 これがもし分かっていないとするなら、二人とも重症だと思う。むしろお似合いの兄妹なのかもしれないが。


「……ま、とりあえず、おはようございます。アルフさん」

「あ、ああ……おはよう、ハリエット」


 何事もなかったかのように挨拶すれば、アルフは未だ困惑しながらも律儀に応じてくれた。このままうやむやにしてやるべきと判断し、わたしはカレンちゃんへ向き直る。


「最近、いい天気だねえ」

「本当に。少し、あったかいくらい」


 カレンちゃんの言葉に頷いて、空を見上げてみる。

 この国は年中通して涼しい気候が多いのだか、ここ最近の天気は春のように暖かい。

 手で日差しを遮って、記憶と変わらない空を眺める。柔らかい青と、白。


 快晴だ。


 なにも変わらない、なんのへんてつもない朝の日差し。高等部に進級したわたしたちに、表面上の変化はなかった。

 ただ校舎が白と青に変わり、生徒の数が少なくなって、皆が少し大人っぽくなっただけ。

 わたしたちが感じている変化なんて――――それだけだ。

 未だ、あの時話し合った謎も理由も解かれてはいない。


 それに関しての不安も焦燥もあるが、それでもわたしたちはこうして笑って日常を送ることにしていた。これが壊されるべきでなく、またわたしたちの手で故意に壊してしまうものでもないことは、皆がわかっていることだった。

 ……まあ、なんというか。あくせくしたところで、することもやることも変わらないってことだ。

 だからこそ、いつもと変わらない朝を迎える。





 ――――お家から帰ってきたあとは、色々と大変だった。


 アルフとカレンちゃんは途中から実家の方へ戻ってしまったが、サディアスはヒューに毎度毎度仕事場の方へ駆り出され。ちなみにニールはニートだった。

 そんな中でまったり休暇を過ごしていたわたしの方はというと。気を利かせたのかなんなのか、お父さんとヒューがおこづかいというにはいささか多いお金を寄越し、わたしを町へ放り出した。

 なんでも、年頃の女の子なら何かと欲しいもの、必要なものも多いだろうと。しかしながら男兄弟、男親ではあまり気が利かないこともある。

 こういう自由なときに、入り用のものがあるなら買っておきなさいと。要約するとこういうわけだったらしい。

 これは後に言われたことで、突如としてよく知らない町に放り出された当時のわたしは、当然ながら困惑を極めていた。

 ……ここからはすっごく、癪な話ではあるけれど、ここで役に立ったのがジンくんだった。


「で? どうするの、迷子の子猫さんは? ここでにゃーにゃー鳴いてみる?」


 慣れない町に右往左往するわたしをにやにやと見下ろしながら、ジンくんはその変な色の瞳を細めて問いかけてきた。

 むかつく。

 どうしてこんなに気に障るのか分からないのだが、とにかくこの少年の一挙一動がわたしの神経を逆撫でする。わたしはその時の不安もあって、半ば八つ当たりのように彼に怒鳴った。


「あーもー、うるさい。なんだよ。鳴いたら道案内でもしてくれるわけ?」

「うん、いいよ」


 ジンくんはわたしの癇癪にあっさりと頷いて、空間を漂いながら指をむこうへ向けた。目を瞬かせるわたしに、ジンくんはなんでもないように「あっちが洋服屋さん」と、ごく普通に道案内をする。

 ここは、わたしの言葉に「鳴いてみせろ」とかいって、ひとしきり笑ったあとに案内もしてくれないパターンじゃないのかよ。

 思わずそんなドM思考が浮かび上がったところで、愕然とするわたしに気づいたらしいジンくんが目を向ける。

 いつもの冷酷な、馬鹿にしたような顔をしないでいると、本当にただの綺麗な少年のようだった。


「なに、行かないの。それとも先に腹ごしらえって? ハリエットは食いしん坊だなあ」

「いや、じゃなくて……さあ」

「ああ、僕があんまりあっさり手助けしたから、拍子抜けしちゃった? なんだ、にゃーにゃー鳴いて羞恥に苦しんだあと、僕に嘲笑われて結局案内もされず、騙された怒りを抱えて途方に暮れたかったわけ。いやーマゾいなー、期待に応えられなくてごめんね!」


 ちげえし。

 笑う少年を睨み付ければ、冗談冗談と首を振られた。さらさらと白い髪が揺れるが、風を受けてもそれが靡くことはない。

 相変わらず不思議なこの少年に、わたしは重いため息を吐いた。明らかに心労を訴えるその動きにも、ジンくんは気にするそぶりもなく。

 とりあえず彼の指差した方向に目を向ければ、当の本人は浮いていた足を地面にすたりと着けた。

 その瞬間、吹いた風が少年の髪を揺らす。


「……?」

「さあ、ハリエット。このままきみの無様に立ち往生する姿を見ていても僕は一向に構わないんだけど。万が一この町に殺人鬼が潜んでいて、のろまなハリエットは一撃でお陀仏……なんてことになったらこの先楽しめないからね。特別に案内してあげよう」

「いや、あり得ないでしょ……」


 殺人鬼ってなんだよと思ったが、ジンくんはわたしのつっこみも聞こえていない様子。それどころか、なんの罠なのか、上機嫌で手を差しのべてきた。

 ジンくんの手は、わたしより小さく、白くて細くて、なんの悪意もないように感じた。その表情も、生意気な子供そのままで。

 わたしは少し迷ってから、恐る恐るジンくんの指先を握る。やはりわたしより暖かい。


「任せて。たっぷりきっちりエスコートしてあげようね」

「…………よ、よろしく?」


 そのままぐいぐいと引っ張られ、結局わたしは洋服に日用品に雑貨にと、さながらデートのようにジンくんと色んなところを回るはめになってしまったのだった。

 驚くべきは、その間ジンくんが目立った嫌味を言うこともなく、至極真っ当に案内をしてくれたこと。あと、髪の色が似通っているせいか、姉弟に間違えられたことである。

 ジンくん、人に見えるようにもなれるんだね。相変わらず意味のわからん存在だ。


 ――――と、そんなわけで、帰省から戻ったわたしには、その時買った大量の荷物を整理するという大変な仕事が課せられたのだった。

 これがなにより大変で、もともと整理整頓の得意でないわたしにはとんでもない苦痛だった。よもやジンくんは、これを見越して素直に案内なんてかって出てくれたんではないだろうか。

 苦しむわたしを笑うその顔を見ていると、どうにもそんな風にしか思えなくなってくる。

 やっぱり、わたしはこの少年が苦手だ。


 ……その少年、今はわたしの部屋にいるわけだけど。プライバシーもクソもないあの空間は、さすがに辛かった。

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