55 理解と癒し
「アルフ、覚えてる? わたしに沢山手紙を書いてくれたこと」
いきなりの問いかけに、アルフの息が詰まる。覚えているわけがない。
恐らく、彼の記憶はわたしに関するすべてを、そして地下室に関わるすべてをないものとされている。
思い出そうとしたのか、頭を押さえたアルフのその代わりに、カレンちゃんが真剣な顔でわたしに寄った。
「私、覚えてる。ハティちゃんが帰ってくるちょっと前くらいまで、いっぱい、いっぱい書いてた」
「――ッ?!」
その声に、アルフは愕然とした顔でカレンちゃんを見る。嘘はないという表情に、アルフの顔が歪む。
「ちょっと、前って、……俺、何も……」
思い出せない。
カレンちゃんも変だと分かっていたのだろう。いきなり彼が、今まで話してきた人のことをすべて忘れてしまったのだから。
顔を歪めて沈み込むアルフに、カレンちゃんが駆け寄った。困惑顔のヒューがおろおろしているが、それを手で制す。
「アルフの手紙には、いくつか細工されているものがあった。情報漏洩を防ぐためのもの。そこに書かれていたことが――何か、学園が変だということ。それを突き止めるべく動くということ」
「……それは、ハリエットさんが言っていたものか」
黙っていたサディアスが、その言葉にわたしを射抜く。わたしはそれに大きく頷いた。
ここからは、サディアスに大まかに説明したことがある。そのために彼はわたしと共に校舎に忍び込み、あんな目に遭ったのだから。
「恐らくアルフは、そこで何かを見つけたか、見つける直前までいったはず」
「……まさか、俺の記憶が、消されたって? そういうことが、まさか」
震えるアルフに、かけるべき言葉は見つからなかった。カレンちゃんが寄り添って、ふわりとした光を胸に当てている。
それを凝視するヒュー。こんなときに笑わせるな。
「アルフが残してくれたヒントは、地面。それで、わたしは去年の模擬戦で、サディアスと高等部に忍び込んだ。地下室があるから。何かあるのは、もう間違いないよ」
断言する。
「だが……」
「うん、マデレーン様がいた。わたしたちは、攻撃を受けてそこを立ち去った」
その言葉に、落ち着いてきていたアルフと、カレンちゃんまでもが目を見開く。当たり前だ、わたしだって、目の前でそれを見たわたしですら、今まで受け止めることもできなかったのだから。
ニールは顔を伏せていて、わたしからその表情を窺うことはできない。
「……本当、か?」
「アルフの手紙なら、持ってきてる。見たかったら見ていいよ」
わたしがいない部屋で、何をされるともわからない。お姉さんがいるところに、アルフの手紙は置いてはおけない。
重要な内容のものだけを、わたしは持ってきていた。アルフなら、自分の筆跡も分かるだろう。
一気に温度の下がった部屋に、アルフの荒い呼吸だけが響き渡る。それを掻き消してしまうくらいの自分の鼓動を押し込めて、わたしはさらに言うべく、口を開く。
こうして混乱するみんなを見ていると、やっぱり少しは緊張するものだな。
「疑っても仕方ないと思う。わたしも信じられなかったから。……だから、信じてもらうためなら、わたしは全てを話すつもり」
そこで息を飲んだのは、誰だったのだろう。
わたしはみんなによく見えるように手をあげると、そこにぼんやりとした暗闇を見せた。
霧のような黒が、わたしの手から渦巻きながら、その大きさを増していく。微動だにしなかったのは、ヒューとニールだけだった。
「……どう? 気持ち悪くない?」
こうやってあらためて人に見せたのは、幼い頃のアルフ以来だろうか。信じられないとばかりに首を振るカレンちゃんと、呆然としたアルフとサディアスに、わたしは笑ってしまった。
蠢く闇は、ぶるぶると震えて、いつかのように友好のハートマークを形作る。昔みたいにおどろおどろしく割れたり崩れたりしない。
真っ黒のハートマークは、別に完成したところで可愛くもなんともないのだが。
「……えっと、つまり、わたし闇属性なんだけど……聞いてる?」
沈黙に耐えかねて、わたしは思わず間の抜けたことを聞いた。みんなわたしの手の上を凝視したまま動かないので、仕方なくそれを消す。
反応なし。やばいつらい。
「……まあつまり、これが原因で、王都に行ったようなもんなんだけど。そしたら王都でも信者が現れだしてさ。アルフによれば学園にも信者の出入りが多かったみたいだし……ここも妙だよね?」
誰か、答えてください。
ひきつった笑みを作ったまま問いかければ、ボーッとしてした三人は、ようやくわたしの方へ目を向けた。その瞳に怯えは感じられなくて、ひとまず安心する。
混乱してしまうのは、言う前から分かっていた。「わたし闇属性やねん」「マジか」じゃ終われないことは、ちゃんと想定済みだ。
しかし、無言なのは想定してなかった。
「……えーっと、どうしようヒュー」
「と、とにかく、お皿片付けようか?」
にこりと笑ったその顔に、わたしは珍しく心の底から感謝した。
お皿を下げたあと、ヒューは屯所に行くと言ってサディアスを引っ張った。いや、しょっぴいた?
ともかく図体のでかいサディアスをぐいぐいしていくヒューに、わたしは成長を感じずにはいられなかった。
サディアスは物言いたげな視線をわたしにくれていたが、何か話し出す前にヒューに引きずられていった。むこうで剣を振って、今までのことをちゃんと考えてくれればいい。
「じゃあ、わたしたちはどうする? 外、出てみる?」
手を拭いてカレンちゃんを見れば、彼女は無表情ながらも、心持ち眉を垂らした顔でわたしを見ていた。
それがどういう気持ちからきているのか、わたしには分からない。すまない、カレンちゃん。
「それともアルフくんと話しとく? 今、ちょっと沈んでるし」
ちらりと見れば、アルフは未だ椅子に座ったまま頭を抱えていた。端から見るとめっちゃ不気味だが、彼はそれどころではないのだろう。
思い出せないと言うのは、自分で自分の記憶を疑うことになる。わたしが思う以上に、辛いだろう。カレンちゃんが支えてあげるべきだ。
そう思って聞いてみれば、彼女は首を振ってまっすぐわたしを見つめた。
「……私、ハティちゃんといたい」
「……うん。じゃあ、出よっか」
わたしはカレンちゃんの手を引いて、扉を開ける。
吹いた風に揺れる髪を押さえつけながら、わたしは彼女を花の咲くところまで引っ張り、走った。
小さな花が一面に咲く野原に、わたしとカレンちゃんは座り込んだ。彼女の着ている高そうな服が土にまみれたが、そんなこと、気にすることはない。
カレンちゃんは風に揺らめく花を嬉しそうに見ながら、微笑みをわたしに向ける。いつものカレンちゃんのようで、わたしは安心した。
「ね、私のこと、どう思った」
「え?」
カレンちゃんの突然の呟きに、風が重なる。冷たいそれに掻き消されないように聞き返せば、彼女ははっきりと、さっきと問いを口にした。
どう思ったって、どういう。
首を傾げるわたしに、カレンちゃんは焦れたようにはっきりと、質問の意味を投げかけた。その顔は、まるで告白する前の少女みたいだ。
「……私が、光属性で。孤児なのに、貴族の娘として貰われて。学園でも、みんなが私と、親しくしてくれて。私は、何一つ、ハティちゃんの抱えるものに、気づかないままで……」
それを見ていたわたしが、カレンちゃんをどう思ったか。
彼女はきっと、恐れているのではないだろうか。カレンちゃんのことを、何も知らないまま、ただ生まれた幸せを甘受している少女だと、わたしがそう失望することを。
それとも、それをわたしに憎んでほしいのだろうか。ただそれだけをしてきた彼女に、なぜあなたばかりと、罵ってほしいのか。
わたしは黙って首を振ると、握り締めたままのカレンちゃんの手を取った。
「わたしはカレンちゃんが幸せで嬉しいよ」
本当だ。黄色い目を丸くしたカレンちゃんに、わたしは微笑む。まるで清い少女のように、微笑みかける。
実際は、わたしはカレンちゃんの生い立ちを、少なくないほどに知っているから。もともと、そこが夢を見るための立場なのだと、卑怯にもわたしは知っている。
だから何も、彼女は悪くない。ただ、ヒロインと同じ立場でこの世界に生まれただけの、ただの少女だ。
――ジンくんの笑い声が耳元で響く。
わたしはそれに気をとられていないふりで、カレンちゃんの体を抱き締める。強く、ジンくんの笑い声から耳を塞ぐべく。
「一つだけ、カレンちゃんが闇属性を受け入れてくれると言うなら、わたしにそれ以上望むものはないよ」
嘘つき、と囁かれた声に、わたしは心の中で違うと言い返す。
わたしは今、ハリエットとして、幸せだ。このあとも、ずっと先も、わたしは幸せでなければいけない。
カレンちゃんは力を抜いて、耳元で囁く。
「……うん。絶対、私、信じるから」
「そうなら、いいよ」
彼女の柔らかい声に、わたしは笑ってその体を引き離した。うん、やっぱり何も、羨ましいことも妬ましいこともない!
わたしは彼女に、うんと大きな花冠を作ってあげようと思った。
からっぽのヒロインではなくて、自分の立場や友達のことに悩みも喜びもする、カレンちゃんにだ。
出来上がった花冠をカレンちゃんに被せてやると、彼女は黄色の瞳を輝かせてそれを見た。彼女は、綺麗なものが好きだと言う。
わたしの瞳も綺麗だと言うので、わたしはちょっと、柄にもなく照れてしまった。この紺色の瞳が綺麗だと言うなら、光を受けて輝く彼女の黄色は、もっと綺麗だ。
そう言い返すと、彼女は自分の下まぶたを引っ張った。
「私、目、丸くて嫌い」
どうやら、その大きな目が子供っぽくて嫌らしい。そう思えば、その無口さは子供っぽさへのせめてもの抵抗だろうか。
わたしはおかしくなって、同じようにまぶたを引っ張って笑う。
「わたしもこの垂れ目、嫌いだな」
いまいち迫力が出ないし、優しいと言えば聞こえはいいが、実質やる気がなさそうに見える。
そういうことを言うと、カレンちゃんが口を押さえて吹き出した。珍しく爆笑するカレンちゃんの、その笑い声につられて、わたしもげらげらと口を開けて笑った。
ああ、楽しい。友達と遊ぶのはこんなにも、気分が高揚するものか。
ひとしきり笑ったあと、カレンちゃんと一緒に花冠を編み編みしていると、さくさくと草を踏む足音が聞こえた。
彼女と同じく振り向けば、そこにどの花よりも赤く燃える髪が見えた。
「アルフ!」
カレンちゃんが立ち上がって、駆け寄っていく。何だかんだ、心配していたんだろう。
わたしも立ち上がると、二人の方へ向かって歩く。
アルフはしっかりと立っているし、その顔は頭を抱えていたときより随分すっきりしている。青い空をバックに立つ彼は、やっぱり美青年だ。
「アルフさん、もう大丈夫ですか?」
わたしも近づいて、彼の前に立つ。
さっきの場では、考えるあまり言葉に気にせず色々言ってしまった気がするが、本来彼とはこうやって喋るべきだった。それがわたしとアルフとの、距離だったはずだ。
「――ハリエット」
そう、彼はわたしをハティとは呼ばない。
「ごめん、俺、やっぱり何も、思い出せない。すごく大事なことだったんだって、分かってるのに」
風がアルフの赤い髪を流して、わたしはそれを炎のようだと思う。
彼は今、わたしとの思い出じゃなく、彼がたどり着いたはずの何かについて考えている。それでいい、わたしの話はちゃんと伝わった。
アルフはこめかみを押さえると、それでも苦く笑う。
「でも、考えるよ。話してくれたことも全部、ちゃんと考える。俺たち、友達なんだし。そのために話してくれたんだろうし――それに、」
彼との出会いは、『秘密』、だった。
わたしがどうしてもどうしても会いたくて、そのために一ヶ月間を犠牲にして、挙げ句の果てに秘密をバラして。
それで何がしたかったのかと言われれば、一目会いたかっただけなのだ。
今思えば、あの頃のわたしって、ゲームを楽しんでいたんだなあ。アルフの苦悩より何より、わたしが求めたのは――。
「秘密、教えてくれた」
それは、一瞬だった。
アルフはカレンちゃんを避けるように後ろへ下がると、軽いステップで宙返りをした。 ふわりと浮かぶ体が赤い光で覆われる。
聞こえた、さくりさくりと、四つの足が野原に落ちる音。そしてそこに立っていたのは、人ではない。
わたしはもう、それを知っている。
白い獣だった。
――――んんんんんん!!!! っでっかくなってるうう!!!!
ここが広いからだろうか! その大きさは言うなら軽自動車くらいだろうか!? もう車とか記憶のすみにしかないから分かんないけど!
「うおおおお……」
わたしはよくわからん声をあげながら、獣アルフの毛並みに飛び込んだ。
全身が痺れるように満たされていく。この暖かさ、この柔らかくさらさらの毛並み。ああもうこのまま眠りたい。
ああ、アルフが記憶をなくして何が悲しかったって、もふれなくなったからかもしれない。わたし、最低だ……。
「……やっぱり、知ってたかあ」
アルフの声が聞こえて、わたしはそれに頷く暇もなく擦りよる。いつの間にか、カレンちゃんまで抱きついていた。
わかる、わかるわその表情。かつてないほど穏やかなカレンちゃんの顔に、わたしも同じような顔をしているのだと確信した。
オルブライト兄妹、なんという幸せの体現だろう。