50 泣き虫はどこへ
それは、わたしがいつものようにユリエルの授業を終え、自室に戻ろうとしているときのことだった。
いつもより騒がしい玄関口に、何事かと目をやる。いつもなら、まだ授業がいっぱいな生徒たちは校舎から出ていくこともなく、この時間の玄関口は閑散としているはずだ。
騒がしい人の出入りに驚きながらも、何かあっただろうかと首を傾げる。行き交う生徒の表情を見る限り、悪いことでもなさそうだけど……。
「――どこのお方なの?」
「――ではないよ。じゃあ――」
「――なの、残念……。でも――」
誰か来ているのか? まさかどこぞの偉い人でも。
そういうのに関わるとろくなことがない、わたしはそそくさと校舎から出ることにした。今日は部屋でゆっくりしようかな。
と、進み出したわたしの歩みは、目的地であるはずの寮の前で止まることになる。
てこてことやってきた女子寮の前に、人影が見えた。女子ではないその出で立ちに、思わず立ち止まる。
質素なシャツとズボンの男は、くすんだ金髪をしていた。向きからして顔はよく見えないが、門番的な人に付き添われていることからして、怪しい人ではないらしい。
騒がしかったのはこのせいか。何も女子寮の前まで来なくとも、偉い人なら部屋に呼び出せばいいものを。
わたしはそう考えて、その男の横をさっさと通りすぎようと足を早めた。不自然にならない程度に、その男の横を早歩きで進む。
しかしすれ違うその瞬間、懐かしい香りが脳裏を掠めて――。
「……」
気づけば、片足を踏み出した極めて不自然な体制で、わたしは立ち止まっていた。
ぎぎぎと、首だけをその男へ向ける。隣の門番らしきおっさんは、またかとでもいいたげな、うんざりした顔をしていた。
でも、そのおっさんのうんざり顔も、生徒の――女子生徒の騒ぎっぷりも、その時全て理解できた。
くすんだ金髪を風に揺らした男は、とんでもなくイケメンだったのだ。
それはそう、目覚めにこの顔が目に入れば、思わず枕を投げつけてしまうくらい。
「……ひ、ひゅー?」
見覚えのあるその芸術的な顔面に、わたしは恐らく妙な顔で、妙な体制のまま問いかけた。
わたしの掠れた声に、その芸術的な顔面に嵌め込まれた翡翠の瞳が、こちらを向く。会うのは何と7年ぶりにもなるが、年月とはかくも恐ろしいものだ。
まだあどけなさの残っていた兄の顔面は、今やただの完璧な彫刻と化している。そのすべらかな頬に出来物の一つでもあれば違ったのだろうが、現実彼はただの人形のように見えた。
その人形のような男が、固まるわたしをその瞳に映して、そして。
「………………は、はてぃ?」
泣いた。
ぼろぼろと溢れた涙が、出来物の代わりにその頬に落ちていく。くしゃりと子供のように歪んだ顔に、はっきりと幼いヒューが重なった。
ああ、これは兄貴だわ。
悟るわたしを前に、ヒューは大洪水でも起こしたいのかというくらい涙を落とす。隣で気だるそうにしていたおっさんが、目と口をかっぴらいて引いていた。
良い歳してこんなに泣くイケメンを見るのは、さぞ辛いことでしょうな。わたしも今、謎の恐怖に侵されている。
「ちょ、ちょっとヒュー。なんでここに」
「わああああはてぃいいいっ、うわぁぁん、こんなにっ、こんなにおっきくなって!」
最後に会ったのは七歳か八歳くらいだもんな。そんなわたしも来年で十六になります。
ヒューはわたしの頭を撫で回しながら、腕で目を覆って大泣きしている。わんわんと泣くそれはもはや男らしいが、いややっぱりそれはどうかと思う。
だってわたしが十六になるなら、ヒューは……少なくとも二十歳はとっくに越えているわけで。
いくらイケメてても、二十歳を過ぎてこうも大泣きする男ってどうよ。
「ちょっと、ヒュー! お前っ、なんでここに?!」
「うううう、ハティっ、昔はあんなにちっちゃかったのにねえ……」
聞けよ。
頭にある手を振り払っても、ヒューは気にすることなくずるずると鼻を啜りだす。それはもうわたしすら見ていないで、ただただ涙を垂らし続けている。
ダメだ、これは。早々に諦めたわたしは、ドン引きしている門番さんと言葉を交わして、兄を部屋まで押し込んだ。
で、しばらく。
未だに目を赤く腫らしながらも、ようやく落ち着いたらしいヒューに、わたしはじっとりとした視線を向けた。それに照れ笑いをするヒューはあれだ、もうダメだな。
「ヒュー、なんでここにいるのさ」
「へへ……いや、ハティに会いたくって」
さらに鋭くした視線を向けると、ヒューは今度こそにこりと笑った。わたしの目付きがどうあがいても悪くならないのはたれ目のせいだが、それでも機嫌が良くないことくらい察しろ。
ベッドに腰かけてため息を吐けば、ヒューはにこにこしながら部屋を見渡す。特に念入りに壁を見ているのは、何でだろう。
「で、ほんとのところは?」
実際、わたしも嬉しくないわけじゃない。これが家ならまあ、抱きつきはしなくとも、素直に再会を喜ぶくらいはできただろう。
ただ手放しで喜べないのは、ヒューが学園にいることがおかしいから。ただ会いたかったからといって、簡単に入れるような場所ではない。
わたしの警戒をどう思ったのか、ヒューはやっときちんと佇まいを正して、椅子に座った。
「ハティに会いに来たのは、本当だよ」
「ここに入れた理由は?」
「マデレーン様が招いてくれた」
その答えに、言葉が詰まる。
お姉さん――子犬のような素朴な笑顔のお姉さんを思い浮かべて、ニールの顔が過る。関わるなと、安易に信じるなと、わたしに警告する。
お姉さんがヒューをここに呼んだわけはなんだ? わたしに接触させたわけは? 家族の命さえ簡単に握り潰せてしまうと、そういうわけか。
嫌だなあ。考えたくないことばかりが降って沸いてくる。
わたしの苦悩にも気づかすに、ヒューは穏やかな笑顔のまま、真っ直ぐな瞳でわたしを見る。わたしだって、純粋に再会を喜びたかった。
「彼女の意向で、ハティがここ数年王都に行くことになっていたんでしょう? それで、帰省の目処が立たないことをひどく気にしていてくれてね。今回、特別に会わせてもらえたんだ」
ヒューが言うことも、信じられないなんて。それを優しい笑顔で宣ったお姉さんは、果たして本当だろうか。
嫌なのに疑り深く考えてしまう頭に、ヒューの大きな手が添えられた。優しく撫でられて、どうにもむずかゆい気分になる。
背も伸びた今、こうして頭を撫でる人はニールくらいだった。それよりも随分優しい手つきに、目を細める。
「何だか疲れているみたいだけど、大丈夫?」
「……うん、大丈夫」
大丈夫だ。少なくとも、この学園で死ぬようなことには絶対に、ならない。ヒューはただ、わたしの卒業に泣くだけでいい。
しばらくされるがままになっていれば、いつの間にかヒューは椅子から、同じベッドに腰掛けていた。その背の高さと足の長さに、妙な感慨が沸く。
一緒に眠ったこともあったが、それとはもう随分違っているのだ。
相変わらずわたしの髪を触りながら、すっかり元気になったヒューが口を開く。
「そういえば、今日、彼に会ったよ」
「彼?」
妙に弾んだ口調に聞き返せば、ヒューはにやにやと口の両端を吊り上げる。既視感に身を固めれば、ヒューは勿体ぶるようにわざとらしく唇を鳴らした。
「いやー、まさかハティにそんな人ができるなんて。時の流れは早いねえ」
「そ、そんな人っ?」
そんな人って、どんな人。ヒューのどこか酔ったような顔に、わたしの汗がじわりと滲み出す。これはあれだ、いつかの荷馬車の中で発生した空間に似ている。
わたしが昔から縁のない、ごく親しいもの同士で修学旅行の夜とかお泊まり会とかで交わされるアレ。
「ハティも、お嫁にいっちゃうのかあ」
呟かれた言葉に、確信した。これはまさかの恋バナ空間。
どうして久しぶりに再会した二十歳を過ぎた兄と、ありもしない恋の話をしなければならんのだ。これは荷馬車の時とはまた違う、何というかともかく、冷や汗が止まらない。
遠い目をしたヒューの肩をつかんで、必死に揺さぶる。帰ってこい、ヒュー。
「まだ当分そんな予定は全くないよ!?」
「照れなくても。お兄ちゃんは応援しているよ」
「しなくていい――――っ」
なんでそう飛躍するのか。
わたしは一層強くヒューを揺さぶりながら、またあの黒い靄を食わせてやろうかと真剣に検討した。
がくがくと首を前後させながら、ヒューは朗らかに笑っている。こういうときばかり笑いやがって、ちょっとは泣いてしまえ。そして枯らせ。
「大体、その彼って誰だよ!」
まずはそこだ。わたしはひとまず揺さぶるのを止めて、ヒューを睨んだ。
門からこの寮まで来る間、一体誰に何を吹き込まれたというのか。そこをはっきりさせなくてはならん。わたしをこの冷や汗製造空間にぶちこんだ犯人を見つけなければ、夜も眠れない。
ヒューはわたしの問いに気をよくして、それはもうぺらぺらと喋り始めた。
「いやあ、入れてもらえたのはいいんだけど、ここって広くて、迷っちゃって。ハティの居場所もわからないし。門番の人は何か怖くってね。そうしたら、彼が通りがかったらしくて、話を聞いてくれて」
「ほう」
「僕の話を黙って聞いて、それでハリエットさんのお兄さんですか? って。ハティを知ってるのかって聞いたら……それはもう親しげなエピソードを滔々と語ってくれてね。いやー、ちょっと妬いちゃったなあ」
ああ、読めた。
もともと交遊関係の広くないわたしだ、親しげなエピソードを語る男など限られてくる。
ニールはそもそもこんな昼間っから出歩くことはないし、迷ってるやつを助けるような奉仕精神は持ち合わせていない。ユリエルも教室に籠りっきりだ。アルフは記憶ないし。ヴィクターなら、平民ちゃんのヒューがこんな親しげに話せるはずもない。
第一、わたしとのエピソードを滔々と素面で語ってくれちゃうようなボケた人間を、わたしは一人しか知らない。
すっと引いた視線に気づかず、ヒューはにこやかに言葉を続ける。
「最初は、何か大きいし目付き悪いして怖かったんだけど、すっごいいい人だったね。あんな人なら、ハティを任せても安心だな!」
「……ちなみに、名前は?」
「うん、聞いたよ! サディアスくん!」
やっぱサディアスじゃん。
ああー、もう想像に容易い。恩義がどうたらでぺらぺらと美化したわたしを語るサディアスと、それに目を輝かせるヒューの姿が。門番さんはなぜ突っ込まなかった。
わたしは思わず天井を見上げて目を閉じる。サディアスはなぜそこで通りかかってしまったのだろう。お陰でヒューが変な盛り上がり方をしている。
この燃え上がる男をどうやって鎮火しようか、わたしは頭を抱えた。
結局、ヒューの盛り上がりに関してはノータッチでいくことにした。
幸いというか何というか、サディアスに関しても始終こんな感じだったらしいので、もう勝手に盛り上がっとけって感じだ。
日が沈む頃になって、ヒューはそろそろ帰ることを告げた。
「泊まっていかないの?」
「マデレーン様にもそう言われたけどね。僕にも仕事があるから」
これでも強くなったんだよ。そう笑うヒューは確かに、昔とは比べ物にならないくらい逞しくなった。捲ったシャツの袖から覗く腕に、わたしは頷く。
「それじゃあ、またね。怪我しないでね、特に顔」
門の手前まで見送りにいけば、ヒューは目に涙を貯めながらも、それを溢すことはしなかった。それを最初にも発揮してほしかったところだが、泣かなければヒューじゃないような気もする。
わたしも、結局ヒューはいつまでも泣き虫だと思っていたのだ。
手を振るわたしの前で、ヒューが唇を噛む。
「……うん、頑張るよ。それ、何でかみんなに言われるんだ」
苦く笑うヒューの涙は今にも落ちてしまいそうで、わたしはその背中をぐいぐいと押し出した。わたしに成長を見せたいと言うなら、最後まで泣き顔は見せないでほしい。
わたしの意思が伝わったのか、ヒューは声だけで笑って足を進めた。
「じゃあね、ハティ。今年こそは、帰ってきてね、父さんも待っているから」
「うん、絶対帰るよ。だから元気でね」
もう顔も見れないらしいから、わたしは努めて朗らかに告げる。ヒューのいう父の顔も随分とぼやけてしまっていた。
最後にヒューは、ついに目を腕で塞いで、こっちを向いた。
「――そうだ、サディアスくんも誘ったからね。一緒に来てね」
言い残し、兄の背に門が掛かる。
わたしは一抹の寂しさとか、感慨とか、そういうものを全て吹っ飛ばして、今すぐヒューを追いかけたい衝動に刈られた。
あいつ今、何て言った。
………………はあ?!