47 失意
サディアスと共に歩き出した道は、高等部の校舎へと続いていた。
見慣れたクリーム色と青い屋根の校舎が見えてくる。それが近づくたびに、わたしの心臓は鼓動を止めそうになる。
「ハリエットさん、大丈夫か? 顔色が……」
よほどひどい顔をしているんだろうか。屈んでわたしの顔を覗き込んでくるサディアスに、わたしは何とか笑いかけた。
返事の代わりに、はたはたと風に煽られている小豆色のコートを引っ付かんで、自分を奮い立たせる。
何て様だろう。こんなにわたしはビビりだったっけな。
そんな風に自嘲しつつ、下がりそうになる足を気丈に動かす。
やはり高等部の生徒も闘技場に出ているようで、人の気配は全くない。しんと静まり返った校舎は、どうしてか不気味に見えてくるものだ。
玄関の前にまで来て、そっと深呼吸。
「さて、行くか。サディアスくん」
「ああ……入って、いいものか」
ここまで来て今さら戸惑う様子を見せたサディアスに、わたしは問答無用で引っ付かんだままのコートを引っ張る。
臆することはない! 学園を抜け出したわたしが言うのだから、心配はいらない。校舎に忍び込んだくらいで、退学にはならんだろう。多分ね!
その心配がなければ、あとは折檻くらい耐える。
コートをぐいぐいとされて、サディアスも重い足を引きずって、校舎内に足を踏み入れた。
見慣れた光景ではあるのものの、スチル背景と実物では質感も印象も違う。なおかつ、がらんどうの校舎は見たことがない。
わたしはかつかつと音を響かせ、廊下を進んでいく。
「向かっているのは、地下? 詳しいんだな、あなたは」
「……まあね。見取り図もあるし。一階の突き当たりに、地下室があるはずなんだよ」
ニールのくれた見取り図をサディアスに渡せば、彼はそれをしげしげと眺め出した。今日一日でひどい扱いをしたせいで、その紙はくしゃくしゃだ。
二人分の、重さの違う足音が廊下に反響する。それ以外、何も聞こえない。
耳の横で、ふわりとわたしの髪が揺れた。
「――――ッ」
突然、サディアスが息を飲んだ。
剣さえ抜きそうなただならぬ様子。それに何かを問いかける前に、彼はわたしの手をきつく掴んだ。
でもそれだけだった。逃げるとも、戦うともしない。
わたしはどうしていればいいのか分からなくて、声さえ掛けられなかった。わずかな沈黙は、サディアスの固い声に破られる。
「…………いる」
「――え?」
「誰か、いる」
何も聞こえない。
耳が痛いほどの静寂の中、わたしとサディアスの吐息以外が死んでいる。サディアスの言うように、誰かがいるなんて信じられなかった。
それは彼も同じだったのか、声に出すことでさらに握る手の力が強くなる。
「……誰だ。気づけないなんて、そんな」
ぽとりと落ちた本音がすべてを物語っている。
そうだ、あのサディアスが気づかないなんて。
彼には、使いこなせる魔法だってあるのに。人の有無を探ることなんて、水なら簡単なはずだ。わたしはそれを知っている。
こと水魔法に関しては、技術だけは勉強した。サディアスが察知できないなら、それは打ち消されている。
そんなことができる人間なんて、この学園ではひどく限られているだろう。
窓が閉ざされているはずの廊下に、生ぬるい風が吹き荒れる。わたしの髪が揺れる。
かつん、かつん。
と、ゆっくり近づいてくる音は、わたしの予想を現実のものにした。
「……お姉さん」
彼女はひどく悲しそうな顔をしていた。
黄緑色の見知った女性を前にして、わたしの足は張り付いたように動かなくなった。どうして彼女がこんな場所にいるのか。
考えたくない。本来なら、彼女のような人は、あの賑わいの中にいるはずだ。間違っても、人気のない校舎になんかいない。
――ここに何かあるからこそ、ここにいるんだろう? ビンゴだ。アルフはここへきた。ついに突き止めた。喜べ、喜べ、喜べ。
「……マデレーン様、何故、ここに」
固い声と共に、サディアスがわたしの前に出る。広い背中に隠れて、お姉さんの姿が見えなくなったことに、ひどく安堵した。
風は未だ、びゅうびゅうと吹き荒れている。窓が揺れる。
「貴方たちこそ、どうしてここにいるの?」
声色は、いつもと変わらないように聞こえた。いつものように、ドジで天然でおっちょこちょいなお姉さんの声だった。
サディアスの手が剣に掛かっているのが、嘘みたいだ。嘘だったらどんなにか。
「ねえ、何をしているの?」
答えないわたしとサディアスに、お姉さんは優しく問いかける。
お姉さんは優しい。後ろから覗き込んで、優しくそう聞いて、ふふふと口を押さえて笑う。そういう人だったはずだ。
お姉さんの問いにサディアスが答えられるわけもなく、その答えはわたしが持っている。だからこそ振り向いてこちらを伺ってきたサディアスに、わたしは小さく頷いた。
そっと一歩だけ前に出て、サディアスの横に並ぶ。
「……ここに、何かありますか? わたしたちに見せられないようなもの、ありますか? 悪いものがありますか?」
わたしの問いに、お姉さんはひどく悲しそうな、傷ついた顔をする。わたしにはその理由がわからなかったけれど、わたしの思う優しいお姉さんが、そうではなかったという事実だけが悲しかった。
それが、何で悲しいのかを考える余裕はない。
お姉さんを穴が開くほど見つめ続ければ、彼女は小さく小さく息を吐いた。
その吐息が、強風に変わる。
「――――くッ……!」
サディアスがコートを翻し、わたしを包み込んで後退した。視界が真っ赤になって、耳に風の音だけが届く。
落ちたコートに視界を開けば、わたしたちが立っていたはずの場所にはガラスが散っている。
ゾッとした。
ガラス片を巻き込んだ風を受ければ、裂傷は全身をくまなく這うことになる。瞳や首も避けられない。
「サディアス、大丈夫?!」
「……問題はない」
サディアスはコートを脱ぎ捨てると、その鋭い目をお姉さんへと向けた。その体に傷は見られなくて、わたしは息を吐いた。
お姉さんは相変わらず、何もしていないような姿で悲しく笑んでいる。黄緑色の髪が逆立つように風を纏っている以外は。
あのお姉さんが、生徒を傷つけるだろうか? 未だに目の前の女性があのマデレーン様なのだと、信じがたい。
「どういうつもりですか!?」
開いた距離と風の音に負けないように、叫ぶ。自分が思うよりか細い悲鳴になったその言葉は、しかしお姉さんまで届いたようだった。
お姉さんの笑みが深くなる。
「どういうも何も……こんなところに中等部の生徒が来ちゃダメよ?」
「地下に何かあるんですかッ!? ねえ、アルフは!」
アルフは、どうして。問いかける前に、お姉さんは表情を消す。
わたしはじりじりと後ずさっていた。悲しさと恐怖と未知とがない交ぜになって、自分でもよく分からない。こんなに混乱を極めた感情を抱いたことは、前世でも一度もない。
簡単な、分かりやすい好き嫌い以外の感情を、わたしは……。
「私のことは信じなくても、いい」
表情を消したお姉さんが、突如としてそう言った。ごうごうとなる風の音も何も聞こえなくなって、その言葉だけが頭に残る。
無表情のはずのお姉さんは、確かに泣いている気がした。
「私は、ここが……それを……大切に、守るために、創ったのだわ」
確かめるように、自分に言い聞かせるように言うお姉さんは、不思議なことにわたしと重なって見えた。何かを守るとか、そういうことじゃなく、ただ不安な人間のように見えたのだ。
爪を噛むお姉さんは、そのままわたしたちに背を向ける。
「…………去りなさい。見なかったことにしなさい。何も知らなかった。それだけを覚えていなさい」
絞り出すような声に混じって、がりがりと爪の剥がれる音がする。
相変わらず、わたしの足は張り付いたように動かない。意図せずは動くというのに、お姉さんに駆け寄ることも、逃げることも叶わない。
「ハリエットさん、行こう」
暖かさに包まれて、ようやく一歩、足が下がる。
「っ、サディアス……くん……」
「いいな」
わたしの情けないほどの震えた声に、サディアスは有無を言わせず手をとった。よろよろと足が動いて、サディアスのあとをついていく。
お姉さんは最後まで、振り向くことがなかった。ただ、廊下の先の暗闇だけを見つめていた。
ああ、なんだか頭が重い。
手を引かれるまま、わたしは闘技場の席の一つに座らされていた。
恐らくはサディアスが連れてきてくれたのだろう。校舎からの記憶は曖昧で、どこをどう通ったのかも覚えていない。
ただ、わたしが考えたくないだけかもしれない。
こうして賑わう人に埋もれていると、さっきまでの沈黙が嘘のようだ。人の熱と笑い声に、体の感覚が戻ってくる。それと同時に、さっきのことも。
ワンピースの裾を握り込んだ拳が、ぶるぶると震えだす。わたしが今、お姉さんに怒っているのか、恐怖しているのか、悲しんでいるのか分からない。
……冷静になれ。冷静にならなくちゃ。客観的に物事を見るのは、苦手ではなかったはずだ。
わたしは深呼吸して、周りの歓声と応援を意識から追い出す。
あの場にお姉さんがいたのは、偶然ではないだろう。わたしが来ると、お姉さんは分かっていたのだろうか。
そして、あの場には必ず何かがある。地下の、物置であるはずの場所。ゲームではニールが住み着いていたが、今回は違うはずだ。ニールがそんなことするはずは、ない。
やはり、お姉さんが何かしているのだろうか。優しい顔は嘘だったのだろうか。
――そして、あの場がアルフの踏み入れた場だとするのなら、何故、わたしとサディアスは記憶を消されることはなかったのか。
仮にお姉さんが消せる術を持っていなかったのだとしたら、アルフの記憶を欠いた者は他にいることになってしまう。それも、闇属性か、滅んだはずの呪術を使う人間か。
「ぐ……ああっ、もおお!」
イライラする! わけのわからないことばっかりだ!
お姉さんは何か怪しいし、言ってたことも気になるし、答えは全部わたしには求められないし! わたしはただ、アルフの記憶を返して、それで、またみんなで仲良くできたらいいと!
それを阻む理由が、一体どこにあるというのだ。
わたしは髪の毛を毟るかのように掻き回して、大きく肩を落とした。髪の毛はぼっさぼっさになってしまった気配がするが、そんなことはもうどうでもいい。
なんかもう、色々どうでもよくなってきた……。
「何のためにこんなことしてんだっけ、わたし」
上を見上げてみても、日除けの骨組みが見えるだけだ。風が頬を撫でるのが鬱陶しくて、わたしは両手で顔を押さえた。
自分自身の前世さえ分からないのに、他人なんてますます分からないに決まってる。
ますます項垂れたその時、わたしの周りを包み込むように、一際大きな歓声が巻き上がった。折角聞こえないふりをしていたのに、あまりの大歓声に思わず気をとられてしまった。
普段なら、絶対に聞くことのない淑女の皆さんの黄色い声。
「オルブライト様――!」
おわあ、アルフかよ。
さっきまでの心ポッキリ状態も忘れて、その歓声に煽られるように真ん中の闘技場へ目を移す。そこには、日を受けて一層燃える赤い髪。
真っ直ぐ前だけを見つめていたアルフは、それでもその歓声に答えるべく大きな炎を頭上に灯した。わたしの視界がぶれる。
周りの期待に、こうやって答えるアルフを見るのは初めてだ。わたしの知るアルフは、何にも興味がない、まるで視界に入ってもいないように振る舞う。
アルフのパフォーマンスに、相手の男子は剣を抜く。それを天に翳して、やはり周りの歓声に答える。
周りは熱く、熱くなっていく。
楽しそうな顔が、周りを埋め尽くす。
「……」
アルフが微かに笑って、頭上にある炎を散らした。周りに散らばった火の気が、放射状に伸びていく。
周りは沸き立つ。
――――ああ、いいなあ。
その時わたしはそれの全てが、何でかとても羨ましくなったのだ。