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乙女失踪事件の弊害  作者: 青野錆義
プロローグ
5/110

閑話 ヒューの恐怖

 僕の名前はヒュー・ベル。

 フルネームにするとちょっと語感が悪いのだが、今は亡き母がつけてくれた名前だからとても大切にしている。


 母は妹を産んですぐ亡くなった。僕は妹とは年が十も離れているから、母をよく覚えている。どことなく陰はあったが、真っ白くてとても綺麗な人だった。外出がちで、あまり話した記憶はないけれど。

 母が死んだ時は寂しかったが、それでも僕には二人の家族がいるから大丈夫だ。

 今では僕が長男としてベル家を支えていかなければならないのだと思っている。


 父の名はヘイリーという。

 本関係の仕事をしているらしく、家にある大量の本はそのためらしい。本は高いから、売れば金貨がいくらか貰えると思う。それでも父は、「本は一財産だ」と言って決して売ろうとはしなかった。笑うことは少なくてちょっと怖いが、それでも本当は優しい。僕の金のくすんだ髪は父譲りだ。


 そしてもう一人、妹のハリエット。

 まだ幼いけれど賢くて、まるで天使のように可愛い。僕はいつも白い髪に頬擦りをしたくなる。


「ハティ、ハティ」

「あ、お兄ちゃん!」


 ねだって買ってもらった大きなベッドから飛び下りて、僕に駆け寄ってくるハリエットは僕にとって特別な存在だった。

 たった二人の家族の中で、大切に守らなくてはいけない存在なのだ。

 僕は男の癖に泣き虫だとよく言われるけれど、ハリエットはそんな僕を見るといつも大人びたように微笑んで頭を撫でてくれた。周りの人みたいに、呆れることもなく。

 魔力のあまりない僕は、ハリエットのために兵士に志願した。ずいぶん経つのに、まだ剣も戦いも少し怖い。

 それでもハリエットはやはり笑って励ましてくれる。

 彼女のおかげで僕は、母が死んでももう泣かなくていいのだ。


 ハリエットは昔から少し変だった。

 友達も作ろうとはしないで、本を読んだりまだ未熟な魔法を使おうとしたりする。そのわりには、自分から放たれる魔法を唯一怖がっていた。

 昔からそんなだから気にも留めていなかったが、父は「ハリエットは頭がいいのかもしれないな」と、将来のためにたくさん本を貰ってきた。

 その本はまだ父の部屋に置いてある。

 いつか一緒に読めるといいなと、その時の僕は思った。



***



 ある日、隣の部屋からの物音で目が覚めた。

 ハリエットの部屋からだ!


 まどろむ頭を叱咤して体を起こすと、明らかに精神に異常をきたしたようなこの世のものとも思えない呻き声が、なぜかハリエットの部屋から聞こえてくる。

 耳を疑った。

 その呻き声がハリエットの声に違いなかったからだ。


「ハティ……!?」


 シーツに足を取られながら、ベッドから落ちるようにして部屋を飛び出す。

 気が気じゃなかった。


 もしハリエットになにかあったら、僕は――!


 ハリエットの部屋のドアを蹴り破るようにして開けると、その光景に一瞬めまいがした。

 ハリエットにそっくりな人物は、あの綺麗な白い髪を掻きむしりながら、到底表現できないような呻き声をあげていたのだ。ドアを開けた音に気づいて、彼女は手を止める。


「ひっ!?」


 ハリエットの形をしたなにかは、口を小さく開けたまま白目を剥いた。その小さい体がベッドに落ちる。

 ほんの二、三秒で彼女は意識を取り戻したが、ほんの二、三秒のことが、僕には永遠に感じられた。あの可愛いハリエットはもう二度と帰ってこないのだと、誰かに宣告された気がしたのだ。

 目の前の惨状に身動きもできないまま、絶望にうちひしがれる僕の視界は突如真っ白になった。顔面に何かが直撃したのだけはわかる。

 ハリエットの匂いだけが、変わらず僕を安心させた。



 しばらくしても、やっぱりハリエットは治らなかった。父に医者に見てもらおうと何度も言ったのだが、返ってきた答えは「気にしすぎじゃないか?」だけ。


「お兄ちゃん! あそぼ」


 そう微笑んでくれたハリエットは消えた。


 あの日から妹は、めっきり笑わなくなった。笑うとしたら口の端を吊り上げて「ハッ」と不気味に笑う。口数も減った。

 スープにパンを浸して食べるところだけは変わらなかったが、そればかりか父の買ってきた本を読むようにまでなった。


 ハリエットはまだ五歳の少女で、あの本はアカデミーで何年か勉強したあとに渡そうと思っていたものだ。父は目を見張ったが、辞書を片手に躍起になって本を読むハリエットをちょっと誇らしげに見ていた。

 僕はとてもそんな気になれない。

 あれはどう見ても病気だ。

 朝から晩までとり憑かれたように本を貪り、手からはおぞましい闇の靄を放った。ハリエットはあれをあまり好きじゃなかったはずなのに。その深い闇は、僕と妹の部屋の壁を確実に削り取っているのだ。妹の部屋の可愛らしい壁紙が剥がれ、ぼこぼこと断面が露出している。

 そして削るとすれば、僕の精神も。

 真夜中に音もなく壁が消え、毎日毎日薄くなった壁越しに声をかけられるのだ。


「何か話して?」


 と。

 せめてもの思いを込めて、楽しかったハリエットとの日々を語る。

 ハリエットが花を摘んで、僕に冠を作ってくれたこと。「どこで覚えたの?」と驚いた僕に、ハリエットは「ひみつ」と可憐に微笑んだ。薄く色づいた唇に指を当てたハリエットのなんと美しいこと。

 あの微笑みがもう一度見たい。


 それでも壁越しに聞こえる声はそっけない。


「ふーん……」


 妹は僕の希望をことごとく打ち砕いた。



 最近体調が悪い。

 きっとハリエットがいないせいだ。

 いつもは一緒に寝ていたのに、今では同じ空間にいると息が苦しくなる。呼吸をすると嫌悪感がせりあがってくる。

 一人でベッドに横になると、すぐに睡魔が襲ってきた。視界が黒い靄で埋め尽くされる。

 最近、なぜか眠りも浅いのだ。あまりよく眠れていない。


 ――黒く、短く切った髪の女が、僕を見ている夢を見る。

 妹の削った壁に張り付いて、僕をずっと睨んでいる気がする。目の下にはうっすら隈ができでいて顔色も悪い、髪は頬に張り付いていた。

 震える手でベッドを探る。


 暖かいはずのベッドは、一人分の熱で心もとない。手の先は自分でも驚くほど冷たくて、胸がまた苦しくなる。

 前までは、ハリエットがいたのに。

 僕が怖い夢を見て目を覚ますと、絶対にハリエットは目を覚ました。怯える僕を見て、またふっと微笑んで抱きついてくる。


「大丈夫、お兄ちゃん」


 それは子供とは思えない表情で、僕はいつも亡くなった母を思い出していた。母と一緒に寝たことは覚えてないが、多分こんな感じだったと思うから。

 その時ばかりは守るべきハリエットを、年下だとは思えなかった。


 気がつけば、朝になっていた。

 またほとんど眠れなかった。


 ふとなにもない壁を見つめて、あれは本当に夢なのか? と考える。あれだけ精巧な夢を見ているのか? そもそも夢を見ているのに、眠れていない? おかしいんじゃないか?


 ふらふらと覚束ない足取りで部屋から出れば、妹が立っていた。もうハリエットに似た妹を無視しても、心が傷まなくなっている。

 それよりも、やらなくてはならないことがあるのだ。


 妹の腕がぱたりと落ちた。



 なんとなく最近、妹を見ても胸が苦しくなくなった。それどころか妹もどこか心配そうに僕を見つめてくる。


 よく考えれば、黒髪の女が部屋にいるなんておかしな話だと思う。

 僕の部屋にいったいどうやって入ってくるのだろうか。

 今まで僕は頭がおかしかったのか?

 顔色の悪い僕を、父までもが心配しているようだった。忙しい父に余計な心配をかけるなんて、僕はどうかしていた。僕と妹を支えているのは父の仕事に他ならない。


 その日、初めて妹に一緒に寝てくれるように頼んだ。


 単純にまた悪夢を見るのが嫌だっただけなのだが、妹は案外普通に僕を部屋に引っ張った。目元を乱暴に袖で拭われたが、僕は泣いてない。

 妹はまだ口数も少ないし、相変わらず本ばかり読んでいる。それでも僕はなぜか、以前より恐怖を感じなくなっていた。

 むしろ、妹にどうして恐怖を感じていたんだろうと思う。

 到底理解できないはずの本を躍起になってめくる指は、すっかり切り傷だらけになっている。昔ハリエットが嫌いだといった魔法を、克服しようとしているに違いなかった。


「おやすみ、ハティ」


 あの日から、初めて名前を呼んだ。

 心臓がばくばくと高鳴っている。

 思わず背中を向けると、ハリエットは僕の背中に手を置いて、ゆっくりさすった。


「おやすみ」


 ちょっとぶっきらぼうな手は暖かかった。

 二人分の体温のベッドは、よく眠れた。

 翌日のハリエットはいつも通りそっけなかったけれど、僕は前ほど嫌だとは思わなかった。相変わらず口の端を吊り上げてちょっと不気味に笑うし、可愛らしい服も嫌がるようになった。前のハリエットとはちょっと違ったままだ。

 それでも、可愛い僕のハリエットには違いない。

 

 

 近々アカデミーに行くハリエットを思って、剣を握り直す。

 愛しいハリエットが帰ってくる時までに、僕は頑張って強くなっていようと思う。

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