43 友達
やばいっしょ。何がやばいってわたしのメンタルが。
目の前にはほかほかと湯気の立つスープと、パンが置いてある。しかしながらそれを手に取ることも躊躇われて、わたしはできるだけ相手の視界に入らないように縮こまっていた。
カレンちゃんが「一緒に」食べようと言ってからしばらく。あの律儀な男はカレンちゃんとの約束通り、ほぼ走るようなスピードで食堂の扉から入ってきた。
「カレン! ごめん、待たせた」
そう言いながら、探すそぶりすら見せずこちらへ寄ってくるのはさすがとしか言いようがないが。その靴音が近づいてくるたび、わたしの胃があり得ないほどの痛みを訴えている。
隣のカレンちゃんはというと、アルフの声に立ち上がって手招きをした。招かんでいい。招かんでいいです。
「こっち」
「ああ、待って。持ってくるから」
カレンちゃんの声に颯爽とトレーを手に戻ってきたアルフは、そこでようやくわたしという異物の存在に気づいたようだった。
髪の隙間から覗いてみると、戸惑うような瞳がわたしとカレンちゃんを行ったり来たりしている。軽く挨拶でもした方がいいのか。それともあれか、土下座か。
結局悩んだまま微動だにしないわたしを尻目に、カレンちゃんはさっさとアルフを向かいに座らせた。この子、意外と強引だ。
「……えーと、カレン?」
「私が誘ったの。ほら、アルフ……」
なにやら囁きあっている二人。わたしはそれどころじゃない。胃潰瘍再発する。かつて、会社でもこんなにも気まずい思いをしたことはなかった。
本来なら、わたしがさっさと謝って然るべき扱いを受けなければならないのだと思うものの、この空気では一言も話すことができない。いっそのこと、やっぱり開幕土下座で対応するべきだった!
結局悶々と考え込みながら黙っていたわたしに、なにやらこそこそ話していた声が途切れる。
と思えば、そっと袖を引かれて隣の方へ意識を向けさせられた。
「ハティちゃん」
「う……えーと、食べる?」
にこっ。
かつてないほど表情筋をフル活用して微笑んでから、心の中で叫んだ。
「食べる?」じゃねえよ。前見ろよ。アルフいんだろうがよ。なに無視してんだよ。
そんなセルフツッコミが頭の中をよぎるものの、わたしができたのはただにこにこと目の前の皿を指差すことだけだった。これは心証悪い。
当然のごとく首を横に振ったカレンちゃんは、そのままアルフの方へ目を向けた。わたしの袖を掴んだまま。
「アルフ」
「……えー、や、その……」
ほらアルフも戸惑ってるじゃん! 止めよう! こんな無茶苦茶な食事会止めよう!
良い笑顔を浮かべたままアルフを見れず、ひたすら震えていると、カレンちゃんは空いている方の手でテーブルをぺしんと叩いた。
全く威力のないそれは、けれども不思議とわたしの震えとアルフの意味のない声を止めた。
しばしの沈黙。
そしてそのあと、観念したといった様子でアルフがこっちを向いた。赤い瞳からの視線をひしひしと感じるものの、わたしは菩薩の笑顔で目の前の皿を睨む。
ごめんなさい。もう、どうにでもしてください。
「……あー、その、ハリエット、さん? ごめん、色々」
「は?」
素でとんでもない返しをしてしまった。だ、だって今アルフが謝った気がする。幻聴乙。
不良ばりの「は?」にアルフは一瞬息を飲んだものの、すぐさま姿勢を整えてわたしの方へ――頭を、下げる。
人が少ないとはいえここは食堂で、そんな人目のあるところでオルブライトさんちのアルフくんに頭を下げさせる平民ちゃんのわたし。
まずすぎる。
「ちょ、いやま――」
「ごめん! 話はカレンに聞いた。色々してもらったのに、それ全部俺が覚えてなかったって。カレンに会うためにしてくれたこととか、『親友』だったらしいとか、本当に、俺覚えてなくて」
矢継ぎ早に捲し立てるアルフに、わたしは目を丸くした。よもや、わたしが謝られるなんて意味が分からなさすぎる。
アルフの言っていることが頭に入らないまま、慌ててカレンちゃんを見る。何か説明が欲しかったのだが、彼女は満足げに頷いている。
違う、圧倒的にわたしに対する説明が足りない……!
「あ、あのいや、とりあえず、頭あげて」
混乱したまま言うと、アルフはあっさり頭を上げた。赤髪がさらさらと流れて、その随分と成長した凛々しい顔が真ん前に現れる。
その顔があんまり真剣だったので、わたしはとりあえず何かを言わなければならないと思った。全く事態は分からないが、それでもいいからと口を開く。
「えーとえーと覚えてないのは気にしてないです。謝らなくていいです。わたしはなにもしてないです。こちらこそ、肘打ちして逃走してすみませんでした」
そこまで言って、頭を下げる。下げすぎてスープに顔面が浸かる勢いだったが、わたしはそれほどパニクっていた。
罵られるかはたまた困惑されるというビジョンは浮かんでいたが、まさか逆に、こっちより先に謝られるとは。しかも、ただ五年ぶりに会った知り合いを忘れたくらいで、そこまで真剣に。
アルフが約束を違えないほどに律儀で、またカレンちゃんからの圧力があったと知らないこの時のわたしは、ただただアルフの行動に困惑していた。
「あ、あれはあんまり痛くなかったし、気にしてないよ。それに、忘れた俺が悪いんだ。親友って約束してたって、聞いたし」
アルフは悪くない。記憶が消えているのだから。それに、手紙の内容で必死に悩み、解決しようと足掻いたことをわたしは知っている。
故に、その謝罪は受け取れなかった。
「……いいえ、子供の口約束です。あの場でわたしが起こしたことの方が、責任があります。どうぞ、処罰のほどを」
アルフとの問答の末に、冷静になってきた。わたしはきっちりとそこまで言って、今度はしっかりと頭を下げる。本当はもっと早くにこうしなければならなかったのだ。
目を瞑ったまま頭を下げ続けていると、膝の上で握っていた手に、暖かい手が乗せられる。今まで見守るようにしていたカレンちゃんだ。
目を開けてゆっくり頭を上げれば、真剣な顔のカレンちゃんがこっちを見ていた。アルフの方は、どうにも気まずげな顔で頬を掻いている。
「どっちもどっちで、いいね」
「……え?」
「おあいこ」
ポツリと告げられた言葉に、思わずアルフの方を見る。言葉少ななカレンちゃんの思いすべてを察することは、わたしにはまだ難しい。
わたしに目を向けられたアルフは、苦笑いでこっちを見返した。その顔が昔のアルフとだぶって見えて、なぜか胸が苦しくなった。
「多分、俺が忘れたことと、ハリエットさんの行動、どっちもどっちだからおあいこだって。俺も、別に処罰とか考えてないから」
「怒ってないから、大丈夫」
カレンちゃんが手をぎゅっと握ってそう言うから、わたしはほっと力が抜けてしまった。アルフのやれやれと言いたげな表情にも見覚えがあって、気が抜ける。
あんまり緊張していたのは、わたしだけだったようだ。
アルフは「約束」を忘れたことを律儀にも気に病んでいて、カレンちゃんはそんなアルフに謝らせるべくこの場を設けたらしい。完全に、わたしの気負いは杞憂だったようだ。
肘鉄をしたわたしに対して謝るとは、この二人はなんというか、お人好しだ。面識のあるカレンちゃんはともかく、全く覚えていないアルフもこうなのはいかがかと思うが。
ともかくも、この場でわたしの胃に穴が開く事態は避けられた。
「……えっとじゃあ、とりあえず、食べましょうか」
目の前には、すっかり冷めてしまった昼飯。
わたしの言葉に、アルフとカレンちゃんは笑って頷いた。
見よう見まねの適当なお祈りをかましたあと、わたしたちは仲良く昼飯を食べることになった。わたしのお祈りは兄妹に不審な目で見られたが、突っ込まれることなくスプーンを手に取る。
アルフが覚えていないということは、わたしの属性を知らないということだもんな。それに安堵とちょっとした失望を覚えつつも、すっかり冷製になったスープを口に運ぶ。
「……そういえば、ハリエット、さんは俺のこと、覚えてるんだよね」
「あ、……はい」
パンを千切ってぼちゃぼちゃ投入するわたしの横では、カレンちゃんが優雅にナイフとフォークを駆使していた。その前のアルフも然り。
今さらになるが、わたし浮いてるよね。まあ、周りは貴族に貴族なので、今さらこの二人に囲まれたくらいで浮いてるもクソもないか。
「その、カレンから聞いてはいたんだけど。あらためて対峙しても思い出せなくて」
「ああ……仕方ないと思います。もう五年も前ですから」
「でも、カレンは覚えてる。それに、俺が忘れていることに驚いていた」
そりゃあ、一年前までは確実に覚えていたはずだからな。手紙をマメに書くくらいには。
カレンちゃんも、なにかおかしいとは思っているんだろう。この場では言わないが、こっそり隣に目を向ければ、彼女は大きな瞳を細めて頷いていた。
記憶が消えていることについて、あの手紙も含めてカレンちゃんに告げるべきだろうか。その方が彼女にとっていいような気もする。
でも、アルフは巻き込むまいとして話さなかったに違いないのだ。それを無下にしてわたしが話してしまうのも、どうかと思う。カレンちゃんに言えば、アルフにも届いてしまうかもしれないし。
スープを混ぜながら考えていると、アルフは少しだけ口ごもってこっちに視線を寄越した。
慌てて手を止める。はしたなくてすみません。
「それで、良かったらなんだけど。忘れてた俺が言うことじゃないかもしれないけど……」
どうやら、スープをぐるぐるしていたことに対する視線じゃなかったらしい。ほっとしてまたも混ぜなから、何の気なしにアルフの言葉を待つ。
なにかを混ぜている時って、なぜか異様に落ち着くよね。
「よかったら、もう一度親友にならせてくれないか」
その言葉と同時に、スープがこぼれる。おっと、手元が狂った。
ちょっと信じられない言葉が聞こえた気がする。
「ま、マジ……なん……え……」
マジで? なんで? え?
もう一度? 親友に? とまあ、信じられない言葉を口にしたアルフは、やはり真剣な顔でこっちを向いている。
あの時『親友』を口にしたのは、死亡フラグ回避への一歩というか、保険に過ぎなかった。カレンちゃんに会わせてあげたことも、普段一緒に過ごしていたことも、打算がなかったといえば嘘になる。
今は、ニールがいる。アルフだって、カレンちゃんが隣にいる。友達だってできたらしいじゃないか。
記憶にもない、アルフからすれば何の価値もない肘鉄女であるわたしと、わざわざ親友になり直す必要なんか、どこにもない。はずだ。
口を開閉させるだけになったわたしに、アルフは少しだけ眉を下げた。「やっぱり嫌かな」とか呟かれても、何も返せない。
そもそもが、どうして親友になりたいなんて世迷い言を言い出したのか。カレンちゃんにどやされでもしたんだろうか。さっきのやり取りを見ていて思ったが、アルフは意外とカレンちゃんの尻に敷かれている。
「や……約束のことなら、気にしなくていいですよ。覚えていないなら、果たす必要ないものですから」
そう。あれは約束というより契約だった。今思えば、わたしも悪どいことをしたものだ。
でもあの時は、わたしにそれが必要だった。しかしながら、今アルフにそれが必要なのだとは思えない。
「確かに約束を守れなかったということを、気にしてないことはない。でも、それ以上に、カレンの話を聞いてさ、親しくなりたいと思ったんだよ」
何を言ったんだろう、カレンちゃん。横で優雅に食事をしている彼女を見ても、こちらのことを気にする素振りもない。冷たいというより、どこまでもマイペースだな。もとより無口だし。
仕方なくアルフへ視線を戻せば、やつはじっと真剣に返答を待っている。
「わたしと親しくなってもいいことがあるとは……」
「そういうわけじゃなくて。ただ、友達になりたいって話」
その言葉は、どこかで聞いたことがあった。
いつか、わたしが悩んでいた時に誰かが言ったっけな。その時わたしは友達になりたい人がいて、それでも少しだけその人が怖くて、どうにもならない日々を過ごしていた。
話を聞きたかったのだ。死にたくないから、怖いけど友達にならなくちゃと思っていた。親しくならなくては、聞けないことだったから。
ため息を吐いた曇天模様の空の下で、赤い瞳がこっちを向く。
「……それさ、仲良くなりたいって言うの?」と、こんな風に言った少年は、わたしの背中を押してくれたのだったっけ。
打算的な考えが全てじゃない。こんな考えで友達になろうなんて人はいない。そんな感じの問いかけを、まだ幼い少年はなんでもないようにわたしに言った。
アルフがわたしと友達になりたいのは、なにもわたしに価値があるとか、約束を守りたいからとか、そんなんじゃない。
――そう、もっと、単純なことを言いたいんだろうっていうのは、もうとっくに分かってたはずだったのだ。
「……じゃあ、とりあえずお友達から」
上目使いに見上げた先で、アルフがしょうがないなと言うような表情で、懐かしく笑った。