32 忘却か再会か
サディアスと別れたあと、わたしは自室に戻っていた。今から授業に出られはしないだろうし、出ろとも言われてない。
邪魔のせいでアルフに会えなかったのは災難だったが、まだ放課後がある。いや、これからも時間はあるのだ。
「ゲームが始まるまで、あと二年かな……」
そう、あと二年は間違いなくわたしの手の中にある。
呟くと、胸がどきりと大きく音をたてた。
ニールは変わった。もう復讐なんて考えていない。サディアスはトラウマを生まなかった。あいつも変わった、はずだ。
それなら、アルフもきっと。
「ああー。駄目だ、考えすぎだ。寝よう」
ベッドに飛び込んで布団を被る。そのまま大げさに目をつぶった。
相変わらず心臓はどくどくと忙しなかったが、馬車での生活に疲れていたのか、わたしはすぐに寝入ってしまった。
もそり、とだるい気分で起き上がったのはいつぶりだろう。いつもはもっと、すっきりとした目覚めなのに。この砂を噛んだような不快さは、前世での日々を思い出させた。
「んー…………うわ、もう日暮れ……」
思わず出した声は掠れていた。喉もがらっがらだ。
外を見れば、一面オレンジ色に染まっていた。もう授業は終わってもいい頃だろう。
「んん~、はあ。さーて、どうしようかな。一回お姉さんのとこ行って見た方がいいか……それともニールがそのうち来てくれるかな」
後者はまた、えらく確率低そうな感じだけど。
わたしは起き上がって髪と服を整えてから、部屋を出た。やっぱ普段着のまま寝るもんじゃない。しわになってしまった。
念入りにしわを伸ばしてから、女子寮を出る。
さて、やっぱし行くとすればアルフのとこでしょ。お姉さんに話を聞きたいのもあるが、ニールが聞くっていってたし。それをわたしに報告しに来てくれるのかはいまいち分からない。
ともかく、わたしは今度こそアルフの元へ向かおうと、男子寮へ向かった。
――が!
まだ誰も帰っている気配がない。初等部らしき子たちはいるが、考えてみればアルフは中等部になってたんだった。
学年があがるごとに授業時間が増えるなんて、これ常識だよね。つーことは、アルフはまだ校舎の方にいるはずだ。
わたしは二度手間に肩を落としながら、今度は校舎へ足を運んだ。
うん、懐かしの校舎だね。でもアルフがどの授業を受けているのかわからないね。
……それなら大人しく寮で待ってた方がよかったんじゃない? とか言ってはならない。
どうも、気が早ってしまっているようだ。いい年してはしゃいでいるというのが、なんだろうちょっと恥ずかしいぞ。
「……この辺で待ってるか」
そう言って膝を抱えたのは玄関前の廊下。ここならあらゆる人が必ず通るだろう。つまりここではってりゃアルフにも会える。
さっきからちらほら生徒に二度身をかまされているが、何のその。アルフに会うためじゃあないか。
そういえば、昔もこうやってアルフの出待ちをしてたなあ。わたしが視界に映るたび、一瞬だけ顔をこわばらせて見なかったふりをするのだ。
まさか今、そんなことされないよなー。さすがに。
こっちじゃなくて寮で出待ちしてたこともあったな。アルフが初めて口聞いてくれたのは、あん時だったっけ。
うん、なかなかしぶといことをしたものだ。我ながら。
そんなこんなでアルフとの思い出を頭に浮かべながら待っていると、だんだん騒がしさが広がってきた。ようやく授業が終わったらしい。この雰囲気は、異世界でも変わらないね。
授業が終わった若き淑女紳士がぎょっとしてわたしを二度見していくなかで、わたしは廊下をずっと見つめていた。
あの特徴的な赤い髪が目に入るのを、今か今かと待ち望んでいる。会いたくて震えるとはこのことか。
金、茶、白、こげ茶、銀、赤――――いた!
「アルフ!」
叫んで、立ち上がって、その赤い毛まで一直線に駆けていく。あの頃に比べたら、わたしも格段に足が早くなった。アルフに笑われていた頃とは違う。
数人の男子と談笑しながら歩いているアルフをようやく見つけて、わたしはそこへ駆け寄った。
アルフだ。
まだ少し幼さも残るが、それはわたしが知っているアルフの姿だった。
「――アルフ! 久しぶり!」
その時のわたしは、きっと二回の人生の中でも、指折りの笑顔を浮かべていたと思う。
気恥ずかしいので言うのは憚られるが、わたしは多分期待していた。なにもかもうまくいっているアルフが、わたしに笑顔を向けてくれること。それを感謝として受け取れることを。
けれども、顔をあげ、アルフを見上げたわたしに待っていたのは、笑顔ではなかった。
「…………誰?」
困惑と、嫌悪の見え隠れした迷惑そうな顔を向けられて、急速に体が冷えていくのが分かった。それでようやく自分が浮かれていたことに気づいて、冷静になる。
ああー、覚えてないのか。
それだけしか考えられなかった。
アルフの隣にいた男子数人が、わたしを同じような目で見つめる。いやむしろ、もっと懐疑的な目だ。
仕方ないな、覚えてないなら。小さい頃の記憶なんて、あっという間に塗り潰されてしまうものだ。小さなハリエットの記憶すら殺してしまったわたしに、言えることじゃない。
それに、もう五年だ。五年間も離れていた友達のことなんて、すぐ忘れてしまうだろう。
――――友達。
「…………んの、」
「え?」
「アルフのクソ野郎がぁ――――!!!!」
一瞬虚を突かれたといったその綺麗なお顔に、わたしは肘打ちを食らわせた。
覚えのない普通の一般女子からまさか殴られるとは想像してなかったらしい。あのチートなアルフに、わたしは運良く一撃を食らわせられた。
肘打ちにデジャヴを感じる? わたし肘打ち大好き。
周りの生徒まで驚いた顔をしていたが、知ったこっちゃない。八つ当たり? 知らん!
とにかくわたしはもうこれ以上そこにはいられなくて、逃げるようにそばの階段を駆け上がった。
「――親友だって言ったのに!」
負け犬の遠吠えよろしく、捨て台詞まで吐いてみた。
騒がしさが一層増す前に、わたしは大急ぎでそこから逃げる。逃げる。校舎の構造なんて全然覚えていないのに、がむしゃらに走った。
やっちまった。頭を占めるのはこの言葉である。
どえらいことをしてしまった。精神年齢いくつだよ、わたしは。
あれだけ冷静になったと思っていたのに、結果はこのざまだ。覚えていないアルフには、酷いことをした。
かっとなって殴るとか、あり得ない。まあ、そりゃちょっとは理性もあったけど。やってしまえーと思ったよね。どうせチートだし。むしろなぜかわたしの肘の方がちょっとヤバイ感じだし。
どんどん思考がおかしな方向へ向かっていくが、足を止めることはできなかった。走るたびに目に入る風のせいで、じんわり視界が歪む。
とても耐えられなくなって、わたしは目を閉じた。
「――きゃ……」
「――ぅわっ!?」
目ぇ瞑って走るとか、自殺行為だわな。
案の定人にぶつかってしまった弾みで、涙も引っ込んだ。慌てて目を開けると、柔らかそうな茶髪が見える。それから、衝撃にぎゅっと瞑った目を、相手も開いた。
大きな黄色い目。あどけない顔。
肩を越した、ゆるく巻いた茶髪。
うん、ヒロイン?
え、嘘だろ。え、だってまだ中等部……だよね? わたしの間違いじゃないよね。ヒロイン編入してくるの、高等部からだよね。人違いじゃないよね。
うん、間違いなくヒロインちゃん。
まだ幼いが、明らかに間違いじゃないです。設定画はまだしも、顔グラありのゲームだったんだぞ。スチルもあったし、アニメでも何回その可愛い顔を拝んでいたか。
「か、カレンちゃん……」
思わず声を出してしまっていた。
わたしと彼女は一回あったきりで、きっと向こうは覚えていないはずなのに。
「……」
無言。ほらな! 分かってたよ!
前世ぼっちには、こんなの良くあることなのだ。一人だけ名前覚えてもらえないとか、新人の中で一人だけあだ名つけてもらえないとか。ああ……そんなこともあったっけ……。
だから、別に傷つくようなことでもない。さっきのアルフの件は、魔が差したのだ。
「あーっと、ごめんね? ぶつかって。それじゃ……」
「待って、ください。あの……」
ボイス可愛い。
じゃないや。
ヒロインがわたしの服の端をくっと掴む。なんと言うことでしょう。まるで自分が攻略対象になった気分だ。
振り返ると、ヒロイン――もといカレンちゃんが、ゆっくり口を開く。
「ハリエットさん、ですよね。お久しぶりです」
「……お、覚えてたの?」
びっくりして声がひっくり返った。それくらいびっくりしている、なんせ一度だけ、しかも挨拶した程度で――うん、名前を名乗ったかすら怪しい。
わたしがぐいぐい近づいたのにも関わらず、カレンちゃんはマイペースにゆっくり言葉を重ねていく。
そういえば、無口系主人公だったもんな。これもゲーム通りってわけ。
「はい。あの、私、カレン・オルブライトです。初等部四年から編入してきて――」
「ちょっと待って」
聞きましたか、え? き、聞き間違いか、わたしの。本当に、五年の空白はまずかった。なにこの浦島太郎状態は。
律儀に口をむっと閉じて待っているカレンちゃんに、わたしは恐る恐る、上目使いに問いかけてみる。彼女の方が背が低いので、わたしはもう卑屈なレベルで猫背だ。
「あの……ご、ご結婚されたんですか?」
誰とって、そりゃアルフ・オルブライトと。
最近言ったよね、貴族はもう結婚できる歳なのだ、と。あのアルフが、数人の男子諸君と会話に興じていたのはまさか。
ゲーム開始前に、もうヒロインとくっついちゃったからですか?