28 四年半の話
これは、わたしとニールがまだ王都で暮らしていた時のお話。
あの朝もわたしは、低血圧気味の――つまり朝に弱いニールを起こそうとベッドに乗り上げた。ちなみに、転生してからわたしはわりと目覚めがいい方になった。健康的な生活のお陰だろうか……。
しかし、いつもならベッドを軋ませた時点でニールの不機嫌な唸り声が聞こえてくるのだが、どういうわけかその日はうんともすんとも言わなかった。
わたしは不思議に思い、ニールの肩を叩きつつ声をかける。
「ニール! 起きろ! あーさーだーよー」
「…………ハリエット」
掠れた声が聞こえた。よかった、ここでピクリとも動かなければ「し、死んでる……」という一人芸をかましてしまうところだった。
「ほら、今日はニールとわたしで散策でしょ。朝の方がいいってニールが言ったんじゃん」
「……んん……」
わたしの声に顔をしかめるニール。だが伝わったようで、酷くのろのろとした動作で体を起こしてベッドから降りた。
わたしはパジャマとして柔らかい布のゆったりとした服を着ているのだが、ニールは普段着、言うなれば明日着ていく服を着て就寝する。今になって、それは教会側を警戒していたのだと分かったのだけれど。
「ご飯は下で食べようね。なんか作ってくれてるってさ」
カチャカチャとベルトやら装飾品を着けていくニールに、わたしはそう言って微笑んだ。いつもならそこで「他人と食いたかねえ」だとか「てめーの飯よかマシだな」とか言う皮肉が飛んでくるはず。
だが、いくら経てどもニールは口を開かない。むしろ珍しくむっつりとしたまま、ひたすら指輪だとか、チョーカーだとか、ピアスだとかを身に付けていた。
こいつは女より支度に時間のかかる男なのである。
いつもより明らかに口数の少ないニールを、その時のわたしは呑気にも「あー今日は平和だなー無口キャンペーンかなー週五で開催してほしいなー」くらいに思っていた。
それが間違いだと知るのは、ニールと森を散策していた時のことだった。
森の散策の目的は、薬草や小物の魔物を狩って売ること。納品系の依頼があるならあとでそれを取ってもいいし、ギルドに売りつけても金になる。
そんなわけで朝から森をざくざくと歩き続けていたわけだが、ニールは一定の距離を保ったまま近づいてこない。
「ニール?」
たまらず振り返って呼びつけるも、ニールはぶすくれた表情のまま反応しなかった。それどころか、わたしの大声に、何かを警戒するような動きすらみせた。
ニールという人間については、理解もしているし、そこそこまあ、好きな部類でもある。
がしかし、ニールの人間性について信用しているかと言われれば、ぶっちゃけしてない。
「ニール……?」
もう一度、呼んでみる。
ニールはやっとこっちを向くように顔をあげた。
顔をあげて、瞬時に逃げた。
いや、もうね、ニールが逃げるということに関して、わたしはそこだけに絶大な信頼を置いているといっても過言ではない。
何が言いたいかというと、ニールがただしょうもないことで逃げるはずはない。必ず、何か厄介な、それこそ手に負えないようなことに対して、びっくりするくらい機敏に逃げの体制を取る。
つまり、その瞬間――ニールが逃げた瞬間、わたしはすぐその場から飛び退いた。
響く轟音に、さっきまで掻き分けていた草をみやる。そこには見事な大木が倒れ込んでいた。
そして、それを倒したであろう、見事な魔物の姿も。
「で、でけーーーー!!!!!」と、叫ばなかったわたしに拍手を下さい。大きな拍手を。はいありがとう。
でかいとは言えど、二メートルから三メートルくらいの魔物。熊、と例えるのが一番無難かもしれない。
ファンタジー的な世界なのだから、これより大きな魔物だっているだろう。しかしやっぱ、熊。熊って、普通に怖くね?
「ちょっ、ニ、ニール!? おいニール! マジ逃げ?! マジ逃げなの?! ――あーっ、あのクソ野郎! 役に立たねー!」
叫んでみるも、ニールが帰ってくる気配はない。死ね、ニール。ここでわたしが死んだら祟ってやるからな!
もしわたしたちが危険な目にあってニールが逃げる時、それは現時点で勝てる見込みがない時だとわたしは思っている。ニールは人間としてちょっとアレなので、二人とも死ぬくらいなら俺は生き残る、と考えても不思議じゃない。
それはわたしも分かってる。その時、もしニールがわたしを見捨てて逃げても、恨みはするがそれも仕方ないと思うだろう。それを分かっていて一緒にいるのだから。
でも、今のこれはさすがにないんじゃない?
恐怖を感じるのはわかるけれど、二人いれば倒せないわけではないはずだった。
大きく鋭い爪をこちらへ向ける魔物に、わたしはじりじりと後退する。恐怖を込めて、あらんかぎりの闇を纏わせる。
人間なら、これで歯の根が震えるほどの恐怖を味わうはずだ。血の気が失せ、冷や汗に手足の震え、数分もしないうちに地面にへたり込む。
「――はずなんだけどぉ!? っう!」
肩に爪がくい込む。薄い布を切り裂いたそれは、そのままわたしの肩にぶすりと刺さり込んだ。あまりの痛さに駿足で上に逃げる。超浮いた。
木を追い越すくらいの高さで止まったわたしを、魔物は見上げて睨み付けてくる。
状態としては、すっごく怒ってる。
「怒って恐怖を紛らわすとは、獣のさせる技ね……。つーか、すごく痛い……」
ポタポタと流れていく血に、頭から熱が遠ざかっていくような気分になる。前世でこんな怪我をしようものなら即病院だ。
このまま逃げるか、それとも戦うか。
前世なら、熊に出会って戦うという選択肢はない。がしかし、ここは異世界である。しかも、魔法がある。
このまま怪我を負って帰るんじゃあ、労働にみあわないだろう。わたしは気合いを入れると、魔力の量を感覚的に確かめて、さらに闇を放出する。
それに呼応するように、魔物の叫びが増した。
ぐさり、ぐさり、ぐさりとナイフが肉を切り裂く感覚が手に伝わってくる。
ついに恐怖を抑えることのできなくなった魔物に、わたしは上からナイフを突き刺した。抜いて、また刺して、また抜いて。致命傷にならない程度の刃渡りしかないナイフを、ぶすぶすとその体に立てていく。
吐きそうだったのを通り越して、手の痛さや肩の痛さを感じる。
「あー疲れた……。さて、これどうしようかな……」
力尽きた魔物の隣に降り立ちつつ、血濡れの手で短剣をしまう。これをくれた当人はどこへいってしまったのか。一人では運ぶことすらままならないし、まずは逃げたニールを呼びにいくか。
そう考えて、わたしは魔物の死体を放置して踵を返した。
森を王都に向かって進んでいこうとした。
そんなところで、何かを踏みつけた。
「し、死んでる……」
ニールだった。
要するに、ニールには熱があったのだ。それで朝から何やら不機嫌だったのだと、ようやく合点がいった。
「具合悪いならそう言いなよ」
「……もし命を狙われてたらどうする……具合の悪さが知れたら、やつら俺を狙ってくるだろうが……」
なにやら意味不明な発言をしているニールは、ただいま宿のベッドの上である。
さっきの魔物とそう遠くないところで屍になっていたニールは、逃げたはいいものの、具合が悪くそのまま倒れてしまっていたのだった。そもそも逃げた理由も、具合がよろしくない時は体が勝手に動いてしまうんだとか。
それでも助けを呼ばねばなるまいと王都に足を向けたのだから(たどり着けてないけど)、まあ病人だし、許してやることにした。
屍になったニールを背負いながら血塗れで助けを求めたわたしは、オズからすればめっちゃ怖かったろう。それなのに快く魔物とニールを片手ずつ運んでくれたオズには、感謝である。
「これから具合が悪い時は言ってよ。気づかなかったわたしもあれだけど」
すっかりきれいな服に着替えたわたしは、濡れた布をニールのおでこにおいた。ニールはもごもご言いながら、赤ら顔でそれを甘受している。
「具合が悪いっつったら……置いてくだろ……」
「は? なに、急にお仕事やる気になったの」
いつも行きたくない働きたくないやりたくないと、ないない尽くしのくせに? と濡れた布をぺちぺちしていると、ニールはうんうん唸りながら掠れた声で呟いた。
「病人は切り捨てられんだろ……」
いったい何の話をしているのか、わたしにはさっぱりわからなかった。ただ、その発言がニールの過去に起因していることは分かる。
わたしは黙って、ニールが寝るまでそばにいた。
次の日、ニールの風邪が移ったわたしを、ニールは拙い手つきで看病してくれた。それはいわく「病人を看病したことなんかねえよ」と言ったニールの、はじめてのことだった。
ついでにわたしの肩もぎこちない手つきで手当てしてくれたのだが、さすがにそれすらはじめてなのは驚いたもんだ。そりゃ、嬉しかったけど。
「っていうことがありまして」
「まあ、すごいわ!」「麗しい愛ね……」「羨ましいわ~!」
三人の、年齢もバラバラな女性がうっとりと声をあげた。
馬車は相変わらずゴトゴトと揺れているが、ニールの上に座ったわたしからすれば敵ではない。後ろのニール本人からのプレッシャーには耐えがたいものがある……が。
行き帰り合わせて半年間――つまり同乗者とは三ヶ月ほどこの馬車で旅をするわけで、当然同乗者ともより良い関係を築かなくてはならない。人嫌いだとかいってる場合ではないのだ。
そんなわけで、仲良くなった女三人、退屈な旅の途中にすることと言えば、当然恋バナである。
一人は人妻、一人は独身、一人は冒険者、そしてわたしはまだ少女。だというのに、何故いつもわたしとニールは恋仲にされてしまうのか。
いつもというか、お姉さんのみだけど。
「わたしも冒険者の端くれなのに、そんなロマンス味わったことないのよねえ……」
これ、ロマンスか? とは聞いてはいけない。
「二人の馴れ初めもとっても素敵だったけどねえ」
夫との馴れ初めより? とは聞いてはいけない。
「ああ、あたしもニールさんみたいな方と知り合いたいわあ~!」
本来の性格を知ってなお、そう言うか?! と、聞いては、いけないのだ。
恋バナと称してニールとの出会いから最近の出来事まで一つ残らず搾り取られたわたしは、後ろで心底嫌そうな顔をしているニールと同じく項垂れた。
前世でもそうだったけれど、あんまり同性の友達が存在しなかったわたしは、なんだかんだで友好的な女子に弱い。
恋バナに興味のない残りの男性陣は、苦笑して肩をすくめていた。
「あ、あはは……」
勢いのある女性陣に、わたしは乾いた笑いを漏らすのみだった。
あぐらをかいた足の隙間にわたしがいるせいで、逃げも隠れもできなかったニールのことを思うと、なんという羞恥プレイかとも思う。
ごめんニール。
さて、そうして馬車が国境付近についたのは、出発してから三ヶ月後のことだった。