10 お姉さん
学園の外観が見えるところまでくると、わたしは大きく息を吐いた。
普段使うことのなかった筋肉が震えている。気をつけなければ今にも膝が抜けてしまいそうだった。
……これは間違いなく絶対に明日は筋肉痛だ。
前を走るアルフでさえ肩で息をしている。おんなじ町の、なおかつアカデミーから近い教会だとしても、わたしたちの体はまだまだ子供。歩幅や体力だって大人に比べたら微々たるものだ。わたしたちは学園に着くまでしばらく無言で走り続けていた。
もう日は今にも落ちてしまいそうだ。
わたしたちが抜け出した柵にやっとたどり着く。
「アルフくん……早く」
「分かってる! お前も……」
「先に、行ってて……」
腕を動かすのさえつらい。わたしはひどくゆっくりした動きでアルフの肩を押した。もう片方の手でアルフの手を掴む。
日が沈むと、先生たちが寮を一度見回りにくる。脱走なんて考えもしない初等部では、それさえクリアしてしまえば後のはどうとでもなる。だが、言い換えればその時だけはなんとしてもいなければならないのだ。
アルフが手を柵の間に入れたのを見て、結界を通り抜けさせようと目を閉じて感覚に集中する。
この世界の魔法というのは、イメージを魔力で形作る。それが複雑化し何かの外部的媒体を行使すれば、それは魔術と呼ばれる。杖や魔術書で魔法を使えば、それは魔術というカテゴリに入るのだ。あくまでも名称にかわりなく、そこまでこだわる人もいないが。
杖や魔術書は魔法の発動を補助するもので、例えば単純に魔力を込めただけでも、風属性の杖なら風属性の魔法が使えたりする。適性さえあればだが。イメージをより精密化するための魔術具なのだ。
魔法を介す媒体とはいっても、アルフの体は魔術具ではない。
むしろ、魔術具以外の物質に自分の魔力を伝えるのは難しい。自分の体から離れるだけ、単純に使う魔力とそれを押し出す魔力が必要になるのだ。
そしてその魔力は、人の中の器にある水と同じ。けれどその器は不安定な盆のうえに乗せられている。
不安定な盆は、精神や肉体。病を患えば魔力は零れるし、ショックを受けても器は揺れる。
アルフはヒロインと会うことができたし、わたしを友として愛称で呼んでくれた。目的は叶ったのだ。あとは無事に帰すのがわたしの役目だ。
アルフの体がじわじわと結界を通り抜けていく。アルフはまだその感覚が気に入らないようで眉を寄せていたが、しばらくして両足が無事地面についた。
人知れず止めていた息を吐き出す。同じく汗が額から垂れた。
アルフがだいぶ暗くなった空を見て焦ったようにわたしの手を引っ張る。
「おい……! 早くお前も……!」
「ごめん、アルフくん、先戻って」
繋いでいた手を離す。アルフが虚を突かれたような顔をしているのが珍しかったが、からかっている時間はない。アルフだけでもなんとか抜けさせられたし、早く帰ってもらわなければ。
アルフが手を伸ばそうとするが、肘辺りで止まる。それ以上は無理に通り抜けようとすると、流れ出た自分の魔力が逆流する。痛みが伴うので止めておいたほうがいい。
「なに言ってんの? ハティ、早く」
理解できないという表情のアルフだけど、もう分かっているはずだ。
こんな状態ではろくに結界も通り抜けられないこと。
「悪いけどもう無理。多分結界抜けられない。察知される。だからアルフは先に戻ってて」
「……お前がこっちきたら一緒に帰るよ」
戸惑うようにいうアルフに目を向ける。このままだと一人だけ説教されるわたしを気遣っているのだろうけど、そんなことは別にいい。
それよりここにアルフがいられちゃ困るのだ。他でもないわたしが。
「先に戻って」
「――ハティ」
「……アルフが抜け出したってバレたら共謀者のわたしがオルブライト家に潰されるだろうね。これはアルフを気づかってるんじゃなく、わたしのためだから。早く行って!」
それでも尻込みしていたアルフを睨むと、ようやくあいつは男子寮の方に駆け出していった。
まるで子供に言い聞かせる親みたいになってしまった。わたしの歳を考えれば、まああり得ない話でもないけど。
それよりもアルフにわざわざ家柄の話を出して、またわたしの中の汚い大人を見せてしまった気がした。アルフだって好きであの家に引き取られたわけじゃないし、むしろ父親には嫌悪さえしているのに。
ふーっと息を吐き出して、息を整える。
恐らくもうわたしに余力はないし、結界を通り抜けても察知され、すぐに教師が駆けつけてくるだろう。それでも一応全力でやるしかない。
右手を隙間に通す。じわじわと沈むような感覚に、魔力が吸いとられていくのが分かる。
この結界を通り抜ける行為は、一時的とはいえ結界を無効化しているわけで。結界無効化なんて技術は間違いなく初等部では習わないはずだ。初等部どころか、脱走の危険があるからアカデミーで習うかすら怪しい。習わないからこそこんなセキュリティが大甘なのだ。
わたしはこの方法を図書室の本で読んだわけだけど、普通に考えればあんな本が学園にあるはずない。綺麗な装飾で、他にもいくつかの珍しい魔法が載っていたが、あれはきっと商品としての本ではないはず。学園内の誰かが作って、こっそり図書室に紛れ込ませたのだ。誰が作ったのか、その真意は分からないが、ともかくあれを見ていてよかった。
まさか結界抜けがこんなに難しいとは思っていなかったけど、今日のことでちょっとでもアルフの力になれたならやすいもんだ。
体が三分の二ほど学園内に入ったくらいで、日が完全に沈んだ。暗い闇に飲まれるが、わたしには全然問題ない。むしろなんだか過ごしやすい気さえする。
するりと結界から抜けた足が地面についた。
あとは左手さえ結界を通り抜ければ、わたしは寮に帰れる。もはや見回りに間に合わないのは分かっているが、バレずにアカデミーに入れたらあとは適当になんとでも誤魔化せる。
切れそうになる集中力を必死で繋いで、最後に左手を、引き抜いた。
感覚で分かる。
――ああ、これは――失敗した。
バチンと何かに触れてしまったような感触が左手に残っている。多分これが魔力の逆流だ。このまま逃げてもいいけど、見回りのときにいなかったことでどうせすぐバレるだろう。
それに、もうわたしに走れる余裕はなかった。地面にへたりこむ。
つ、つかれた……。
何がこんなに疲労を感じさせるのか分からないが、これからはあまり結界無効化はしない方がいい。無駄に集中力使うし、通り抜けている間は無力だ。もっと秒単位で通り抜けられるようにならなければ、これを使うのは危険だと思う。
尻餅をついたままぼっと空を見上げる。ネオンもなにもない世界の、綺麗な星空だ。見知った星座は当然どこにもない。
結界抜けは失敗したが、今日抜け出したことは結果的によかった。ここでバレなければまた定期的に抜け出すことも考えていたけれど……。
「――ベルさん!」
遠くからわたしを呼ぶ声がする。わたしのクラスを教えている担任だ(名前は忘れた)。どうやら見回りの時にいなかったのと、結界に察知されたせいでわたしだと特定済みのようだ。
怠い体に鞭を入れて立ち上がる。
「あなた……っ、こっちに来なさい!」
手を捕まれて引っ張られる。
なんか、わたしが想像していたよりはるかに怒っている気がする。さすがに、退学にはならないよね? 今さら不安になってきた。
こ、これは抜けられるような結界を張ったのが悪いんであって、わたしは悪くない! 抜けられないようならあきらめてたのだから。怒られたらそういう責任転嫁しよう!
担任につれられて寮に入るのかと思いきや、横の教師用の宿泊寮に連れていかれてしまった。今女子寮に入ったらいなかったってほかの子にバレるしね。騒ぎになるのは避けたいんだろう。
宿泊寮の談話室に通される。
顔にかかるろうそくの灯りがどうにもわたしの眠気を誘ってくる。今ごろアルフはぐっすりだろうか。うーん羨ましい。わたしを待っているのは、ベッドじゃなくて説教だ。
「マデレーン様、お連れしました」
――明かりの灯った談話室には、先客がいた。
「あら、あなた――ええと」
『希代の魔術師』マデレーン。
ゲームには登場しなかった人物。
入学時に、わたしに闇魔法は隠すべきと言ったお姉さんだ。
黄緑っぽい髪がウェーブした、ボインのお姉さん。羨ましい。
「ハリエット・ベルです。マデレーン様」
手を後ろでまとめて会釈する。お姉さんは「そんなにかしこまらなくてもいいのよ」と笑った。
――後ろで立っている先生は不服そうな顔だが、これはもしかすると説教で呼ばれたんじゃ、ない?
お姉さんはソファから組んでいた足を下ろして立ち上がると、わたしの方に歩み寄ってきた。胸元の開いた服のせいで揺れが目に付く。
わ、わたしだって成長すればちょっとはマシになると思いたい。
お姉さんはわたしの後ろに目を向ける。と、さっきまで不機嫌で棒立ちだった先生が、わたしを睨みながら部屋をあとにした。目だけで退室を促すとは、何者。
「ハリエットさん? 素敵な格好ね」
わたしの全身を眺めてお姉さんが面白そうにつぶやく。忘れていたかもしれないがわたしは今ヒューのお下がりを着ているのである。
そういわれて、一つに結っていた髪をほどく。手ぐしで数回整えれば、わたしのストレートの髪はすぐに元通りになった。前世の寝癖が嘘のようである。
「このような格好で失礼します」
「……だからそんなにかしこまらなくっていいのよ? 怒ってるわけじゃないもの」
説教じゃなかった!
内心でガッツポーズしつつ、お姉さんに促されて向かいのソファに腰掛ける。くたくたの体には談話室のソファが天国に思えた。
そんなわたしを見て微笑みつつ、お姉さんが口を開く。
「それで、お話があるんだけど。私の結界を通り抜けたってほんと?」
「はあ……まあ」
「帰りはあいにくと触っちゃったみたいだけど、帰りがあるってことは行きは通れたのよね」
後半はぶつぶつとつぶやくようにお姉さんは言った。
あの結界ってお姉さんが作ったものなのか。まあ、希代の魔術師とか言われてるしね。
恐らくお姉さんは、結界抜けをどこで知ったかを聞きたいんだろう。わたしの家は平民だし、ヒューは魔法の才能がない。そのためアカデミーには入学してないし、おじさんも魔術関係の仕事をしてないことを考えるとその線も薄い。誰に聞いたか疑問に思うのも当然だ。
「結界抜けってね、今ではほとんど忘れられた魔法なの。結界を無効化――相殺するなんて、できる人も限られてるから。破って瞬間的に張り直す方が主流になったのよ」
……思ってたよりだいぶ希少な方法だったみたい。
アカデミーで習わないどころでなく、知る人の方が稀とは。
「言い方がきついかもしれないけど……あなたに魔法を創造するほどの魔力があるとは思えなくて。となれば自分で考えたんじゃないのよね?」
「はい、あれは……まあ」
「……まあいいの。あなたが言わないことも想定内よ。どうせ知っても使える人の方が珍しいし……あなたは稀な方ね」
お姉さんは嘆息すると、わたしに向かって眉を下げた。どことなく子犬っぽいお姉さんにそんな顔をされると答えてしまいたくなるのだが、あの本のことはさすがに言えない。
なんて言ったってまだまだ使えそうな魔法がいくつも載っていたのだから。結界抜けが珍しいものだとすると、他の魔法も期待できる。心の中でごめんなさいと唱えながら、わたしは話題を変えようと試みる。
正直早いとこ帰って寝たい。
「それで……お話は以上ですか?」
「ああ、そうね。あと一つだけ。ハリエットさんは聡明だから分かると思うんだけど、あなたの属性についてよ」
さっきとはうって変わって、真面目な顔になったお姉さんが身を乗り出す。わたしも真面目になりたいところだが、お姉さんが前のめりになったことで視線は……やや下に向いてしまう。前世でぼっちすぎてギャルゲに手を出したせいだ。深い意味はない。
気を引き締めてお姉さんに向き合う。
「属性についてはアカデミーでゆっくり教えれば十分だと思っていたのだけれど、あなたが結界抜けまでできるとなれば別よ。早急に抑える術を学ばないと――。勿論、秘密裏にね。放課後にこの寮の実習室を空けておくから」
「つまり、魔法を覚えろってことですか?」
「簡単に言えばね。覚えて良し悪しを明確にしてもらわなければ、この学園を守る身として安心できないわ」
つまり、やはり闇属性は危険視されるのだ。しかしまあぶっちゃけると、わたしは魔法を習えてラッキーだと思っていた。勿論悪用をするつもりはないが、それにしたってアカデミーの授業はつまらなすぎる。実用的な魔法の一つや二つ、覚えたっていいだろう。むしろわくわくする。
そんなわたしの内心はつゆ知らず、お姉さんは申し訳なさそうに謝ってソファから腰をあげた。
「明日には実習室があいてるはずだから、忘れずにきてね」
「はい」
そうしてわたしの長い一日は終わったのだった。